滅亡を導くジークフリートとブリュンヒルデ

三澤洋史   

二つの物語
 「リング」では二つの物語が絡み合っています。ラインの黄金から作った世界を支配出来る指環をめぐる闘争と、もうひとつは神々の終焉の物語です。
よく誤解されるのですが、元来この二つの物語は無関係です。神々が何故終焉を迎えなければならないのかということについては序幕でノルン達によって語られます。
 運命を操る女神のノルン達は、泉のほとりにある「世界のとねりこ」と呼ばれる木の幹に運命の綱をかけて、世の運命を編んでいました。しかしヴォータンがやって来て、その枝を折ってそこから槍の柄を作ったのです。ヴォータンの槍というのは彼の権力の象徴です。その槍の柄に刻まれている契約の言葉によって、彼は世界を支配出来たのです。しかしその傷の為に木はしおれ、泉も枯れてしまったというわけです。
 この話は現代のエコロジーの問題にも通ずるものがあります。ヴォータンの行為は、自らの欲望の為に自然の摂理にさからったものです。それが自然のバランスを崩し、逆に自らの存在を脅かすようになるのです。

 そういう訳なので、世界の終焉の原因を作ったのは指環ではありません。指環がアルベリヒによってラインの黄金から鍛えられる前から、世界は没落する運命にあったのです。原因はヴォータンその人なのです。だから彼は、権力を捨てることは出来ないけれど、何とかして没落を止めようといろいろ画策を練るのです。しかしそのひとつひとつに彼は挫折していくので、最後には自暴自棄になって自ら世界の終焉を願うようになります。

 では指環とは何かというと、指環はもうひとつの権力であると同時に、欲望の象徴です。「ニーベルングの指環」というタイトルの通り、ニーベルング族のアルベリヒが愛を断念してまでも手に入れた世界を支配する権力ですが、これをめぐっては常に争いが絶えず、しかも呪いがかかっているので、指環を持っていては決して幸福にはなれないのです。しかしそれでも人は指環が欲しいのです。こうした欲望が、世界の終焉を後ろから後押しするのです。

テーマは没落
 ともあれ楽劇「神々の黄昏」は没落の物語なのです。ワーグナーが「神々の黄昏」を一番始めに構想したということは、要するに彼は没落の物語を書きたかったのであり、権力闘争や欲望に満ちた世界はいずれ滅ぶ運命にあるというのを描きたかったわけです。二つの別々の物語があるとはいえ、リングが「ヴォータンとアルベリヒ」の二人の欲望が織りなす没落の物語という設定には変わりはありません。
 先日の礒山先生の言い方にならって、没落をネガと呼ぶと、ネガを描くためにはワーグナーはまず没落する前のポジを描く必要を感じました。裏切りのむごさを描くためには成就した愛の幸福感を描かなくてはならなかったわけです。そうでなければブリュンヒルデがジークフリートに殺意を抱くまでのモチベーションが表現出来ないのです。それのポジの極限が楽劇「ジークフリート」です。ですからこの楽劇はやけに明るいのです。
 さて、楽劇「ジークフリート」で描かれた英雄ジークフリートの持つ全ての長所が、「神々の黄昏」では短所に変わり、ジークフリートとブリュンヒルデとのポジティヴな愛のあり方は、「神々の黄昏」で全て裏切りと復讐に満ちたネガティヴなものに変わります。

ジークフリートの人間像ehrlichとfeig
 ジークフリートの長所は、同時にジークフリートの短所であるという点についてちょっと説明します。ドイツ人とある程度深い交流を持った人なら誰しも感じるような気がしますが、ドイツ人はジークフリートのような人間像がとりわけ好きなような気がします。若竹のようにどこまでもまっすぐに伸びていくような人間。恐れを知らず、強くたくましい人間です。
 よくドイツ人がこだわることに、ehrlichという言葉があります。率直で正直で誠実なことです。「思ったことを誰の前でも変えないでまっすぐに言う」というところに美意識を見いだしているドイツ人達は、本人の前でも言いづらいことをずけずけと言う方が正直だという考えを持っています。時々それに日本人の我々はびっくりしてしまいます。
 むしろ彼らは話している人によって意見を変えたり、態度を変えたりすることをとても嫌います。また本人の前では適当に話を合わせながら、陰で悪口を言うということを卑怯と感じます。潔さこそが彼らの美意識の頂点のようです。そうした彼らが最も嫌う言葉は、feigあるいはFeiglingという言葉です。Feigは臆病という形容詞、Feiglingはその名詞形で臆病者という意味です。

 楽劇「ジークフリート」で、ジークフリートは自分を育ててくれたミーメにどうしても愛情を持つことが出来ない。それはミーメが卑屈でFeiglingだからなのです。だから自らの手でミーメを殺めても、ジークフリートには罪の意識がないのです。ファフナーに対してもそう。まあ、物語ですから、悪者を殺すのは別に不思議なことでもなんでもないのですが、ここに前回で礒山先生が言ったように、キリスト教的バイアスがかかります。
 私は、ワーグナーがジークフリートという存在を通して、あるいはリングという神話を通してと言った方がいいかも知れませんが、ゲルマン民族である自分と、キリスト教に代表されるコスモポリタンな価値観との両方のギャップに向き合っていたのではないかと思っています。

