ローエングリン

 「ローエングリン」はワーグナーの中でも特異な作品である。ワーグナーが、何を思ってこの作品に「ロマンチック・オペラ」 というサブタイトルをつけたかは結局のところさだかではないが、もしかしたら彼は通常言われているところの、いわゆる「悲劇的オペラ」を書こうとしたのかもしれない。というのは、ここでは彼の他の作品に共通するところの「救済」が影をひそめているのだ。
 オランダ人はゼンタの死に至るまでの自己犠牲によって罪を贖われ、タンホイザーはエリーザベトにより、アンフォルタスはパルジファルによりそれぞ れ救済される。「マイスタージンガー」には自己犠牲や(ハンス・ザックスの胸中のエヴァへの想いは別として)救済はないが、ドイツの芸術と精神を高らかに歌い上げて終わる。「トリスタンとイゾルデ」にはLiebestod (愛の死)という究極のカタルシスがある。
 ところが「ローエングリン」にはそうした救いがないのだ。このドラマは徹底的な悲劇なのである。最後の歌詞は「Weh!」(ああ、悲しい!)なのだ。  「青髭公の城」や「七匹の子山羊」「夕鶴」など、昔から御伽噺などに繰り返し登場してくるテーマに「禁制」がある。代表的な展開は、たとえば主人公の主人にあたる人が出かける時、
 「これだけはしてはいけないよ。」
と言い残していく。しかし主人公はそのいいつけを破ってしまう。そして悲劇が起こり、主人公が罰を受けることとなる、といった単純なことだ。
 こうしたお決まりの展開が人を惹きつけてやまないのはどうしてであろうか?
「禁制」の物語の原点といったら何と言っても旧約聖書であろう。つまりアダムとエヴァの神話である。「創世記、失楽園」は人間存在の2つの根本原則に関わっている。 1つは、人間が自由意志を持っていること。それを人間に与えたのは、他ならぬ神である。
 もう1つは、そうやって自由意志を与えておきながら、同時に「禁制」をも与え、それを犯す行為に対して罰を用意した事である。「禁制」の侵害を「悪」とするならば、「悪」を犯す可能性を人間が神から与えられた事、ここに全ての悲劇の根源があるのではないだろうか?
 「ローエングリン」は、まさに「失楽園」のパロディーである。そうするとエヴァに相当するエルザをそそのかした蛇は、フリードリヒ・フォン・テルラムントとオルトルートとに割りふられる。オルトルートの出身地フリースランドは、昔から一種の魔境の地とされていた。キリスト教が北ヨーロッパに広まった時でさえ、最後まで異教を捨てきれなかった土地である。第二幕で、オルトルートがエルザに復讐を誓うシーンがあるが、その時に彼女が誓う対象はヴォーダンでありフライアであるのだ。
「決してたずねてはいけない。決して知ろうとしてはいけない。私の名と、私の素性を。」
エルザはローエングリンから強く言いわたされていた。しかし彼女はこの二人によって狡猾に誘惑される。好奇心と、妻としての夫への所有欲やプライドを徹底的に刺激された彼女は、ついに結婚式の夜に「禁制」を犯してたずねてしまう。ローエングリンは兵士達全員が集合したところで、自分が聖杯の騎士であることを告白し、去って行く。
 何故このような寂しい結末なのだろうか?何故カタルシスがないのだろうか?「失楽園」の神話だってキリストの救済とペアになって初めて成立するというのに・・・。
 だが僕は思う。ワーグナーがここで言いたかった事を理解する鍵は前奏曲の中にあると。
 「ローエングリン前奏曲」を始めて聴いた時の衝撃を今でも鮮烈に覚えている。高い高いところから光まばゆい実体がゆっくり地上に降りてくる。様々な色彩を放ちながら、やがて身の震えるような驚異的なクライマックスを迎え、再び静かに天に上ってゆく。何という清らかで崇高な音楽なのだろう。
 悲劇とはむしろ人間の側からの見解であって、ワーグナーが「ローエングリン」で本当に表現したかったのは、何物も犯す事の出来ない絶対的な存在そのものだったのかもしれない。それはローエングリンであり、聖杯であり、そしてキリスト自身なのだ。
 地上に降りるはずのないものが地上に降り立ち、そして地上に安住することが出来ずに去って行く。愚かなる人間は、その高貴なる存在を理解できず、その存在に対し罪を犯し、その存在のまわりに悲劇を作ってゆく。だがその存在は、傷つけられても傷つかず、汚されても汚れない。人類の悲惨さを悲しみながら、静かに天に帰って行くのみである。
 だから「ローエングリン」は悲劇でありながら、作品全体に流れる崇高なトーンこそがこの作品の命なのかもしれない。ワーグナーがネガティブなストーリー展開の背後に表現しようとした世界は限りなく高いものなのだと思う。だからこそ、かのルートヴィヒ2世もかくもこの作品に魅了されたのだろう。ワーグナーの作品は奥が深いとつくづく思う。

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