志木第九の会 メンデルスゾーン エリア講演会
三澤洋史     

ユダヤ教の特殊性
 書物に残された民族の歴史がその起源において神の世界にさかのぼっていくのは、日本民族が高天原にさかのぼっていくのと同じだ。ユダヤ民族の歴史も、旧約聖書をよりどころにすると、楽園のアダムとエヴァにさかのぼる。
 旧約聖書は、イエス・キリストを中心とした新約聖書と比べると、かなり神話的要素を持ち、物語性が強い。しかし特筆すべきは、ユダヤ民族が、当時にしては珍しく唯一神を崇拝しているところである。エホバともヤーヴェとも呼ばれるその神は、大宇宙を創造した創造主であり、全ての善悪の裁き主でもある。日本神話やギリシャ神話あるいは北方神話など、通常の神話の神々が時には平気で罪を犯したりするように、おおらかな宗教観に支えられて存在しているのとは大きな違いである。

 それはおそらくユダヤ人達の砂漠の民族という特殊性の故かも知れない。農耕民族は自然の恵みを受け、自然と共に歩む。そうした世界観から生まれた宗教も穏やかでおおらかなものであろう。しかし砂漠や荒れ野を住処とする民族にとっては、自然は自分達の存在を脅かす脅威であり、克服すべき敵でもある。人間の善悪にこだわるのも、宇宙の根本神のイデーがあればこそである。一神教は、イエス・キリストの博愛と救済思想に受け継がれ、世界宗教へと飛躍する礎となる。

ダヴィデとソロモンの栄華
 ユダヤ民族が最も栄えたのはダヴィデ王とその子供ソロモン王の時代である。ダヴィデがユダ族の王になったのは紀元前1004年。彼が北方イスラエルの十の部族を統合し、イスラエルの統一を成し遂げたのは、紀元前993年と言われる。しかし、この時代にすでにイスラエルの衰退の芽が芽生えていたと言われる。それはダヴィデの道徳的な弱さに起因すると考えられている。実際、ダヴィデには8人の妻の他に10人を超える側女がいたという。

 有名なダヴィデの堕落の逸話として、ダヴィデが水浴する家臣の妻バテシバに惹かれ、彼女を自分のものとするために、夫を戦地に送って戦死させてしまったことが挙げられる。そのためバテシバが産んだ子供は呪われる運命に遭う。

 ソロモンは、ダヴィデとバテシバの間の子供だった。だからその外面的な栄華と裏腹に、イスラエルの衰退はすぐそこまで来ていたのである。列王記にはこう記されている。

ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し、全世界の人々が、神がソロモンの心にお授けになった知恵を聞くために、彼に拝謁を求めた。
彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心はダヴィデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダヴィデのようには主に従い通さなかった。

ユダヤ王国の分裂と預言者の時代
 ソロモンの死後、イスラエルはたちまち北王国と南王国とに分裂する。これは歴史の常であるが、分裂して勢力の分散した国は、たちまち周辺大国の思うがままの餌食となり、滅亡の坂を転げ落ちていく。

 エリア、エリシャ、アモス、ホセア、イザヤ、エレミヤなどの預言者と呼ばれる人々が活躍するのは、こうした分裂後の動乱の時代である。その中でもエリアは、神の言葉を語るだけではなく、大きな奇蹟を行った人物として、モーセ以来最大の預言者と言われ、キリストの先駆け的な存在でもある。

エリアとバール神
 エリアは、紀元前9世紀の中頃、北イスラエルで活躍したとされている。その生涯はバールを信仰する人達との闘争に明け暮れた。
 バール神に関する聖書の記述は、実はかなり前にさかのぼる。エリアが活躍した時代より300年以上も前の士師記で描かれている世界にもう登場している。

 バール神に関するひとつの物語がある。1928年、シリアの北の海岸線あたりで畑を耕していた農民によって、偶然に王宮遺跡が発掘された。これは紀元前2000年頃そのあたりで栄えていた都市国家ウガリットのものであることが分かった。ウガリットは、紀元前14世紀頃の大地震で崩壊し、さらにペリシテ人の侵入によって歴史から姿を消していた。
 遺跡の中からウガリット語によるバール神話が発見された。これによって、これまで謎に包まれていたバール神話の全容が明らかになってきたのである。

