第七回スタジオ・コンサート

母の愛〜宇宙の愛

ミュージカル「おにころ〜愛をとりもどせ」の世界と究極の愛についての考察

三澤洋史    


 みなさん今日は。今日のスタジオ・コンサートは、「母の愛〜宇宙の愛」ミュージカル「おにころ〜愛をとりもどせ」の世界と究極の愛についての考察と、なにやら大げさなタイトルがついています。

 音楽は愛を表現するのに最も適した芸術と言われています。愛と言えば、メンデルスゾーンが甘い愛の歌を残しています。「歌の翼に」という曲です。今日は、まずその曲からスタートしたいと思いますが、これは当時ブームとなっていたアジアへのあこがれに満ちています。

愛する人よ
歌の翼に乗り僕は君をガンジス川のほとりに連れて行こう
そこは色とりどりの花が咲き乱れる美しい場所
月の光の中、神秘的なはすの花が僕たちを迎える
すみれは微笑み、空を見上げれば美しい星空
薔薇の花は密かにメルヘンを伝え
遠くからは神聖なガンジスのせせらぎが僕たちを包む

では佐藤泰子の歌でお聞き下さい。ピアノは桜井英津子です。

メンデルスゾーン 「歌の翼に」

 さて、愛とは一体なんでしょう。愛は人が人と関わるところに存在するものです。人間は社会的な動物です。つまり自分でない他者と関わることによって人間は人間たり得るのですが、その関わりの中に愛は存在するのです。
 動物の子供は産まれてすぐ自分で立ったり出来ますが、人間の赤ちゃんが歩行したり、固形物を食べたり、つまり自分で自分の身の回りの世話が出来るようになるまでには、動物よりもはるかに時間がかかります。ですから、ここにいるみなさんがこうして生きていられて、私のしゃべる日本語が理解出来るのは、それだけでみなさんが人生の最初で誰かに愛されていた証拠です。つまり愛がなかったら人は生きられないのです。

 一般的に言うと、人が人生の最初に最も深く関わるのは両親、それも特に母親です。子供はむさぼるように母の愛を求め、母親は惜しみなく子供に愛を与える。言葉を教えられ、行儀作法を教えられて、人はだんだん人間らしくなってくるのです。
 赤ちゃんが何故可愛いか知っていますか?それは、赤ちゃんはとてもか弱い存在であり、愛されなければ生きてゆけない故に、「可愛い」という最も強力な武器を身につけているのです。
 親は、まるでだまされたように赤ちゃんを「可愛い、可愛い」といって育てている内に、子供はどんどん大きくなり、だんだん生意気な口をきくようになり、そして親から離れていきます。親にとっては、まるで詐欺に遭ったようです。
 親の愛は、人間が宗教や道徳などにたよらず自然に持っている愛の中で最も「無償の愛」に近いものだと言われます。だから尊いのです。

 「親の愛、子知らず」とよく言いますが、子供はただ親の愛を受けるだけで親の気持ちを知りません。しかし、そうした子供も、やがて伴侶を見つけ結婚して子供を産みます。そうして初めて知るのです。親の愛の深さというものを。
 次にお聞きいただくドヴォルザークの歌曲「我が母の教え給いし歌」は、そうした気持ちを切々と語って胸を打ちます。

母が私にこの歌を教えてくれた昔の日
母は目に涙を浮かべていた
今、私が我が子にこの歌を教えている
私の目からはやはり涙が溢れ落ちる
それでは内田もと海のソプラノ、木住野睦子のピアノでお聞き下さい。「我が母の教え給いし歌」です。

ドヴォルザーク 「我が母の教え給いし歌」

 太平洋戦争中、特攻隊の若き戦士達は、「おかあさーん!」と叫んで死んでいったそうです。「天皇陛下万歳!」でもなんでもなくて、死ぬ時は「おかあさーん!」です。このことだけ見ても、人生の最初において母親に愛されることがどんなに大切なことか、どんなにその人の人生全体を左右することなのかお分かりかと思います。

