Bayreuth 2003

6月23日(月)
 フリードリヒは、他のアシスタントにはDuで呼んで、ファースト・ネームで呼び合うくせに、ずっと僕にはSieを使って、しかもHerr Misawa と姓で呼び続けていた。その事が僕にとってはちょっとした悩みだった。何故僕にだけ距離を置いているんだろう、と思ってちょっと悲しかったのだ。
そこで昨年のシーズンの終わりに、
「僕のことHiroって呼んで良いからね。」
と言って別れた。
そうしたら今年は会うなりHiroと呼んでくれた。でも今度は僕の方が、自分の上司である彼の事をファースト・ネームで呼んだものか迷ってしまった。とりあえず僕の方からはフリードリヒさんと姓で呼んだりしていたら、彼も間違ったふりして僕をSieで呼んでから、
「あっ、いけない。Duで良かったんだっけね。」
なんて探りを入れてる。
そこで朝会った時思い切って、
「おはよう、エバハルト。」
とDuと共にファースト・ネームで呼んでみた。そしたら、
「新国立劇場の合唱音楽監督、おはよう。」
とまた変な風にかわしたけれど、目がとても嬉しそうだった。
僕の方が彼より少し年上なので、きっと彼は彼なりに僕に対して敬意をはらって遠慮していたのだ。それでお互い突破口を見いだせないままここまできてしまったという訳だ。
 これでやっと心のわだかまりが取れた。そしたらなんだか急にお互いの距離が縮まって、仲良しになったような気がする。彼も折りあるごとに僕に親しそうに話しかけてくる。僕の中でのフリードリヒ像が根本的に変わるくらい、呼び方が違うだけでこんなにも関係って変化するんだとあらためて思った。
日本語だけがデリケートな言語だと買いかぶってはいけない。ドイツ語だってどうしてどうして、DuがSieに変わる時のこんなやりとりが存在するんだ。
また僕は最近、ドイツ人達が会話の中で使う「接続法」に注意をはらうようになった。ドイツ語を聞いたり話したりすることに少しゆとりが出来てきたせいだと思うが、自分からも折を見て使ってみるようになった。するとドイツ語の表現の幅が格段に広がった。直説法では言い表せないような様々なニュアンスが接続法では可能で、これを縦横無尽に使いこなせるようになるととても繊細な心のやりとりが出来るのである。
 繊細と言えば、日本語は確かに世界的に見てもその道の権威者である。たとえば相手が目上か目下かで使う主語(私、僕、君、お前、あなた)と語尾(です、ます、だ、だよ、)が変化する。ドイツ語では、一人称は誰と話していてもichだけだし、相手によって文法的に違う活用をすることはない。つまり、Ich glaubeは誰に対しても同じで、日本語のように、
「私は思います。」
「俺思うんだけどさあ。」
という表現の幅は存在しない。
さらにもっとややこしいのは言語で表しきれないいわゆる言外の表現というものなのである。
「京都のぶぶ漬け」というものはヨーロッパ人には考えられないだろう。つまり、お互いごく普通の言葉を交わしてなごやかにいるように見えながら、別れた後で、
「あの人は礼儀を知らない。」
などと非難される怖さは日本独自のものだ。
ドイツ語の接続法のあり方は、そうした日本語のデリカシーとちょっと違う。ドイツ語においては、相手が目上であれ何であれ、別に接続法を使わなかったからといって非難されることは決してない。直説法で何ら問題はないし、文法をよく知らないでヘタに接続法を使い始めてにっちもさっちもいかなくなるよりは、直説法で通した方が無難でもある。
でも接続法をきちんと使えるようになると、相手の自分に対する見方が明らかに変わる。接続法は、そもそもそれを使っている事によって、
「私はあなたにこういう言い回しをしているってことは、あなたに気を遣っているのですよ。」
というデモンストレーションをしているのである。一方受ける方も、自分に対して使ってもらって嬉しい場合はそのままお互い接続法の入った会話を続けるのも良し、逆にそんな風に気を遣わなくてもと思ったり、かえってうっとうしかったりした場合は直説法で答えれば、相手も、
「ああ、もっと気兼ねなく話したいんだな。」
と思って、即座にダイレクトな会話に変わっていく。
 SieとDuの使い分けもそうだけど、ヨーロッパ人にとっては人と人との距離をお互い決めるという事が、コミュニケーションを取る上でまず大切なことだ。 人によって他人と取りたい距離感が様々あり、それを確認した上で会話を進めていく。それはとりもなおさずいろんな人がいる事をあるがままで認め合う世界だと言う事も出来る。
日本は島国でみんなが共通の見解を持っている事が大前提である。だからいわゆる常識のある人を受け入れ、常識のない人は排除する傾向にある。使われる表現の多様さもそうした日本人が作り上げてきた常識から導き出されている。
語学はその言語の背景に横たわっている広大な文化と共にある。ドイツ語の勉強もそこまで踏み込んで行くとそのことによって逆に日本語と日本の文化を気づかせてくれることになる。語学は奥が深い。

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