京都ヴェルディ協会講演会 原稿「オテロ」
三澤洋史     

「オテロ」が生まれるまで
 ヴェルディが、彼の最後から二番目の作品「オテロ」を完成したのは1886年。ヴェルディは73歳になっており、常にライバル視され、比較されていた ワー グナーは、すでに3年前の1883年に没していました。
この頃のヴェルディの創作意欲は極端に衰え、オペラとしての前作「アイーダ」からは、なんと15年も経っていましたし、その間に書いた大きな作品は 1974年に初演されたレクィエムのみでした。そのレクィエムからも12年も経っているのです。

 その間ヴェルディは何をしていたのでしょう。彼は「アイーダ」で大成功を収め、オペラ作曲家としての地位を不動のものとした後、サンタ・アガタの別荘で の んびりと田園生活を楽しんでいたようです。「アイーダ」は各地で上演され、ヴェルディの臨席を求める声は相次いでいましたが、彼はそれをことごとく断って いたといいます。

 もしこのまま彼が筆を折ったまま亡くなっていたとしても、ヴェルディの名前は同じように後世に残ったでしょう。「リゴレット」の革新性から「ドン・カル ロ」の円熟に至るまで埋め尽くされた珠玉の作品群だけでも、ヴェルディの音楽史上の地位を確保するのにいささかの不足もありません。むしろそういう意味で は、「オテロ」と「ファルスタッフ」の二作は、“もし存在しなかったとしても差し支えない作品”ではあります。

 何故なら、この二つの作品は、ある意味でヴェルディらしくない。あるいはこれまでのイタリア・オペラらしくないと言えるのです。
ワーグナーが早くから番号付きオペラを捨て、ドラマと音楽との融合をめざしたことを横目で見つつ、ヴェルディは「アイーダ」に至るまで番号付きオペラに固 執しました。
ワーグナーがライト・モチーフと呼ばれる短いモチーフを使って音楽を構築している間に、ヴェルディは、あくまでまとまったメロディーを大切にしてオペラを 形作っていきました。舞台上に人が溢れ、合唱も交えたコンチェルタートと呼ばれる部分を第三幕の終わりに配置し、グランド・オペラを指向していたヴェル ディのオペラ作りの技法は、まるで意固地になっているように、ワーグナーの楽劇に対して、すなわちドイツ・オペラに対抗してイタリア・オペラの世界を守り 続けたように私には感じられます。

 それをヴェルディは、「オテロ」で捨てました。勿論全部捨てたわけではありませんが、「オテロ」の作風を見る限り、明らかに心境の変化が見て取れます。
15年ものブランクがあるのですから、次に作った時に心境の変化があって当然です。一般には、「ドン・カルロ」あたりからワーグナーの影響というのが言わ れていて、「オテロ」では、なおいっそうそれが進んだと言われていますが、私は単純にそう言い切ってしまうのには抵抗があります。

オテロの音楽的新しさ
 さて本日の講演は、「オテロ」の新しさとその原因追及から入っていきましょう。まずこれを聴いて下さい。

(「オテロ」第二幕冒頭を演奏)

これは「オテロ」第二幕の冒頭です。「これは実に新しい!」と私が言っても、みなさんは何のことか分からないでしょう。まずこの短いモチーフに注目して下 さい。それから次を聴いてみて下さい。

(ここで第二幕の冒頭からイアーゴのクレードの前まで演奏しながら、モチーフがどう使われ、発展していくかを語る)
音資 料1 第二幕冒頭

 このようにひとつのまとまったメロディーではなく、短いモチーフを縦横に使って音楽を形作っていく手法をヴェルディはここで使っています。こうした手法 は ドイツ音楽でさかんに使われました。最も有名なところでは、ベートーヴェンのこういう音楽があります。

(ベートーヴェンの運命交響曲の冒頭を演奏。短いモチーフが発展し変奏され、様々な表情をもった楽曲が出来上がっていく過程を描く。)

 短いモチーフを使う名人といえば、なんといってもワーグナーです。でも私はこうした使い方を簡単に「ワーグナーだけからの影響」とも言いたくはありませ ん。ヴェルディはこの手法をワーグナーだけから学んだわけではないでしょう。それを言うなら、ドイツ音楽から学んだと言った方が適切な気がします。
その証明として、彼が「アイーダ」の後に書いた弦楽四重奏では、厳格なフーガが見られますし、レクィエムでも随所に素晴らしいフーガあるいは対位法的楽曲 の箇所があります。