 次にお届けするのは、マスカーニ作曲の「カヴァレリア・ルスティカーナ」というオペラの中のアリアです。「カヴァレリア・ルスティカーナ」なんて題名、どうして日本語訳にしなかったのでしょうね。長ったらしいし、何のことかちっとも分かりませんよね。これは直訳すると「田舎の騎士道」という意味です。
 このオペラの主人公のトゥリッドゥは不実な男で、それ故にまわりを苦しめ、自らの身をも破滅させていきます。
 トゥリッドゥはローラと恋人同士だったのですが、彼が兵隊に行っている間に、ローラは裕福な馬車屋のアルフィオと結婚してしまいます。
それを知ったトゥリッドゥは、自分を好いていた幼なじみのサントゥッツァとやけになって付き合い始めます。しかし元カノのローラが忘れられない。
ローラも、
「お金持ちと結婚したけれど、やっぱり元カレの方がかっこいいわ!」
というので、二人はよりが戻ってしまいます。つまりローラにとってみると不倫ですな。絶望したサントゥッツァはローラの夫のアルフィオに告げ口し、怒り狂ったアルフィオはトゥリッドゥに決闘を申し込みます。もう絵に描いたようなドロドロした愛憎劇。これがヴェリズモ・オペラというものです。
 トゥリッドゥは結局決闘で負けて死ぬのですが、決闘に行く前に自分の死の予感を感じながら行くのは、あんなに愛したローラの元ではなくて、やはりお母さんのところなのです。

母さん、このぶどう酒は強いね。それに今日はちょっと飲み過ぎたようだ。
僕は出掛けてくるよ。
でもその前に僕を祝福しておくれよ。いつか入隊した時のように。
それから母さん聞いて欲しいんだ。
もしもね、僕が帰らなかったら、可哀想なサントゥッツァの面倒を見てやってよ。
いや、何でもないんだ。ぶどう酒で思いついたことさ。
僕のために神様に祈ってね。
キスを、キスを、母さん
もうひとつキスを さよなら
 どっちかというと駄目男で、なかなかシンパシーの持ちにくいトゥリッドゥ役ですが、彼はこのアリアでイメージがガラッと変わります。
「ああ、こんな男でも人の子で、お母さんにとっては大事な息子なんだなあ。」
と聴衆は母親の視点から眺められるようになるのです。
 それに自分が苦しめたサントゥッツァのこともお願いするやさしさも持っています。だったらローラに手を出すなよ、とも思いますが、そこがどうにも止まらない恋の成せる業ですかね。
それに駄目男というのは往々にして優し過ぎるものです。だからお母さんにとっては可愛くて仕方がないかも知れませんね。

 このアリアを歌ってくれる初谷敬史さんの声は、軽いレッジェーロのテノールなので、ドラマチック・テノールのトゥリッドゥの声には本来全然向きませんが、アリアだけなら別の味が出ると思って、今日は特別にお願いしました。きっと切々と歌ってくれると思います。ではお聞き下さい。

カヴァレリア・ルスティカーナより 「母さんあの酒は強いね。」

 さて、今度は反対に、母親の側からの息子へのほとばしるような愛の歌。プッチーニ作曲「蝶々夫人」では、やはり不実な男ピンカートンが登場します。もうどうしようもないですね男っていうやつは。
 全てを捨ててピンカートンに愛を捧げた蝶々さん。しかしピンカートンにとって彼女は単なる現地妻にしか過ぎませんでした。
「駒鳥が鳴く季節にきっと戻ってくるよ。」という彼の言葉を信じて、蝶々さんは本国に帰ったピンカートンを待ち続けます。だがピンカートンは帰ってこない。いや、帰ってきました3年後に。しかも本妻ケートを連れて。ケートはピンカートンの罪を受け入れ、夫と蝶々さんとの愛の結晶である息子を引き取りに来たのです。
「だから夫のことは忘れて新しく生きてください。」
蝶々さんの愛とプライドはずたずたに引き裂かれ、彼女は自害を決意します。そこへ息子が無邪気にやって来る。思わず彼女は息子を抱きしめます。

お前、お前、ちっちゃな神様!
かわいい坊や
決して知っては駄目よ
お前のために、お前の清らかな瞳のために
あたしが死ぬということは

お前が海の向こうに渡って
大きくなった日に
母親に捨てられたのを悔やむことがないように

ああ、天国の玉座から
あたしの元に降りてきた天使よ
母親の顔をしっかり見ておくれ
少しでも覚えておいてくれるように
よく見ておくれ

いとしい坊や
さようなら
ちっちゃい坊や
さようなら

さあ、遊んでおいで
それでは内田もと海でお聞き下さい。プッチーニ作曲、歌劇「蝶々夫人」より「お前、いとしい坊や」

蝶々夫人より「お前、いとしい坊や」

 この物語が感動を呼ぶのは、蝶々さんの毅然とした態度です。愛を貫き、最後まで真実を貫いた蝶々さんの生き方は、哀しいのですが同時に、観る者にある爽やかなカタルシスさえ与えます。
 私は昨年、新国立劇場で高校生のための鑑賞教室「蝶々夫人」公演を六回指揮しました。高校生ですから最初ザワザワしてうるさいのです。でもだんだん物語に引き込まれ、最後には会場からすすり泣く声さえ聞こえました。
「ピンカートンなんかの言うことを信じて、騙されて馬鹿だなあ。」
と今時の高校生だから言うかと思ったら、あそこまで純粋になり切れるとかえって感動すると言っていたのが印象的です。

