7月11日(日) 前半

 朝カンティーネの前を通りかかったら、テラスでテントを組み立てている。何があるのかと思ってカンティーネのレジーのお姉さんに聞いてみると、今日はカンティーネのお祭りが夕方からあると言う。昨日とうって変わって今日は何かいい日になりそうな予感。

 11時。フリードリヒと一緒に「花の乙女達」のソリストの代役の練習。6人の花の乙女ソリストの誰かが病気などで出られなくなった時の為の代役はコーラスから選ばれている。グラット女史が来ていた。グラット女史は、二年前の新国立劇場の「ローエングリン」ではドイツ語の言語指導と言う事で来ていたので、僕はてっきり言語指導の専門家だけの人かと思っていたけれど、実はこの劇場での彼女のキャスティングに関する発言権はとても大きいのだ。立場も「芸術的及びオーガニゼーションに関する事の、祝祭劇場総監督の補佐」という立派なもので、噂によると彼女ににらまれたらこの劇場では生きては行けないという。ということは僕のピアノも聴かれているのか?僕が妙に緊張して、いつもは省いている音もきちんと弾いているので、フリードリヒが不思議そうに僕を見ている。
 11時から、舞台では同時進行して「さまよえるオランダ人」のオーケストラ付の稽古が行われている。第一幕の舞台上で演ずる水夫達は全く声を発しない。歌っているのはオーケストラ・ピットの一番後ろに陣取った合唱団だ。ペーター・シュナイダーの指揮をマリーが中継して振っている。面白そうだからピットに行ってみんなに紛れて聴いてみた。ピットの中は物凄い事になっている。オケはガンガン弾くし、ピットは天井も低くて空気が悪く騒々しくて吐き気がしそうだ。よくオケの人達こんな所で長時間弾いてられるよなあ。
僕が小さいせいもあるが、団員の真中にいる僕からはマリーのペンライトなど全く見えない。
「ねえ、見えてんの?」
と回りの団員に聞いてみた。
「全然見えてないけどさあ、いいんだよ別に。雰囲気で歌っているのさ。」
おいおい、そんな事でいいのかい。でもまあ確かにそんなにずれてはいない。
後で客席に戻ってバラッチに、
「マリーのペンライトを見てない人が結構いますが。」
と言ったが相手にされなかった。アバウトだなあ全く。

 「さまよえるオランダ人」の音楽は、一幕ごとに切れているバージョンと、全曲休憩なしで第三幕まで続けてやるバージョンの二種類が存在している。バイロイトで上演されているのは通しのバージョンの方だ。そうすると幕間の転換の時間がかなり限られている。この転換の間は、テクニカルの人達にとってはまさに戦場だ。
 幕が閉まると作業明かりがパッと点き、「それ!」って感じで人々が舞台上に駆けつける。たとえば第一幕と第二幕の間だと、ノルウェー船とオランダ船がすばやく奥に引き取られると同時に舞台中央にレールが敷かれ、そのレールに乗ってゼンタの家が中央奥からゆっくり前に進んでくる。家の中にはすでに「糸紡ぎの合唱」を歌う女性達が乗っている。星の電球が天井から降りてくる。照明が再び変わる。あたりは一瞬にして幻想的な星空の真中にぽっかりと浮かぶゼンタの家の風景になる。その作業たるや迅速かつ確実で、見ていると驚いて我を忘れてしまいそうになる。幕が開くぎりぎりまでものすごく沢山の事をこなさなければならないので、ミスは決して許されない。とんでもない条件の中で彼らは働いているのだ。それを照明塔の上から見ていると僕達のやっている仕事なんてたいした事ないなとさえ思ってしまう。それほどここのテクニカルは凄い。人が言うように本当に世界一かも!

 第三幕の舞台上の合唱は、上手照明塔のフリードリヒと、下手の僕のフォローのコンビネーションがうまくいってピタッと合った。やった!うれしい!
オケ付舞台稽古が終わってみんな帰ろうとしたら、バラッチが、
「亡霊達は特別練習をするから残れ!」と言う。
来た来た!悪夢のしごきか?今日も亡霊達の合唱変な音だったもんな。中継している合唱練習室には小さいモニター・スピーカーしかなくて、合唱団員達は一度歌い出したら最後、もう自分達の声以外は何にも聞こえなくなってしまう。だから途中のちょっとの音程のずれが後になるにしたがって取り返しのつかない事態を引き起こすのだ。さっきも音程といいタイミングといい、オケときれいにずれていた。
 いつもは真っ先にピアノに座るマリーは、バラッチを怖がって僕にピアノを弾かせる。
でも、あらあら不思議!バラッチが目の前に立つともうそれだけで合唱団は良くなるんだよね。一回通したらバッチリ合っちゃった。そうなるとバラッチの機嫌も瞬間的に直っちゃう。「はい、お疲れ様!」ってあっさり終わってしまった。あれれ、って感じだ。


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