 私の推測では、ヴェルディは「アイーダ」を書いて名声を確立したことによって、従来通りの“オペラを書くという重圧”から完全に解放されて、音楽に対し て “より自由な立場”になったのではないでしょうか。だから彼にとって唯一の器楽曲弦楽四重奏やオペラではないレクィエムを書いたのでしょう。
ヴェルディは、全くプライベートな目的の為に書いた弦楽四重奏が評判となり、各地から演奏の申し出があったのを断り、「私の考えでは、弦楽四重奏曲はイタ リアの気候に合わない植物です。」などと言い訳をしています。ということはドイツ的というか非イタリア的なものをわざわざ自分から作ったということでしょ う。

 さて、ワーグナーの影響についてはまた後で語りましょう。とにかくヴェルディは、長い沈黙を破って新作「オテロ」を発表しました。私は今回この講演の為 に あらためて「オテロ」全曲を聴き直してみましたが、本当に素晴らしい作品です。これまでヴェルディの全ての作品で何を一番指揮したいかと聞かれたら迷わず 「ドン・カルロ」と答えていましたが、今は塗り替えられました。「オテロ」こそ、指揮者としては一番振ってみたい作品となりました。
その音楽の新しさを説明しましょう。先ほどの第二幕冒頭の続きに、有名な「イアーゴのクレード(信仰告白)」があります。これを聴いて下さい。

(クレードの演奏とアナリーゼ)
音資料2 Credo

名作のオペラ化
 ヴェルディは早くからシェークスピアの文学に興味を示していました。シェークスピアには、人間を冷徹に見据え、その内面を深く掘り下げていくリアルな視 点 があり、それが彼の“生身の人間を描く”指向と一致していたのです。
しかし実際には、若い頃に「マクベス」を書いたきり、この晩年の「オテロ」まで作曲はしていません。彼はずっと「リア王」をオペラ化したいと考えていまし たが、それはついに叶わぬ夢で終わってしまいました。
ともあれ、書きたい作品を書きたい時に書いていい境遇になって、作ったものが「オテロ」「ファルスタッフ」と二つともシェークスピアであるという事実には 意味深いものがあります。

 シェークスピアの悲劇というのは、あまり格好の良くない悲劇であることが多いのです。「マクベス」もそうですが、「オテロ」では「壊れていく英雄」が描 か れています。
「マクベス」では、権力者になりたいという出世欲が、殺人を呼び、次の殺人を呼び、自らを滅ぼしていきます。「オテロ」ではもっと格好悪い。すなわち嫉妬 です。初めは針の穴ほどの亀裂がだんだん広がっていって、最後には取り返しの付かない事態に発展していきます。そうした破滅を導き出す役割を担うのは、 「マクベス」では魔女、「オテロ」ではイアーゴですが、これはいわゆる自分の内面の声と解釈してもいいのです。
そういう意味では「オテロ」は内面の劇、あるいは心理劇としての性格を持っています。

 シェークスピアの戯曲を読んでみれば分かりますが、とても言葉が多い中で、英雄オテロの内面がしだいに蝕まれていって破滅に至る過程が克明に描かれてい ま す。しかしオペラでは、そんな風にデリケートに描くことは出来ない。ロゴス、すなわち言葉の力を最大限に駆使する演劇と違って、オペラは、歌唱とオーケス トラとで大きな感情の流れを表現することには長けていますが、微妙な心理の綾などを描くのはあまり得意ではありません。
そのため、「オテロ」をオペラ化するにあたって、重要なポイントの変更を余儀なくされました。これを探ることは、オペラが一体何を表現する芸術であるのか を追究する格好の材料になると同時に、オペラの限界を暴き出すことにもなると思います。
「オテロ」の台本作家アッリーゴ・ボーイトは、自身が作曲家でもあり、すぐれた詩人でもあったので、音楽の力とドラマとの融合をヴェルディから最大限に引 き出すことに成功しました。

 シェークスピアの原作は、五幕ものですが、ボーイトはまずこの第一幕をばっさり切って、原作の第二幕に相当する部分からオペラを始めました。イアーゴの オ テロを憎む動機とか、必要最低限の情報は第二幕の中で登場人物によって語られますが、いくつかの大事な情報は、そのことによって伝えられないままオペラが 始まることになります。
しかし、このオペラの冒頭はオペラとすれば素晴らしい開幕です。ヴェルディは、「運命の力」などで示したような序曲を置かず、単刀直入にドラマの中に入っ ていきます。オペラは嵐の場面で始まります。