バール神は、「雲に乗る者」、あるいは「稲妻と雷雨の神」とも呼ばれている。バールの父はエール神と言って、もろもろの河川の源、大洋に君臨する神である。母はアシュタロテといい、豊饒の母。兄弟に洪水の神ヤム・ナーハルと死の神モトがいる。モトは火の空でもって、大地を焼き尽くす乾季の神でもある。
バールはこれらの兄弟と王権をめぐって争う。特にモトとの戦いでは、バールは破れ、大地はカラカラに干上がり荒廃する。しかしバールは蘇り、自分を慕う豊饒の女神アナトとの間に子供をもうける。

 バール信仰とは、元来農耕民族が大地の収穫と豊穣の実りを祈る素朴な信仰だったのかも知れない。見方を変えると、荒れ野と砂漠の民が崇拝する厳しい唯一神とは真っ向から対立する価値観であり、それ故に旧約聖書の世界では目の敵にされた感もある。だが、エリアの時代のバール信仰は、御利益宗教がもっと欲と結びついた邪悪なものと変貌を遂げていた可能性もある。豊穣の神アナトの花婿であるバールの敗北と不在が干ばつと飢饉をもたらすという言い伝えは、エリアとイスラエルの神との戦いの物語の伏線となっている。

アハブ王のバール奨励
 さて、エリアが活躍した頃の北イスラエルは、アハブ王によって治められていた。アハブ王は、バール神殿の司祭であったカナンのエトバアル王の娘イゼベルを王妃に迎え、バール神の擁護者となって、民衆にバール信仰を奨励していた。


オラトリオ「エリア」

第一部

 メンデルスゾーンのオラトリオ「エリア」も、バール信仰との戦いの物語である。冒頭のエリアの宣言。
列王記 第17章 1
私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わかしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。
 このエリアのレシタティーヴォでは、短いながら、このオラトリオ全体で重要な意味を持つ二つのモチーフが提示されている。
 まず最初の金管楽器によって奏されるモチーフは、シューベルトの「死と乙女」のテーマと似ていて、厳粛なる宣言を表現している。その後に現れるC-Fisという増四度の音程は、神の懲罰を表現すると言われる。

序曲
 それから序曲が始まる。この序曲の主題にもG-Cisという増四度音程が含まれている。これは飢饉によるせっぱ詰まった状況の表現でもあり、これからエリアが味わわなければならない試練をも現しているのかも知れない。この序曲は、管弦楽法や響きの上ではベートーヴェン的でありながら、主題の扱い方ではバッハ的と言える。
 主題はフーガ的に発展していく。途中主題の反行形が使われるなど、バッハの影響が見られる。メンデルスゾーンにしては珍しくデモーニッシュな曲である。

物語の進行
 その序曲から休みなく合唱の「主よ、助けてください!」に突入する。この合唱曲への入り方は見事である。
 オラトリオ・エリアは福音史家のような、物語を専門に語る人を置かないため、物語を様々な人に語らせる。それは合唱だったり、天使だったり、エリア自身だったりするのである。ここですぐにオバドヤという人物が登場し、物語を語る。