 さて、今日は「母の愛〜宇宙の愛」です。母の愛と宇宙の愛はどこでどう結びついていくのか?それはこうです。母の愛を子供の時に充分に受けて育った者は、自然に母の無償の愛の向こうにあるもっと純粋な大きな愛の存在に気付いている、あるいは気付く能力を持っていると言われます。その愛とは、まるで太陽の光のように惜しみなく与えきる愛。それを私は宇宙の愛と呼んでいます。私はミュージカル「おにころ」で、人間の愛が自らの殻を破り宇宙の愛に目覚めるまでの過程を描きました。

 その出発点に母の愛があります。再び内田もと海さんに登場してもらいましょう。内田さんは、おにころの育ての親のうめ役を心を込めて演じてくれる素晴らしい歌手です。舞台の上ではおにころのことを本当に可愛く思っているのがひしひしと伝わるし、おにころが最後に自らの身を犠牲にして川に入っていく時などは、迫真の演技を披露してくれます。なので、私は内田さんのために楽譜を書き直して、
「おにころ、行かないで!」
と絶叫するメロディーを作りました。

ミュージカル「おにころ」の最初の曲は、おにころをいつくしんで歌うアリア「おにころかわいや」です。ではお聞き下さい。

おにころかわいや

 バチカン市国のサン・ピエトロ寺院の中に、ミケランジェロの作った有名なピエタの像があります。これは十字架上で亡くなったキリストの亡骸を抱く母マリアの姿です。この像が胸を打つのは、神の子イエスを産んだ聖母としてよりも、我が息子の死を嘆くひとりの母親の姿なのです。親は突き詰めれば子供が素晴らしい働きをしなくても、むしろ生きていて欲しいのです。元気でいてくれればいい。それが親の愛の基本です。
 そうした愛は、子供に真っ直ぐ向かう凝縮した愛である一方、どこまでも人間的な排他的で盲目な愛であるとも言えるかも知れません。
 私が「おにころ」で表現したかったのは、こうした深い母の愛を出発点として、もっと壮大な「宇宙の愛」へと向かう精神性の旅であったのです。

 「宇宙の愛」に向かうためにはまず人間存在を赤裸々に見つめなければなりません。この世に生きる肉体的存在である人間は、基本的にとてもエゴイスティックな存在であると言えます。
 人間に備わる様々な欲望は、人間が自分の肉体を維持していくために欠かせないものなのです。また怪我をして皮膚が破けると、肉体はただちにそれを元に戻そうと全力を尽くします。時には怪我ごときで熱が出ます。そうして細菌などの異物から肉体を守り、外界と自己とを確実に区別して肉体は自らを存続させるのです。
 そういう意味では、他の動物と同じように、人間がエゴイズムであるのは当然なのですが、残念ながら人間はそれだけでは人間らしく生きているとは言えないのです。人間には、神様から別の要素が要求されているように思えます。
 次の曲の題名は「エゴイズムの歌」。初谷敬史さんが、ミュージカル・ワークショップの合唱団を従えて歌います。

エゴイズムの歌

 人間がこの世的存在としてはエゴイスティックなものであることは、先ほど話しました。しかし同時にエゴイスティックにのみ生きている人は、
「あの人の生き方は動物的ね。」
と言われてしまいます。どうやら人間にはもうひとつの価値観があるようです。

 昔から「情けは人のためならず」とか「因果応報」とかいう言葉があって、自分が人に施したことが巡り巡って自分の所に還ってくるなどと言われてきました。他者は自分にとって「自分と分けられた自分とは関係ない存在」ではなく、みんなどこかでつながっていて、他人のために生きる、あるいは助け合って生きる中に、人間の真の生き方があるのだという考え方です。キリスト教や仏教など、優れた宗教もみなこうしたことに触れています。

 ミュージカル「おにころ」の中では、妖精メタモルフォーゼというのが登場します。メタモルフォーゼという言葉は、本来芋虫がさなぎになってやがて美しい蝶々になるように姿を変えていくことを指す言葉です。
 私は「おにころ」の中で、人がエゴイスティックな価値観から、しだいにもっと大きな価値観に目覚めていく過程を描きました。その過程で人はまるでさなぎが蝶々になるようにメタモルフォーゼを遂げていき、昨日までの自分を捨て、新しい出発を繰り返していくのです。
 次にお聞きいただくのは、まさに妖精メタモルフォーゼが歌う「メタモルフォーゼ」という曲です。佐藤泰子の歌でお聞き下さい。