(冒頭の演奏と和音などの説明。たとえば冒頭の和音はヘ長調の属音上の2度7の和音。)
音資料3 冒頭−嵐

登場のセッッティング
 こうした表現はオペラならでのものですね。さらに嵐の中でオテロの安否を気遣う群衆の前に主人公のオテロが現れる瞬間ですが、これがまた素晴らしい。私 は 昔、東宝のミュージカルの指揮をしたことがありますが、主人公の大地真央さんが現れる瞬間というのは必ずうまく演出されていて、会場から自然に拍手が出る ようになっているのです。こうした聴衆へのサービスは、プッチーニなどは得意としていて、「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」とみんなヒロインの登場 が上手にセッティングされています。ちなみにワーグナーは、そうしたサービス精神は全く持ち合わせていませんでした。前期の「ローエングリン」の登場など でやや見られる程度でしょうか。でも拍手するほどではありませんね。
ヴェルディもそうで、これまで主人公の登場にはそれほど気を遣ってはいませんでしたが、ここでは目の覚めるような登場をセッティングしました。オテロの第 一声も素晴らしいのですが、それまでの不安に満ちた合唱が一変してオテロへの輝かしい賛美の叫びとなるのです。これは音楽にも明るいボーイトなしには考え られないでしょう。
音資料4及び5 オテロの登場

ワーグナーの影響?
 さて、最初に音楽上の新しさを説明したときに、小さいモチーフを使用した例を示しましたが、だからといってヴェルディはワーグナーのライト・モチーフを 使 用したわけではありませんでした。というより、ワーグナーの影響というならば、本来ならばライト・モチーフを使用してオペラを作る手法こそがワーグナーの ワーグナーたり得るゆえんでありますが、これを使用しなかったなら、ではワーグナーから何を影響受けたのかということになります。
ヴェルディはワーグナーをとても意識していたけれど、ワーグナーの方はヴェルディをほとんど無視していた。この事実が物語るように、ヴェルディがワーグ ナーの影響を受けたとしても、それはワーグナーにしてみると、その音楽に入るほんの入り口のあたりでのことなのです。つまり、番号付きのオペラをやめたと か、主要三和音だけで音楽を構築するのをやめて、もうちょっと和音を複雑にするとかというレベルなのです。だからワーグナーにとっては取るに足らないもの であったということです。誤解しないでいただきたいのは、これはヴェルディの音楽がワーグナーよりレベルが低いとかいう問題ではありません。

 ライト・モチーフを使うと、その事柄が出てくる度にそのモチーフが鳴り響くので、ヘタをするといつも同じ音楽が響いているような状態になります。現に ワー グナーの曲では同じような音楽が何度も使われます。「トリスタンとイゾルデ」第二幕二重唱の後半の音楽がそのまま「イゾルデの愛の死」になったり、「マイ スタージンガー」ではドー・ソーソソーというモチーフがうんざりするほど鳴ります。
ヴェルディが、そうしたライト・モチーフを一番使ったのは、「運命の力」かも知れません。(運命の力のモチーフを弾きながら)レオノーラの二つのアリアは 二つともこのモチーフです。しかし、それ以後逆にヴェルディは、あまり好んでこうした手法を使っていません。むしろヴェルディでは同じメロディーが出てく る方が稀なのです。

 そうした中で控えめではありますが、「オテロ」では「くちづけのライト・モチーフ」だけは効果的に使われています。しかしこの音楽もオペラ全編を通して 三 回しか出てきません。
(ピアノで演奏)初めて出てくるのは第一幕二重唱の最後、次は第四幕でデズデーモナを殺すために彼女の寝室に忍び込んだとき、そしてラストで絶望したオテ ロは自分が殺したデズデーモナにくちづけしながら死んでいきます。そのどれもが3回くちづけをします。
ヴェルディは、このくらいの使い方が最も効果的であると思ったのではないでしょうか。
音資料6及び7  くちづけ

オペラの構築
 次に、このオペラ全体がどう構築されたかということについて探ってみたいと思います。それには少々乱暴ではありますが、各幕の冒頭と終幕の音楽を見るこ とはかなり効果的なアプローチであります。