 アハブ王の宮廷長オバドヤは聖書によるとこう記されている。
オバドヤは心から主を畏れ敬う人で、イゼベルが主の預言者を切り殺したとき、百人の預言者を救い出し、五十人ずつ洞穴にかくまい、パンと水をもって養った。
そのオバドヤが第三曲目で登場し、イスラエルの民に改心を迫っている。
NO3. Rezitativ  NO4. Arie
NO5.になると、合唱が物語を引き継ぐ。
しかし、主はそれを見ず、我らをあざ笑う。呪いが我らの上に来て、我らが死ぬまで追いかけてくる。
 旧約の神は妬む神であり、これに背く者は末代までも呪われるが、これに従う者には何千年にも渡って幸福が訪れるとされる。
 この点は、日本人にとって最も理解が困難な点である。すなわち、神と人間が契約を結ぶということである。契約を守っている間は幸福であるが、もし破った場合は呪いが来るというと、なにやら恐ろしいカルト宗教のようである。しかし自己と神というものが、契約というものを通してある意味対立しているということは、自己というものを赤裸々に見つめる第一歩なのである。
 戦争や侵略によって自分の民族のアイデンティティーが崩れる危機を持たなかった日本人は、自己とも他者ともきちんと向かい合っていないとよく言われる。一方、ユダヤ民族は、自然にも脅かされ、周りの民族や国々から脅かされていた。自分達のアイデンティティーを厳しい戒律によって守る必要があったのだと思う。

 NO6.では天使が現れてエリアの行く道を示す。これは聖書ではこう記されている。
主の言葉がエリアに臨んだ。
「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしはカラスに命じて、そこであなたを養わせる。」
エリアは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽のカラスが彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んできた。水はその川から飲んだ。しばらくたって、その川も涸れてしまった。

やもめの女の息子を甦らせる
 また主の言葉がエリアに臨んだ。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」

 ここで、聖書によるとエリアはやもめのところに滞在したが、その間主の言葉通り、壺の粉は尽きることがなく、瓶の油もなくならなかったという。しかしこの記述は、このオラトリオでは割愛されており、一気にやもめの息子の死まで飛んでいる。
すなわち、エリアがやもめを訪れたとき、やもめの息子は死にかかっており、アリア(NO.
8)の途中で死ぬ。その後エリアの祈りの歌となり、息子が生き返るのである。そして二人の「主を畏れる者は幸いである」のデュエットとなる。この展開の方が劇的と言えるだろう。

 そして、そのままNO.9「主を畏れ、その道を行く者に幸いあれ」の合唱となる。こうした個から群衆へと発展していく構成を、メンデルスゾーンは「マタイ受難曲」を書いたバッハから学んだと言える。

バール神との対決
 さて物語はいよいよバール信仰者との対決に突入していく。まずこの部分のオリジナル、すなわち聖書の記述から紐解いてみよう。

多くの日を重ねて三年目のこと、主の言葉がエリアに臨んだ。「行って、アハブの前に姿を現せ。わたしはこの地に雨を降らせる。」
エリアはアハブの前に姿を現すために出かけた。

このオラトリオでは、これをエリア自身の口から語らせている。

エリア
誠に万軍の神は生きておられ、わたしはその前に立っている。
三年経った今日、わたしは王の前で、
主が地に再び雨を降らせるのを見せよう。

そして聖書の言葉となる。

アハブ        エリア、お前か、イスラエルを煩わす者よ。
オラトリオではその後に群衆がアハブの言葉を繰り返す。
群衆        エリア、お前か、イスラエルを煩わす者よ。

エリア
わたしではなく、主の戒めを捨て、バールに従っているあなたとあなたの父の家こそ、イスラエルを煩わしている。今イスラエルのすべての人々を、イゼベルの食卓に着く四百五十人のバールの預言者、四百人のアシェラの預言者と共に、カルメル山に集め、わたしの前に出そろうように使いを送っていただきたい。

いよいよ対決
 人々はカルメル山に集まった。そこでバールの預言者四百五十人を相手に、たった一人でエリアは戦いを挑む。戦いの内容はこうである。二頭の雄牛が用意され、裂いて薪の上に乗せられた。そこでお互い自分の神の名を呼ぶ。火をもって答える神こそ本物だというわけである。
 まずバール信仰をしている人達が祈り始める。NO.11合唱曲

この合唱曲の表情はすぐれている。その音楽はエリアの「もっと大声で叫べ!」という言葉(NO.12 Rezitativ und Chor及びNO.13 Rezitativ und Chor)に挑発されてますますエスカレートしていく。