メタモルフォーゼ

 「おにころ」の後半では、雨の少ない年に群馬県と埼玉県の県境を流れる神流川の水をめぐって水取争いが起きるところから物語が展開していきます。水田に水が引けなければ稲は育たない。やがてそれは神流川の水を血の色で染めるいくさにまで発展していきます。
 神流川は神の流れの川と書きます。次にお送りする曲のタイトルは「神流川」。私はこの曲を、自分の生まれ故郷である群馬県の自然を想いながら書きました。同時に我々に命を授けてくれた水の尊さを讃えてもいます。それでは合唱団でお聞き下さい。「神流川」です。

神流川

 「おにころ」では、主人公のおにころの相手役として桃花という女の子が登場します。おにころを村から追い出そうとする張本人は庄屋なのですが、桃花はこの庄屋の娘でありながら、父親と違ってむしろおにころの第一の理解者です。

 桃花も、母親のうめのようにおにころを愛しているのは勿論ですが、うめと決定的に違っているところがあります。それは、桃花は、「おにころが見つめているものを共に見つめている」ということなのです。桃花が幼いときからずっと美しいものを求めて、自らの心の中で大切にしてきたもの。それをおにころと出遭って分かち合える歓びを知ったのです。
 おにころは、最後の場面で神流川の流れの真ん中に立ち、流れを上州と武州とに分け、そのまま大きな石となります。つまり村人達の為に自らの身を犠牲にする行為を行うのです。そのことによってエゴイスティックで閉鎖的だった村人達の心は変わり、大きな愛に目覚めていくのです。

 そうしたおにころの無私の心、純粋な心を誰よりも知っていた桃花は、おにころが川に入っていく時も、うめのようにはおにころを追いかけません。桃花も悲しいのですが、おにころのこの世での使命を誰よりも良く理解しているからです。ここが母親とは違うところです。勿論桃花の方がうめよりも上とかそういうのではありません。
 人は皆しあわせに生きたいし、親であれば子供にしあわせに生きてもらいたい。しかし時として人の世のしあわせに背を向けても、自らの使命を成し遂げなければならない時もある。そんな時、自分を本当に理解してくれる人がひとりでもいれば、自分のしたことが仮に報われなくても人は勇気百倍となるのです。
 そんな桃花のおにころを想う気持ちを、次のアリアで歌ってもらいたいと思います。それでは桃花のアリア「ずっとひとりで生きてきた」を佐藤泰子の歌でお聞き下さい。

桃花のアリア

 宇宙には果てしなく大きな川が流れていると言われます。その川は、これまでの大宇宙の全ての歴史や、人間の行為、想念が流れとなってとうとうと流れています。さらにそれは過去だけではない、未来永劫までひとつのうねりとなっているそうです。この川は神秘学者達によってアーカシック・レコードと名付けられています。
 預言者たちが未来のことを語れるのは、この川を垣間見ることが出来るからだと言われています。一方、人間には自由意志があって、人間がその自由意志を使って宇宙の歴史に手を加えた事柄に関しては、その未来の流れは刻々と変わるとも言われていますが、「このままいくとこう」という流れの姿は、ずっと先の未来まで見ることが出来るのです。

 一昨年、この芸術小ホールで初演させていただいた「ナディーヌ」でも、原作においてはこの川の存在に触れています。つまり人間がどんなにそれを忘れ去ってしまっても。ふたりがかけがえのない関係となり、かけがえのない瞬間を持ったという事実は、宇宙にはっきりと刻まれるのだ、というのが「ナディーヌ」の本当のテーマだったのです。

 「おにころ」でも、第一幕からこの「宇宙の川」と呼ばれるものの存在を表現しています。桃花はおにころと一緒にいると美しい「宇宙の川」を見ることが出来ます。
 第二幕冒頭では、桃花の言葉にうながされて庄屋が昔ばあちゃんから聞いた不思議な川の話をします。その時ばあちゃんは、幼い庄屋に向かって言ったのです。
「心のきれいな者になれ。そうすれば空の川が見える。」
 そして、なんといってもラスト・シーンで、みんなの心に変化が生まれた時、ひとり、またひとりと「宇宙の川」が見えていく場面は感動的です。ここでお客さんは泣いてくれるのです。それでは本日のプログラムの最後の曲は、全員で歌う終曲「宇宙の川」です。

宇宙の川

 愛を語ってきました。母の愛の深さから、解き放たれた大きな宇宙の愛へと、ミュージカル「おにころ」に触れながら心の旅をしてみませんか。(公演の説明)
それではみなさん、ごきげんよう、さようなら。

     Cafe MDR HOME


当ホ−ムペ−ジに掲載された記事、電子ファイル、写真、イラスト等の無断転載を禁じます。
Copyright © HIROFUMI MISAWA  2005-2006 All rights reserved.