弱き故の強さ
三澤洋史     

 メンデルスゾーンは、預言者エリアに対して、かなり思い入れがあったらしい。彼は、このオラトリオ の作詞をした神学者シュープロングに宛ててこんな手紙を書いている。

私はエリアのことを、現代にあって再び必要とされる、正しく非の打ち所のない預言者だと思っていた。強く、情熱的で、義憤を持ち、時に激しく怒るエリアの姿は、現代の貴族的あるいは市民的なぬるま湯の対極にあるのだ。

すなわち、メンデルスゾーンは、このオラトリオで当時の生ぬるい世界に“喝!”を入れようとしたのだ。

 旧約の預言者という、どちらかと言えば日本人にはなじみが薄い主人公エリアに、これほどの共感を覚える背景には、メンデルスゾーンがユダヤ人であるということも関係しているだろう。しかしエリアという預言者は、聖書の世界ではモーセとキリストの間にあって実に重要な存在なのだ。

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子達に、
「人々は、人の子(イエスのこと)のことを何者だと言っているか?」
とお尋ねになった。弟子達は言った。
「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリアだ』と言う人もいます。
マタイによる福音書 16章13〜14

イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光りのように白くなった。見ると、モーセとエリアが現れ、イエスと語り合っていた。
マタイによる福音書 17章1〜3節

また、イエスが十字架につけられた時、ユダヤ人達はエリアが彼を助けに来るのではないかと怯えた。
イエスは大声で叫ばれた。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、
「この人はエリアを呼んでいる。」
と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、
「待て、エリアが彼を救いに来るかどうか、見ていよう。」
と言った。
マタイによる福音書 27章45〜49節

 こうしたことを見ても、イエスの時代のユダヤ人達が、イエスをエリアに結びつけて考えていたことが分かる。
 聖書の中で大きな奇蹟を行った三人は、モーセ、エリア、イエスである。その内、モーセとエリアは、共にシナイ山で神と出遭っている。しかし、ユダヤの民を率い、政治的指導者としても活躍したモーセと違って、エリアは奇蹟にしてもその行動にしても、人々に神の存在を指し示す為だけに奉仕した感がある。その意味では、エリアはむしろモーセよりもイエスに近いと言える。イエスはエリアの考えをさらに発展させ、「敵をも愛せよ」と説く“博愛”の思想を示し、奇蹟もそのほとんどを“癒し”の為に行った。

 ユダヤの国は、ダビデ、ソロモン王による空前絶後の繁栄の後、北イスラエルと南イスラエルとに分裂して乱れていた。その早過ぎるとも言える衰退の原因は、王達が愛した外国人妻や側室がもたらした異教が国の中に進出し、それによって価値観の共有や団結心、民族的アイデンティティーが崩れ始めたことにあったと言われている。南北に分かれて求心力を失った国は、当然のごとく隣接する列強国の餌食となって滅亡へ向かっていく。
 そんな中、北イスラエルのアハブ王は、バール教の司祭の娘イゼベルを后に迎えた。妻の影響で、アハブ王はユダヤ教の神エホバを軽んじ、国中に広くバール教を奨励した。エリアが現れたのはそうした最中である。だから彼の一生はほとんどこのアハブ王及びバール教との戦いに明け暮れた。

 エリアは、どこまでも強い英雄のように言われているが、私が深く感銘を受けるひとつの出来事がある。それは、このオラトリオでは第二部の前半で表されている。
 わずかひとりで450人ものバール教司祭を相手に信仰合戦をして勝利したエリアであったが、それでもなお、王はおろか民衆もエリアに敵対している。エリアは絶望し、荒野に逃れる。そして神の前にこう嘆くのである。
「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。」

 メンデルスゾーンはこのセリフに素晴らしい音楽をつけた。私も、今回の演奏会でこのアリアをオラトリオ全体の中心に置こうと思うのだ。何故なら、ここに私はエリアの“強さ”の秘密を見るからなのである。
エリアが強いのは、自分を過信しているからではないのだ。エリアの強さ。それはどんな時にも神の前に自分のありのままを投げだしているその子供のような素直さから来ているのである。

 イエスも受難に向かう前の晩、ゲッセマネの園において、神にこう祈っている。
「主よ、出来ればこの杯をわたしから遠ざけてください。」
 なんと正直な祈りだろう! これをイエスの弱虫と言って笑うなかれ。むしろこうした祈りが出来るほど神に何でも話しかけているその親密さをこそ羨ましく思え。

 エリアは、祈りの後、天使からお告げを受け、やがて神と遭遇して力を得る。そのきっかけが、先の“絶望の祈り”なのである。
 神の元では、しばしばこうした逆説的展開が起きる。弱き者は助けられ、弱き故に力を得る。こうした事実こそ、信仰者は絶対に見逃してはならないのだ。

 遠い昔のエリアの物語が、現代の我々に何かを語りかけてくるとすれば、そこには必ず時代を越えた“真実”がある。そしてその真実を感受するのは、我々の中の子供のような素直な心である。自らの弱さをも隠そうともしない素直な心は、地上の重さから離れ、神へと届く。みなさんも心を開いて、エリアの「もう十分です」の叫びを聴いてみて下さい。音楽の向こう側にきっと耳で聞こえない何かが聞こえてくるはずです。

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