 NO.14 Arie そしてエリアの番になった。彼はアブラハム、イサク、イスラエルの神、主に祈る。オラトリオでは、この後天使達の四重唱NO.15 Quartett が入り、その祈りが天に報われたことを示す。
 すると火が下って、雄牛はおろか、あたりにあった薪、石、塵をも、ことごとく焼き、溝にあった水までもなめつくしたという。
 NO.16 Rezitativ mit Chor 民衆は恐れおののき、「主こそ神なり。」と言ってひれ伏した。

厳しい処置
 ここでエリアは厳しい処置をする。彼は畏れひれ伏す民衆に向かって、
「バールの預言者どもを捕らえよ。一人も逃がしてはならない。」
と命じ、彼らが捕らえると、これをキション川に連れて行って殺したのである。なにも殺さなくてもいいだろうと思うのだが、考えてみるとその前にアハブはエホバの預言者たちを沢山殺しているというのだ。しかも、こうして四百五十人のバール教預言者を相手に勝利した後にも、さらにエリアが命をねらわれた(オラトリオ第二部)ことを考えると、仕方がなかったのかも知れない。

エリアは、アリアで神の裁きの激しさをエリアに語らせている。
主の言葉は火のようではないか?
岩を打ち砕くハンマーのようではないか?
主の元に立ち返らなければ、
主は剣を研ぎ、弓を張ってその者をねらうだろう。

それからアルト・ソロにこう語らせている。NO.18 Arioso
わたしを避けた者に災いあれ
わたしに背いたからには必ず亡びるだろう
彼らに災いあれ

宮廷長オバドヤが登場する
あなたの民を助けてください。異教徒の偶像の中に雨を降らせることの出来る者はいません。空もまた雨を降らせることは出来ません。ただ神のみがすべてを成し遂げられるのです。(NO.19 Rezitativ mit Chor)
と語らせている。この辺の言葉は全てオラトリオの創作である。

雨乞い
 それから雨乞いの場面になる。エリアは主に向かって祈る。
天を開き、降りてきてください。あなたの僕を助けてください。おお、わたしの神よ!
民衆も共に祈る。
天を開き、降りてきてください。あなたの僕を助けてください。おお、わたしの神よ!

そして、エリアは従者を呼び寄せ、彼に雨雲が来るかどうか見張りをさせる。雲はなかなか来なかったが、ついに手のひらほどの雲が海の彼方から現れ、広がり、やがて雨になった。

一同は神の恵みに感謝し、NO.20 Chor 第一部を堂々と終える。途中「波は高まり」という箇所で十六分音符による波の描写となる。

第二部
冒頭、オリジナルとの違い

 第二部冒頭はオラトリオではかなり変えられている。まずソプラノ・ソロが、神の言葉として、暴君の元で虐げられているイスラエルの民に向かって「主の言葉を聞きなさい!」と呼びかける。(NO.21 Arie)
聞きなさい、イスラエルの民よ
前半の慰めに満ちた曲調に対し、後半ではしだいに強い口調になる。
わたしはあなたがたの慰め主
だからわたしを避けるな
あなたを強めるのだから
何故恐れるのか?
あなたを創り、天と地を創造した主を忘れるとは
あなたは何者か?

NO.22 Chor
するとそれを受けて合唱が高らかに歌う。
恐れるな、と我らの神は言われる。
恐れるな、わたしはあなたと共にあり、あなたを助ける。
わたしはあなたの主人であり、神なのだから。

NO.23 Rezitativ mit Chor
そしてエリアはアハブに対し、こう言うのだ。

主が民の中からあなたを選び出し、そのお陰であなたはイスラエルの王となった。
しかしアハブ、あなたは誰にもまして、悪事を行った。
あなたはヤロベアム(新共同訳ではヤロブアム)の罪の中にあり、
バールの神殿を建て、イスラエルの神を怒らせた。Etc.