  ダイナミックス  調性
第一幕
冒頭  嵐の音楽(激しい)   FF F−Dur
終幕  愛の二重唱(静か)   PPP E−Durを経てDes−Dur
第二幕
冒頭  イアーゴの行動開始と信仰告白(やや激しい)   F F−Dur
終幕  オテロとイアーゴの復讐の二重唱(激しい)   FF A−Dur
第三幕
冒頭  第二幕でのイアーゴの嫉妬についての説明の音楽(ゆっくりではないが静かな音楽)   PP Fis−moll
終幕  コンチェルターテと陰コーラス(激しい)   FF C−Dur
第四幕
冒頭  柳の歌(静か)   P Cis−moll
終幕  オテロの死(静か)   PP E−Dur

ドラマの流れと実際の鑑賞
 起承転結ということを言うならば、これほど見事に起承転結が表現された例は稀でしょう。ヴェルディは「オテロ」という作品を「イアーゴ」と名乗ってもい い と考えていました。ボーイトの台本もシェークスピアの原作と比較すると、むしろイアーゴに焦点を合わせて物語を展開させています。

第一幕
 これから少し、イアーゴの視点からオペラ全体を眺めてみたいと思います。
イアーゴは、司令官オテロの副官に自分が選ばれなかったことに不満を抱いています。オテロは自分をさておいて戦争に未経験な若いカッシオを選出したので す。そこからイアーゴの復讐が始まります。
オテロがトルコ軍を破り、勝利を収めて帰ってくると、イアーゴはオテロの妻デズデーモナを横恋慕するロデリーゴをけしかけ、酒に弱いカッシオを酔わせて乱 闘騒ぎに導きます。
なにも知らないオテロはカッシオ暴行に怒り、彼の副官としての地位を早速解任してしまいます。

祝宴の音楽と言えば、「椿姫」の舞踏会を初めとして沢山のその種の音楽を書いたヴェルディですが、この半音階を駆使した八分の六拍子の音楽は独創的です。

音資料8 祝宴

第二幕
 第二幕では、イアーゴは落胆するカッシオにこう持ちかけます。
「オテロ様の寵愛厚いデズデーモナ様にとりなしてもらうように頼めばいい。」
シェークスピアの原作では、むしろカッシオの方からデズデーモナに頼もうと思っているとイアーゴに告げます。それを聞いてイアーゴは奸計を思いつくのです が、イアーゴの行動にはより偶然が左右します。それをボーイトは全てイアーゴの意図的な行動に直してしまいました。
デズデーモナがいつも同じ時間にここを通りかかることを知っているイアーゴは、カッシオにそれを告げます。カッシオはイアーゴの思い通りにデズデーモナに 話しかけます。そこでイアーゴは念ずるのです。
「今ここにオテロが来ればいいのに。悪魔よ、手を貸してくれ。俺の大胆な企てに力を貸してくれ!」
するとオテロがノコノコとやってくるのです。この場面はシェークスピアの原作とは微妙に変えられていて、さらにヴェルディの音楽によって行き詰まるドラマ に仕立て上げられています。ちょっとお聞き下さい。

音資料9 イアーゴのはかりごと

「閣下、嫉妬には気をつけなされませ。それは陰気で蒼白く盲目の蛇で自らの毒を自身に盛り、生きた傷がその胸を引き裂いているのです。」
イアーゴのこうした言葉によって、無垢なオテロの胸の中には妻デズデーモナとカッシオの二人が通じ合っているのではという疑惑が生まれます。
第二幕の終幕のオテロとイアーゴとの二重唱は、「ドン・カルロ」のカルロとロドリーゴの二重唱の裏返し。お互いに復讐を誓いますが、その対象は二人とも違 う。オテロの対象はデズデーモナに向けられていますが、イアーゴのそれは目の前で一緒に歌っているオテロその人に向けられているのです。ではその素晴らし い二重唱を聴いて下さい。
音資料10 復讐の二重唱