ジークフリートは殺されねばならなかった〜パルジファルへ?
 私がバイロイト音楽祭で合唱アシスタントとして働いていた時に、2000年からユルゲン・フリム演出によるミレニアム・リングが始まりました。その「神々の黄昏」の最終場面。全ての世が崩壊して愛による救済のテーマが流れるあの一番美しい場面で、観客はどんな舞台が観られるのだろうと期待していましたら、何もないだだっ広い舞台に、甲冑に身を包んだ少年が後ろ向きに立っていました。フリムに訊ねたところ、
「あれはパルジファルだ」
という答えが返ってきました。このラスト・シーンは評判が悪く、次の年には変えられていましたが、フリムの言いたいことは私にはよく分かりました。
 それは、ジークフリートが到達しなかったものにパルジファルが到達したのだという考え方なのです。「神々の黄昏」でネガティヴに描かれたジークフリートの欠点とはどんなものでしょう?まずジークフリートは、恐れを知らず率直で真っ直ぐな性格であるという点ですが、Mitleid(同情、悩める者の悩みを理解し、共に悩もうという気持ち)を知らないのです。弱き者の苦悩に無頓着であるどころか、弱き者を嫌悪しているのです。その点をワーグナーはどうしてもパルジファルで解決しておかなければならなかったのだと思います。

 さて、そうしたジークフリートの欠点が、「神々の黄昏」の世界を滅亡に追い込んでいきます。第三幕でラインの乙女達に会ったジークフリートは、ここで指輪を彼女たちに返すことも出来たわけです。現に一度は返そうとしています。ところが彼女たちから指輪の呪いの話を聞いた途端、ジークフリートはかたくなになります。
「お前達が僕の命を脅すなら、指輪はやらないよ」
と、自分が恐れを知らない勇者であるということにこだわるのです。
その前にジークフリートは、あまりにも無防備にグンターやハーゲンを信じ、あまりにもあっけなく魔法の薬の罠にかかってしまいます。無防備であるのも「恐れを知らない」ということが引き起こしたことです。つまりジークフリートはジークフリートである限り最初から死ななければならない運命にあったのです。

 ですから、ワーグナーが最も愛したゲルマンの勇者ジークフリートが没落するならば、ワーグナーはそれに対する解決を是非ともしなければならなかったのです。その意味で「パルジファル」はリングの内的な続編であり、パルジファルのような弱者を包み込んだ英雄は、もう滅びることはないのです。

ブリュンヒルデをめぐって
 そんなわけで、楽劇「神々の黄昏」は英雄ジークフリートの没落の物語ですが、それだけでもありません。リング全体のドラマトゥルギーにおいて、ジークフリートという存在は、実はその中核的存在ではないのです。ジークフリートは、その出現を予言され、期待されて現れた割には、その持てる力を充分発揮する前に、あっけなくやられてしまいます。
 むしろ彼はやられるために登場したと言ってしまうこともできます。彼は「リング」の中心人物と言うよりは、むしろネガの役割を担う脇役と言ってしまうこともできます。
 彼は、ブリュンヒルデという「リング全体を動かしている核となる存在」の引き立て役として、あるいは彼女が行動するモチベーション作りの役として重要なのです。
ということは、どういうことでしょう?

 リングには、すべての作品に登場する主人公がいないとよく言われます。ヴォータンが主人公かとも思いますが、彼は「神々の黄昏」ではもう話の中だけに現われて実際には舞台には登場しません。序夜の「ラインの黄金」を除いて、全てに登場するのは、なんとブリュンヒルデなのです。もしかしたらブリュンヒルデが登場しないから「ラインの黄金」は序夜なのかも知れません。
 楽劇「ワルキューレ」の原題はDie Walküre。ワルキューレ達は、ブリュンヒルデの他に8人いて、複数で呼ばれる時はWalküren。ですからこの原題はワルキューレ達を指すのではありません。ここについているDieという定冠詞で特定された一人のワルキューレとは、言うまでもなくブリュンヒルデのことです。
 ブリュンヒルデは、父親ヴォータンの最もお気に入りの娘であり、ブリュンヒルデ自身も父親をとても慕っています。そこで、父親が義理と人情の間で板挟みになっている時には、父親の表向きの意向に逆らってでも、ヴォータンの心の底の思いを実践しようと努めます。それが父親の罰を受けることになってしまう原因なのですが、その罰は“ある意味罰とも言えない”ものです。彼女を起こしにくる英雄は、結局の所、自分で行動することの出来ないヴォータンが、自らの夢を託した英雄ジークフリートだったわけですから。