ここでヤロベアムは、ソロモンの死後北の十の部族を率いてソロモン朝に反旗をひるがえし、イスラエルの分裂を招いた人物である。

 こうしたエリアの言葉をアハブの王妃イゼベルが聞き、王妃が怒ったところから物語が再開する。しかし、実際の聖書ではこう記されている。

アハブは、エリアの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。イゼベルは、エリアに使者を送ってこう言わせた。
「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
それを聞いたエリアは恐れ、直ちに逃げた。

エリアは逃げたのである。オラトリオとは随分ニュアンスが違う。さてもう一度オラトリオに戻る。

王妃の扇動
 王妃は民衆を扇動する。ここはまるでデモなどのシュプレヒコールで先導者に民衆が答えるようで面白い。

王妃    彼は、バールの預言者達を殺した。
民衆    あいつを殺せ!
王妃    彼は、彼らを剣で刺し殺した。
民衆    あいつを殺せ!
王妃    彼は天を閉ざした。
民衆    あいつは天を閉ざした!
王妃    彼は我々に飢饉をもたらした。
民衆    あいつは飢饉をもたらした!
王妃    行ってエリアを捕らえよ。
 彼は死に値する。
 彼を殺しなさい。彼が(バールの預言者達に)したように。

そして、NO.24の激しい合唱がくる。
エリアに災いあれ!彼は死なねばならぬ。

この展開はとてもドラマッチックで、勿論聖書のオリジナルよりも劇的にはふさわしい。さらに宮廷長オバドヤが登場し、エリアに忠告する。
NO.25 Rezitativ
王妃は言っている。エリアは死に値すると。だから荒野に逃げなさい!

 こういう展開にすれば、エリアは弱虫とは映らなくなる。でも私は個人的に弱虫でもいいと思う。かつてバールの預言者達と火の対決をした時、四百五十人に対してたった一人で立ち向かった彼は、ここでも民衆に守られることなく、孤独で果てしない戦いを強いられている。彼が弱気になったとして、一体誰がそれを責められようか。

荒野にて
  NO.26 Arie このアリアは悲痛な表情を持っているが、メンデルスゾーンらしい歌謡性に満ちている。このオラトリオ中の名曲である。
 この曲は、緩急緩の構成といい、歌詞の内容や主題のモチーフといい、バッハの「ヨハネ受難曲」のアルトのアリア「それは成就した」の影響を受けていると思われる。歌詞も、Es ist vollbracht に対し、Es ist genugである。

 聖書によると、エリアは荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。そして一本のえにしだの木の下に座り、自分の命が絶えるのを願って言った言葉が、このアリアの歌詞となっている。
主よ、もう充分です。私の命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。

 釈迦が悟りを開いた後も、同じ気持ちになったという。自分の悟りと俗世間との隔たりは果てしない。衆生を真理に導けるかどうか、自分には全く自信がない。それどころか、自分は反対する人々によって追われる身となるかも知れない。このまま極楽に連れて行ってもらったらどんなにかよいかと梵天にお願いしたところ、衆生を導くためにお前はこの世に生まれたのだから、命ある限り真理を述べ伝えるようにと梵天は言ったという。

 さて、エリアはえにしだの木の下で眠ってしまった。列王記ではこう記されている。
彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」
見ると、枕元に焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリアはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。
主の御使いはもう一度戻ってきてエリアに触れ、
「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ。」
と言った。エリアは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。エリアはそこにはあった洞穴に入り、夜を過ごした。

 オラトリオでは、エリアが得た食べ物のことには触れず、御使いは三人の天使の美しい三重唱となっている。
NO.28 Terzett
目を上げ、山を仰ぎなさい
助けはそこからやって来る
主は、あなたの足がぐらつかないよう

眠ることなく守ってくださる
その後にまた美しい合唱が続く。
NO.29 Chor
見よ、イスラエルの守護者は
眠ることもまどろむこともない
あなたが不安の中を歩むとも
主はあなたを元気づけてくれる
このあたりの美しさは、メンデルスゾーンの独壇場である。

この後、エリアは「おお主よ、わたしは無益に役にも立たず、力を使い果たしました。」のレシタティーヴォでもう一度だだをこねる(NO.30 Rezitativ)。天使はそれに対し、
「静かに主に向かい、じっと主を待ちなさい」(NO.31 Arie)と静かに諭す。さらに「最後まで待ち望む者は幸いである」の合唱曲(NO.32 Chor)が続く。これも美しい曲である。この辺のやりとりは、オリジナルの聖書には全くない。