第三幕
 第三幕後半は、従来のオペラのスタイルの通りコンチェルタートの形式が用いられていますが、これはグランド・オペラを忘れられないヴェルディの指向する も のでした。しかしこの終幕をめぐっては、ヴェルディとボーイトとの間にいろいろ議論が戦わされたようです。
第三幕にテーマをつけるとすれば、「ハンカチ」。かつてオテロがデズデーモナに与えたハンカチをイアーゴは巧みに手に入れ、さらにカッシオの家に潜ませ て、デズデーモナの浮気の証拠として用いるのです。その奸計に引っかかり、すっかり妻の不貞を信じてしまったオテロは、公衆の面前で妻を罵倒し、地面に突 き倒します。そこで困惑する民衆とソリスト達のコンチェルタートになるわけですが、従来だとこういう場面はこのまま音楽が続いて終わります。
しかし、ドラマ的にもうひとひねりしたいボーイトは、幕切れをこう演出しました。裏からオテロを賛美する合唱が響いてくる中、イアーゴは、興奮して卒倒し たオテロを冷たく見下ろしながら、
「これがあの獅子の姿か。」
と言い放つのです。そのことによってイアーゴのワルとしての性格が聴衆に忘れがたいものとして印象づけられるのです。
ではその終幕を聴いてみて下さい。

音資料11 第三幕の終幕

音資料12 第四幕冒頭「柳の歌」 の雰囲気

CD第四幕冒頭を流しながら

第四幕

 第四幕では、もうイアーゴが蒔いた種は立派に芽を出し葉を出し、毒々しい花を咲かせています。ここではイアーゴはもう自分からはあまり動きません。
冒頭はデズデーモナの寝室です。デズデーモナは悲しい気持ちで「柳の歌」を歌います。昔デズデーモナの母には可愛い女中がいました。その娘は美人でみんな に愛されていたけれど、ある男性に捨てられて死んでいきました。その娘が歌っていたのが「柳の歌」というわけです。
「柳の歌」は、原作ではオペラよりもずっと気楽な戯れ歌のようなものになっています。たとえば、最後の節ではこんな言葉さえあります。

あたしを捨てて つれない男と責めたらば
歌うたえ 柳 柳と
それならお前も よその男と寝るがよい

その直後、デズデーモナはエミーリアに、
「もし世界中全部やると言われたら、あなたそんなことする?」
と尋ねます。エミーリアはバレなければやるかもしれないということを言います。しかしオペラではこうした下世話な会話は一切カットされて、デズデーモナは もっともっとピュアーなキャラクターで統一されています。

ボーイトの「柳の歌」では、こんな歌詞が印象的です。
死の柳があたしの花飾りとなりましょう
このような言葉を使って、聴衆にデズデーモナの死を予感させるボーイトのオペラチックなテクニックはたいしたものです。さらにデズデーモナはエミーリアを 去らせた後、アヴェ・マリアの祈りの歌を歌います。これは原作で部屋にデズデーモナを殺そうと思ってやって来たオテロのセリフ、
「今夜はもうお祈りをすませたのか?」
を受けて、これを音楽的にふくらませたものです。ですから原作には実際に祈る場面はありません。

そして嫉妬による殺人は行われます。しかしそれがイアーゴのはかりごとからくるものであり、デズデーモナは無実であることを知ったオテロは剣で自らの命を 絶ちます。そのいまわの際で、オテロはすでに冷たくなったデズデーモナに、かつてのように3度くちづけをします。そして静かに幕は閉まります。
ヴェルディは若い頃はいつも激しくオペラを終わらせていましたが、「運命の力」から後は、静かに終幕を迎えるのを好んでいたようです。それでは終幕をお聞 き下さい。

音資料13 オペラの終幕

イアーゴ像をめぐって
 原作ではイアーゴがデズデーモナとエミーリアのいるところで二人の女性から、デズデーモナがオテロに売女呼ばわりされたことを聞かされて、とぼける場面 が あります。こうした二面的な性格を演じるということになると、イアーゴにはより複雑な演技力が要求されますが、ヴェルディの「オテロ」では、そうした場面 は全てカットされ、逆にクレードなどの悪の告白の場面などを新たに加えられることによって、悪人性がこれでもかと強調されています。

このことによって「オテロ」という作品自体はより単純化されました。イアーゴは、スピントのかかった強い声で始終歌えば、悪者らしい感じが表現できます。 つまり意地悪な言い方をすれば、一本調子の悪人像の方がオペラ的といえるのです。
オペラの「オテロ」においては、イアーゴは何故オテロを憎むようになったかという点が強調されずに、悪い奴だから悪人なのだという感じで、オペラの冒頭か ら徹底しています。これには実はもうひとつ理由があります。

全ての作品は「運命の力」
 私は、極端なことを言うと、ヴェルディの全ての作品は、「運命の力」というタイトルをつけてもいいと思っています。それほどヴェルディは、人間を突き動 か している恋愛感情などの衝動、あるいは理想などが、運命の持つ抗い難い力によってはばまれる、その相剋に惹きつけられていました。そこに生まれる悲劇やド ラマチックな緊張感が、彼のオペラの原動力となっているのです。