ブリュンヒルデこそリングの主人公?
 乱暴な言い方を許していただけるなら、ブリュンヒルデこそリング後半だんだん影が薄くなってくるヴォータンに成り代わって、このドラマの中心的牽引役となり、没落の物語を動かしている中心人物です。
 「神々の黄昏」においては、彼女があんなに愛したジークフリートの殺害を可能にした張本人は誰でしょう?他ならぬブリュンヒルデではありませんか。ジークフリートに裏切られ、ハーゲンの思惑通り復讐心に燃えたぎった彼女がハーゲンに「背中が弱点だ」と教えなかったら、ハーゲンはそこに槍を突き刺すことは出来なかったでしょう。終幕で世界が水と火に包まれて崩壊するきっかけを作ったのも、ブリュンヒルデの自己犠牲なのです。

 そういう風に考えると、ワーグナーがリングのドラマをどうブリュンヒルデと結びつけていたかがよく分かります。「ワルキューレ」とは、つまりはブリュンヒルデとヴォータンとの心の絆がいかに深いかを描き、ジークフリートと出会うために彼女が眠りにつくまでの物語なのです。「ジークフリート」とは、そのブリュンヒルデがジークフリートによって再び目覚める物語です。そして「神々の黄昏」では、ブリュンヒルデがジークフリートを殺害させ、世界を没落に導く物語なのです。

神性喪失
 ブリュンヒルデの自己犠牲の中で、彼女はひとつ気になることを言っています。それは、

mich musste der Reinste verraten,
dass wissend würde ein Weib?!
ひとりの女が知恵を取り戻すために、
純粋な男は私を裏切らなければならなかった。
というものです。思い返してみると、楽劇「ジークフリート」でブリュンヒルデは神性を奪われ人間の男のものになる自分を嘆いています。
 楽劇「神々の黄昏」の序幕で、数々の知恵をジークフリートに授けたと言っているブリュンヒルデですが、それでももっと大きな知恵からは離れてしまったということでしょう。そういう目で「愛するブリュンヒルデのライト・モチーフ」を見ると、このモチーフの性格がよく分かります。

★愛するブリュンヒルデのライト・モチーフ

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 このモチーフは、保続低音の上に束縛されているのです。それは盲目となっている状態を表します。先ほど、指輪がラインの乙女の元に返るきっかけがあったのに、ジークフリートのプライドがそれを妨げたという話をしましたが、実はその前にもう一度きっかけがありました。それはブリュンヒルデの元にワルキューレの一人であるヴァルトラウテがやって来て、指輪をラインの乙女達のところに返すよう要求します。ところが盲目となっているブリュンヒルデは、「ジークフリートの愛の中でのみ生きる」という狭い世界観の中にいるため、指輪の意味が分からないのです。今や指輪は彼女にとってはジークフリートの愛の証しとしての意味しかありません。彼女はジークフリートさえいれば、もう世界はどうなってもいいのです。ですから当然、指輪を返すことを拒みます。こうしてブリュンヒルデ、ジークフリートは、それぞれ滅亡を食い止める最後のきっかけを「自らの愚かさ」によって失ってしまいました。

 そのブリュンヒルデの知恵が、ジークフリートの死によって回帰してきたとは、なんと皮肉なことでしょう。これからちょっとブリュンヒルデの自己犠牲のさわりを聴いていただきます。ここにおいて久し振りにワルキューレのモチーフが戻ってきます。かつての神性と知恵に溢れたブリュンヒルデというわけですね。

CD ブリュンヒルデの自己犠牲

愛による救済について
 さて、リング全体の終幕には「ワルキューレ」の第三幕で初めて登場して以来、一度も姿を現さなかった「愛による救済」のモチーフが戻ってきます。必要とあらば何度でもモチーフを使うワーグナーにしてみると、これは珍しい使用法です。

愛による救済
(画像クリックで拡大  音源再生をクリック)

このモチーフに向かい合う時、私はいつもヴェルディが「オテロ」で使用した「くちづけのモチーフ」を思い浮かべます。
 「オテロ」はワーグナーの影響を受けた作品として知られていますが、モチーフの使い方は全然違います。特にこの「くちづけのモチーフ」は、全曲中たった三回しか出てきません。第一幕の愛の二重唱と、オテロがデズデーモナを殺害するために寝室に入り込んだ瞬間、それと終幕です。
 ヴェルディが意図的にしたことは、こうした最も効果的なモチーフをワーグナーのようにのべつまくなし使ったりせずに、一番良い個所が現れるまでとっておいたということです。でも、ワーグナーもリング全体で「愛による救済」のモチーフだけは、同じようになるべく我慢してとっておいたのだと思います。
 ワーグナーの他の作品には、みな何らかの形で救済やカタルシスがあります。しかしこの作品は欲望と、その欲望によって滅亡していく世界の歴史が語られています。物語の中には救済はないのですが、その代わり音楽の中にあります。それが、この長大な大作の最後の最後にオーケストラによって流れる「愛による救済」の動機なのです。

CD 終幕

それにしても、オペラの終幕をこんな風に延々とオーケストラのみで演奏するなんて、前代未聞ですよね。


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