エリア、神と遭遇する
 次のNO.33 Rezitativあたりから、いよいよエリアと神が出逢う、この物語のクライマックスとなっていく。
NO.34 Chorはドラマチックな表現力を持つ。
天使が、エリアに洞穴を出て山に登り、主の前に立つよう命ずる。列王記はこう記している。
見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂 き、岩を砕いた。しかし風の中に主はおられなかった。
風の後に地震が起こった。しかし地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。しかし火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリアは外套で顔を覆い、出てきて、洞穴の入り口に立った。

そして神が近づいてきた。このオラトリオでは、天使たちの「聖なるかな」を置くことによって、よりドラマチックに描かれている。
NO.35 Rezitativ  Quartett mit Chor
彼の上ではセラフィムたち(最高位の天使たち)が互いに呼び交わしていた。
聖なるかな
聖なるかな
聖なるかな
万軍の神なる主
全地は神の栄光に満ちている

列王記を読むと、エリアと神との遭遇はごくあっさりと書かれている。

そのとき、声はエリアにこう告げた。
「エリアよ、ここで何しているのか?」
エリアは答えた。
「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
主はエリアに言われた。
「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたら、ハエザルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。ハエザルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バールにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」

NO.36 Chor und Rezitativ
オラトリオでは、天使の後、合唱が神の言葉としてエリアに告げる。
もう一度引き返しなさい!
まだバールに屈しない七千人がイスラエルに留まっている。
と命ずる。エリアは、
わたしは主の力によって向かいます。
と決意し、山を下りていく。

その後のエリア
NO.38 Chor
 エリアは聖書によれば、その後もいくつかの活躍をしているが、オラトリオでは具体的にはここまででエリアの物語は終わっている。これから終曲までは、エリアの生涯が総括して語られたり、神への賛美が行われる。
合唱はエリアの生涯を総括して語る。
預言者エリアは、突然火のごとく現れ、彼の言葉は松明のごとく燃えた。
彼は誇り高い誇り高い王達を倒し、
シナイ山で未来の罰を、
ホレブ山ではその復讐を聞いた。
そして、主が天に連れて行こうとしたとき、
見よ、そこに炎の馬たちが牽く炎の馬車が現れ、
彼は嵐の中を天に向かって行ったのだ。

エリアがホレブ山で神と遭遇した後の生涯について列王記からすこし紐解いてみたい。
アハブの死後、アハブの子アハズヤは五十人隊の長を、その部下五十人と共にエリアのもとに遣わした。隊長がエリアのもとに上って行くと、エリアは山の頂に座っていた。隊長が、
「神の人よ、王が『降りてきなさい』と命じておられます。」
と言うと、エリアは五十人隊の長に答えて、
「わたしが神の人であれば、天から火が降って来て、あなたと五十人の部下を焼き尽くすだろう。」
と言った。すると天から火が降って来て、隊長と五十人の部下を焼き尽くした。

 アハブは同じ事をもう一度するが、やはり同じように天から降って来た火によって隊は全滅してしまう。三度目には隊長がエリアに命を助けてくれと懇願するので、エリアは降りていって、アハズヤに会う。この記述があったので、後にエリアと並び称されるキリストが十字架に架かった時、ユダヤ人達が、「天から火が降って来て自分達が焼き尽くされるのではないか?」と言って恐れおののいたのである。

エリア、天に上げられる
 さて、聖書によると、エリアは普通の人間のように死を迎えず、天にあげられたとある。
主が嵐を起こしてエリアを天に上げられたときのことである。
見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、エリアは嵐の中を天に上って行った。エリシャはこれを見て、
「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ。」
と叫んだが、もうエリアは見えなかった。
エリアの着ていた外套が落ちてきたので、エリシャはそれを拾い、ヨルダン川の岸辺に引き返して立ち、落ちてきたエリアの外套を取って、それで水を打ち、
「エリアの神、主はどこにおられますか?」
と言った。エリシャが水を打つと、水は左右に分かれ、彼は渡ることが出来た。
エリコの預言者の仲間たちは目の前で彼を見て、
「エリアの霊がエリシャの上にとどまっている!」
と言い、彼を迎えに行って、その前にひれ伏した。