 ヴェルディは昔から社会的に虐げられた人達やアウトサイダーにとてもシンパシーを感じていました。せむしの道化リゴレットや高級娼婦のヴィオレッタに始 ま り、素性の卑しい女に育てられた「イル・トロヴァトーレ」のマンリーコ。または革新的なドン・カルロ。さらにそれらに登場する怪しげな人物。「マクベス」 の魔女。マンリーコの母でジプシー女のアズチェーナ、女占い師ウルリカ、そして戦争大好きジプシーのプレツィオシルラなど。
その中でヴェルディの眼から見て、オテロにとても似ているのは「運命の力」のドン・アルヴァーロだと思います。

 ドン・アルヴァーロはインカ帝国の血を引いています。その為に恋人レオノーラの父親から侮辱的な扱いを受け結婚を反対されます。周りが差別しただけでは な く、彼自身の中にもコンプレックスがあり、マイノリティというものが運命の歯車を逆に回し、彼は自ら不幸を呼び込んでいくのです。

 こうした運命論はヴェルディの得意とするところです。オテロでも、主人公の幸福になろうとする希望を阻む運命は人種的偏見です。オテロはムーア人です。 ムーア人というのは、北アフリカの回教徒を指しますが、オテロはすでにキリスト教に改宗しており、ヴェネチア共和国の中で数々の業績を挙げています。しか し、かれがどんなに出世しても、イアーゴをはじめとする周りの人達はオテロのことを、
「あのムーア人が」
と言うのを止めません。そのオテロが、デズデーモナという純粋培養の箱入り娘を手に入れたのです。オテロはそれに見合うだけの業績を残しているし、デズ デーモナに引け目を感じる何のいわれもありません。しかし、彼はどこまでいっても異邦人なのです。彼の中にデズデーモナと自分は本当に釣り合っているのだ ろうかという不安が皆無であったとは言えないのです。嫉妬は、そんな心の隙間にスルリと入り込んでいくのです。

 シェークスピアが、「オテロ」で、自分から壊れていく英雄の内面の過程を刻々と描いていくのを目的としたならば、ヴェルディは、この劇をむしろ「運命の 力」と同じように、ムーア人としての自分のマイノリティ、及びイアーゴという運命に翻弄されて破滅していく、いわゆる「運命のドラマ」として描いたのだと 思います。だからこそイアーゴは、悪であればあるほどよかったのです。ここにおいてヴェルディの「オテロ」はシェークスピアの原作と完全に袂を分かつこと になります。この二つは今や同じストーリー展開を持つ別の作品なのです。

オペラの可能性と限界
 オペラは大きな対比を舞台上に作り出し、ダイナミックな表現力を得意としています。だからヴェルディはその特性を最大限に生かしたのです。
文学作家から見れば、オペラなど派手なだけの大雑把な芸術だと思えるでしょう。小ホールで戯曲「オテロ」を上演する演出家から見ても、二千人ものホールで 大オーケストラを従えてマイクも使わずに声を張り上げるオペラで、いかほどのものを表現できるのかと疑問に思えるでしょう。でもオペラにはオペラのやり方 があり、ヴェルディはその中に生きてきたのです。
 顔の表情のわずかな変化で繊細な演劇表現をするなどという要素を切り捨て、大胆な対比と大きな動きで大勢の聴衆を相手にダイナミックに訴えかけるオペラ 「オテロ」。デル・モナコのような、どこまでも力強いオテロ役に、カップッチルリのような立派な声の、いかにも絵に描いたような悪者イアーゴ、それにテバ ルディのように紋切り型の無垢な娘デズデーモナ。ヴェルディの「オテロ」は、それ故に“オペラの大傑作”ですが、その中に同時にオペラとしての限界を孕ん でいるのです。

 そんなオペラの限界を早くから感じていて、そこから逸脱しようとして、自らの作品にオペラという名前をつけることをやめ、「楽劇Musik Drama」と命名した作曲家がいました。リヒャルト・ワーグナーです。ワーグナーは劇場と音楽との融合に自分なりの新しい道を開いた。しかし、これはこ れで「茨の道」であったのです。この話が始まってしまうと、また長くなるので、今夜はこの辺でやめておきましょう。

事務局注】 文中に不適切な表現がありますが、原作の表現を尊重しています。

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