カンタータ第78番に見る巨匠の高み

三澤洋史   


 今回のテーマである「バッハとコラール」について、演奏会に先立ってちょっと説明してみたい。たとえばカンタータ第78番を見てみよう。このカンタータは1641年に作られたと言われるヨハン・リスト作曲のコラールJesu, der du meine Seele「イエスよ、あなたは私の魂を」の内容に沿って作られている。コラールのメロディーは次の通り (譜例1   )。

 これを料理するのに、バッハはこのメロディーにマッチする素敵な対旋律とバスのラインを作り出した(譜例2   )。特にバスのラインはラメント・バスと呼ばれるキリストの受難を象徴する半音階的下降形を用いた。
 驚くべきことは、この下降形のラメント・バスが、コラールの全てのフレーズとコンビネーションを組んでいることである。恐らくバッハは、このコラールのメロディーを眺めたり、自分で弾いてみたりしながら、そのコンビネーションが可能になることを知って狂喜したに違いない。
「あなたの苦き死によって、あなたは私の魂を救い出したのだ」
というコラールの歌詞が送るメッセージを、受難の象徴であるラメント・バスの土台の上に響かせることによって、バッハはキリストの受難と我々の魂の救済との関係を立体的に描き出しているわけだ。しかもメロディーとラメント・バスとのコンビネーションは少しも不自然さを感じさせることなく音楽的なので、あたかもそのためにバッハがこのコラールのメロディーを作曲したかのように感じさせるのだ。なんという才能!

 曲はまずコラールのメロディだけ抜いた対旋律とラメント・バスで始まる。これだけでもう音楽としては完全に成立しているわけだ。そしてラメント・バスの半音階的下降形がオーボエに現れ、さらに合唱のアルト・パート、テノール・パートに歌われて強調され、印象付けられてから、いよいよソプラノによって高らかにコラール旋律が歌われる。この瞬間が実に感動的だ。バス・パートはすかさずラメント・バスを歌う。
 この三つの旋律のコンビネーションは、あらかじめ作られていたのに、わざとコラール旋律登場までおあずけを食わせるわけだね。こういうところが作曲家のしたたかなところだ。

 ベートーヴェンだって同じことをしている。第九交響曲で、歓喜の歌とSeid umschlungen, millionen !のメロディーとのコンビネーションをあらかじめ考えておきながら、ドッペル・フーガになるまでとっておくのだ。そしてドッペル・フーガの瞬間に聴衆を、
「おおっ!」
と言わせようと楽しみにしていたわけだ。
 でもベートーヴェンの場合は、6拍子になってしまってあまりにも曲想が違うため、二つのメロディーが合体しても、期待したようにみんなが驚いてくれない。というか、もしかしたら気付いてくれない。こういうところがベートーヴェンの「ハズシ」てしまう性格なのだ。残念!その点バッハは、意図した効果は決して逃さない。

 曲は対旋律とラメント・バスを引き連れて進行していく。通常の作曲家だったら、もうこれで満足してしまってそのまま最後までいくのだろう。ところがやはりどこまでもただ者でないバッハのこと。途中で様々な新しいモチーフが現れ、それがこれまでのメロディーとからんで絶妙な色彩感を作り出していく。
 それらの処理はとても巧みなので、複雑なのだけれど煩雑な感じはしない。核となっているのはあくまでコラールを中心としたシンプルな組み合わせであり、それでいながらもっと耳の肥えた人には様々な楽しみを用意しているというわけだ。それはちょうど、舌の肥えた人用に微妙な味わいを料理に染みこませて、気付いてくれるのを期待しているシェフの気持ちと同じ。(譜例③譜例④  
譜例③の頁を全体表示譜例④の頁を全体表示

 コラールを歌うソプラノ以外の声部だって、kräftiglich herausgerissenの上行形や、und mich solches lassen wissenの8分音符の同じ音が続く動きのあるモチーフが新たに出現するかと思うと、durch dein angenehmes Wortでは、angenehmes Wort(心地良い言葉)という歌詞をうけて伸びやかなラメント・バス進行になり、さらにsei doch itzt, o Gott, mein Hortでの変化に富んだメロディーが登場するが、それと同時進行して対旋律の変奏されたメロディーが2小節づつ弦楽器とオーボエで呼応する。
 どこをとってもこのように凝りに凝っているが、ぼんやり聴いていても親しみやすく心地良い音楽が奏でられているのが凄いな。

 全く驚くべき作品だ。そしてそれが、自分が料理しやすいように下ごしらえした食材によるものではなく、他から与えられたメロディーに基づいているという事に驚嘆してしまうのだ。恐らくバッハほどの名人になると、そちらの方がかえって挑戦意欲が湧くのかも知れないな。難しいコブ斜面であればあるほどモチベーションがあがってアドレナリンが出るモーグル選手のように・・・・。
 コラールというものは、マルティン・ルターが「誰でも歌えるように」という願いの元に編纂したものだが、それだけに芸術家にとってはその単純さがハンディとなって、自らの才能を充分に引き出す素材となりにくい。そこを逆手にとって、これだけのことを成し遂げたバッハの凄さをあらためて感じる。
 考えて見ると、ハンディがある方が面白いということは世の中いくらでもある。たとえばサッカーは、人間の最も有用な器官である「手」が使えないという不便なスポーツだ。でも、そのことによって足や頭やその他の部分を使ってボールを操るという「テクニック」が必要とされ、競技としての面白さが生まれるので、かえって手が使えるアメリカン・フットボールなどよりずっと人気の高いスポーツとなっている。
 フーガや厳格なカノンを作曲するのも同じだ。ネガティヴに考えると、自由作曲と違って規則にがんじがらめだ。
「ええい!このひとつの音のために作曲が先に進まない!」
ということがいくらでも起こる。でもバッハは、そんな時やはり燃えたのだろうな。驚くべき処理能力によって見事に乗りきって、あの不朽の名作である「フーガの技法」などは生まれたのだ。

 とにかく僕は断言するが、音を扱う能力において、音楽史の中でバッハにかなうものは誰もいない。モーツァルトの天才をしても、ベートーヴェンの意志をもっても、ワーグナーやマーラーをもってしても、音に精通している高みにおいてはバッハに及ばない。バッハこそは、恐らく、音楽家という点においてこの世で最も進化した被造物だと思う。
その比類なき高みが、こうした一つのカンタータの中にも明確にあらわれているのである。
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