NO.41 Chor  NO.42 Schlusschor
オラトリオNO.41 Chor では、
一人の者が北方(真夜中の方向)で目覚め、
東(日の出の方向)からやって来る。
とエリアを讃える歌を歌う。
その後美しい四重唱が続く。
さあ、渇きを覚えている者は水の所に来なさい
主の所に来なさい
そうすればあなた達は命を得るだろう
さらにNO.42 Schlusschor終曲では、
エリアと神を高らかに讃えて終わる。
かくして、あなた達の光りは朝焼けのように突然現れ
あなたたちの傷は急速回復するだろう
主よ、我らの統治者よ
あなたの名は、全地でなんと輝いていることだろう
人は天においてあなたに感謝する
アーメン

エリアが語りかけるもの
 さて、私達はエリアの生涯を追ってきたわけだが、エリアとは結局のところ何者だったのか?現代の私達にエリアが語りかけるものというのは何なのか?これを探ってみないことには、エリヤの物語というのは私達とは何の関係もなくなってしまう。

マタイによる福音書第17章
イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光りのように白くなった。見ると、モーセとエリアが現れ、イエスと語り合っていた。

ペトロが口をはさんでイエスに言った。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てさせましょう。一つはあなたのため。一つはモーセのため。もう一つはエリアのためです。」

ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」
という声が雲の中から聞こえた。弟子達はこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。
「起きなさい。恐れることはない。」
彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかには誰もいなかった。

四十日の意味するもの。
 聖書の中では、しばしば四十日という言葉が出てくる。モーセがシナイ山で四十日四十夜過ぎた後、神より契約の板を渡される。
 一方、キリストは洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、悪魔の誘惑を受けるため四十日間荒野に入った。キリストは四十日の間何も食べずに断食した。そうした事柄を受けて、教会では、キリストの復活祭の前にキリストの受難と自らの罪に思いを寄せて、断食や節制をする「四旬節」と呼ばれる期間をおく。復活祭の四十日前が「灰の水曜日」と呼ばれる懺悔と断食の日。その前の日の火曜日は、これから肉食が出来なくなるために、肉をたっぷり食べておこうとする謝肉祭なのである。
エリアもホレブ山に着くまで四十日かかっている。
これらの全てのことから、モーセ〜エリア〜キリストという三人がつながっていることが分かる。

預言者の弱さ
 偉大なる預言者が出現する時は、いつもその国が危機の状況にある時である。預言者とは神の言葉を預かる者。人々は、預言者を通して神の意志を知る。一方、民衆はいつも神の意志を知らず、これを知ろうともしないので、預言者は、しばしば報われない生涯を送る。
 それでもエリアは強く生きていたけれども、彼といえども一度は弱気になり、もう自分の命を取り上げてくださいと神に祈っている。イエスも、受難という過酷な運命の前に、有名な「ゲッセマネの祈り」で、神に「出来ればこの杯を遠ざけてください。」と祈っている。
 このように預言者といえども、常に「自分の強い意志で」行動しているわけではない。むしろ、自分の弱さをそのまま神の前に投げ出している。そのことによって、助けは神自身からやって来る。
 よく、
「弱いから宗教に走るのだ。宗教などに頼らず、強く生きていくのだ。」
と言われるが、本当に強い人など誰もいない。人間はみんな弱いのだ。強いと思っているのは、自分の弱さをありのままに見つめようとしないだけだ。
 また、強く生きていくのはいいが、「強いけど性格悪い」ようになるのが人間として正しい生き方なのか?人はよく、自分を守るために必要以上に攻撃的になったりする。しかし私は、自作ミュージカル「おにころ」で、本当に強い人とは、憎まれても憎まず、ただ愛を貫き通す人のことだと歌った。

エリアの弱さと強さから、我々は学ぶべき事が多い。
 神と共にあり、神にゆだねる人生。我々は、自分の生まれてくる時も、死ぬときも選べず、明日の運命も知らず、ただ浮き草のようにただよう人生を送っている。しかし、空の鳥は、種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めることもしないが、神の御心のままに無心に生きている。我々も明日の命を煩うことなく、淡々と生きていきたい。
 それと、我々は人から賞賛を受けるために生きているのではない。なるほど、自分のしたことを周りが理解し、褒めてくれたら嬉しい。だが自分自身でさえ自分自身を理解できてないことが多いのに、他人が自分を100%理解してくれることなどあり得ない。むしろ我々は「天に宝を積む」と思って、淡々と自分の正しいと思った道を行くべきである。そして迷ったら素直に神に悩みを投げ出すことである。

演奏会を終えて
 ここにきて、まさにオラトリオ「エリア」で語られている事が、最もタイムリーに我々に意味を持ってきた。すなわち、現代においてのバール信仰とは拝金主義なのだということだ。拝金主義という言葉にピンとこなかったなら、経済原理という言葉に置き換えたら分かるだろう。
 現代社会に最もはびこっている宗教とは経済原理なのである。何故こう言うかというと、今や経済原理は人の命よりも尊く、全てを越えて最優先されているからだ。
 耐震構造設計偽装事件を見てみるがいい。いろんな立場からいろんな人が自己弁護しているが、鉄筋を減らせと強要したとかしないとかいう不毛な責任のなすり合いの中で、どこからも、これでは人の命があぶないとか、安全性が確保できないとかという話が出なかったこと自体が異常なのである。人の命よりもコスト削減の方が先なのである。この常識自体が異常であり、これはもはや信仰であり、宗教である。

 一級建築士は何のために構造計算を覚えたのか?それは、どうすれば安全な建物を建てることが出来るか知るためではなかったのか?そして、それを他の人達よりも知っている一級建築士は、誰も何も言い出さなくとも、自らの信念で安全な建物を設計する義務があるのではないか。
「鉄筋を減らさないと他の事務所に変えると脅された。」
と言うが、それは脅されたのではない。ビジネスの世界では当たり前のことである。それでも自分の信念で守り通すのが人の道というものではないか。

 たとえばプライドを持っておいしい料理を出そうと努力しているレストランがあるとする。そこは他の二流のレストランよりも高い。お客は我が儘に言うだろう。
「ここは高いね。他のレストランだったらもう少し安い。他のレストランに行ってみようかな。」
 それは別に脅しではない。お客にも自由にものを言う権利があるのだ。しかし問題はそれに対する態度である。つまりそこで、他の二流レストランと同じような安い材料を使って味を落としてでも値段を下げるか、つまりお客に迎合するか?それとも、お客がなんと言っても、コストが高く付いても、厳選した食材を仕入れ、時間をかけて丁寧に作ってそのクォリティーを守っていくかは、オーナーやシェフの信念にかかっている。
 レストランだったらまだ可愛い。鉄筋を減らしたら人の命に関わる。それを知りながら偽装工作を行った建築士は、ある意味殺人者である。そして、それを知りながら任せていたいくつかの会社も共犯者である。

 こうした恐ろしい拝金主義がまかり通っている現代社会においては、心ある者は、やさしくしているだけでは駄目なのである。時には、エリアのように戦ってでも、自らの信念を守り通さなければならない。「戦う人エリア」とは、今こそ求められる人物像である。みんなが自分に反対しても、誰にも認めてもらえなくても、それでも自分の正しいと思った道を行くことが、これからの日本には必要なのである。
 終身雇用も常識ではなくなり、会社が自分を守ってくれるというのも幻想だと人々は気づき始めた。最終的には個人の価値観であり、個人のモラルに帰するのだという、当たり前の原則に我々は立ち戻るべきなのである。
そういう意味でも、現代にこそエリアは大きな問いを我々に投げかけている。

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