東京バロック・スコラーズ第9回演奏会

東京バロック・スコラーズ・モテット全曲演奏会スピーチ原稿

三澤洋史   

第一部
 みなさん今日は!東京バロック・スコラーズの音楽監督三澤洋史です。私は今日の日が来るのをとても楽しみにしていました。東京バロック・スコラーズをロ短調ミサ曲の演奏会と共に起ち上げた私は、クリスマス・オラトリオ、ヨハネ受難曲、マタイ受難曲と大曲に挑んできましたが、実は一番やりたかったのは、このモテット6曲の演奏会だったのです。さらに、
「もしこの団体でCDを作成するとしたら、それはモテットからだ」
と決めていました。その念願が叶って、この演奏会の2週間後の6月8日と9日のまる2日間、私たちは秋川のきららホールにこもってモテット全曲のスタジオ録音を行います。それが発売された折には是非また皆様にはご協力をお願いしたいと思います。

言葉と音楽が出遭う時
 私のこれまでの音楽生活において声楽との付き合いは欠かせません。現在、私は新国立劇場合唱団指揮者としてオペラと深く関わっていますが、そもそも私はかつて、国立音楽大学声楽科に在籍していて、ドイツ・リートに深く傾倒していました。リヒターの「マタイ受難曲」のレコードをすり減るほど聴いたり、ワーグナーの楽劇に傾倒してワグネリアンになったのもこの頃です。
 また、自作の3つのミュージカルでは、自分で台本、音楽を書くだけでなく、演出も行っています。私が自分の生涯を賭けてこれまで追求してきたのは、ドラマや詩が音楽と出遭うその創造の瞬間に立ち会う喜びなのかも知れません。

 言葉とは不思議なものです。ロゴス、すなわち知的な意味の内容を伝えるだけではなく、パトス、すなわち感情や情念をも伝えることが出来ます。ドイツの神秘家であるルドルフ・シュタイナーは、人間同士が会話をする時、言葉とは別に地下の通路のようなところで魂同士が対話し、互いにシンパシーを感じたりアンチパシーを感じたりしていると言っています。
 そのパトスの部分を担っているのが母音です。私たちも電話などで顔が見えなくても相手の機嫌が良いか悪いか分かるではないですか。この母音が、言葉を音楽につないでいるのです。音楽で使われる言葉は、韻を踏んだりリズムを持ったりして音楽化され、なおいっそう音楽と結びつきやすく工夫されています。

 こうして意味内容を持ちながら音楽によって彩られ飛び立った言葉は、これまでにおびただしい名曲を世に排出してきましたが、言葉と音楽とは常に幸せな関係を保ってきたか?というと、そうとも言えません。音楽だけだと自由に感じられるのに、言葉によって規定されてしまって窮屈になってしまったり、名作の詩のもつ味わいが音楽によってだいなしにされてしまったり、双方の暴力的介入というものもあり得るわけです。逆にそのリスクがあるからこそ、古今の作曲家がそれぞれの方法で声楽曲にチャレンジしてきたのだと思います。

 さて、バッハはどうでしょう?彼はオペラを書きませんでしたが、私は、どんなオペラよりも劇場作品よりも、彼の声楽曲をドラマチックだと思っています。受難曲だけではありません。彼の声楽曲の中で、最も言葉と音楽との結びつきに真っ正面から対峙しているのは、他ならぬこの6曲のモテットです。
私は初めてモテットに触れて衝撃を受けた日のことを決して忘れません。しかしその時に私は同時にある使命感を持ちました。これらのモテットは、器楽曲と同じような外見を持っているが故に、いつも器楽的なアプローチばかりされてきました。でもバッハは「言葉」という語源を持つモテットにおいて、言葉の力をもっと高めるために音楽を使ってレトリック的展開を計り、彼なりに言葉と音楽との関係を突き詰めたのです。私は、その点を誰よりも表現出来る音楽家になろうと、今日まで精進を重ねてきたつもりです。

深き淵から呼ばわる声
 さて、曲のお話に入りましょう。最初にお届けするのはKomm, Jesu, komm「来てください、イエスよ、来てください」です。私はどうしてもこの曲で始めたかったのです。モテット6曲の旅を始めるにあたって、私はみなさんに、まず、世の無常観や、人間の不確定性に目を向けて欲しかったのです。
 このト短調の曲の冒頭では、komm, komm, komm!「来て、来て、来て!」と3回哀願するようにイエスを求める叫びが聞かれます。そして4回目のKomm, Jesu, komm「来て、イエスよ」から曲が動き出します。暗き淵からあえぎながら創造主を呼び求める者達の声です。
 バッハの音楽は、Mein Leib ist müde(私の体は疲れている)という言葉に敏感に対応しています。 Ich sehne mich(私はあなたを求めます)のsehnenという言葉は、Sehnsucht(あこがれ)という名詞とも関連が深く、ドイツ・ロマン派でよく使われています。とても強く恋い焦がれながら求めることを表す動詞です。der saure Wegのsauerはサワーという英語と共通する「酸っぱい」という形容詞ですが、ここでは「辛い、困難な」という意味です。こうした表情が、なんと曲の中で生き生きと表現されているでしょうか。
 そしてだからこそ、その後の8分の6拍子の「あなたこそまことの道、真理にして命なのです」とヨハネによる福音書からの引用で人の生きる指針と希望を説き、さらに最終コラールでは、この世的な価値観に振り回されることに別れを告げ、自分の信じるものに向かって力強く生きていく決意が聴かれるわけです。
 それでは「来てください、イエスよ、来てください」をお聴き下さい。

Komm, Jesu, komm BWV229
来てください、イエスよ、来てください

ストレスやトラウマからの解放
 さて、世の中にはストレスやトラウマを抱えている人が沢山います。全てのストレスやトラウマは、「恐れ、恐怖心」から来ているとも言われています。
 自分自身がやっている事に絶対的な自信を持っている人は、本当はいないでしょう。特に、良かれと思ってやっていることが裏目に出てしまったり、ネガティヴに評価されてしまった場合、ひとは落ち込み、自信をなくします。
 トラウマとは精神的外傷と訳されますが、次に同じことをやる時に、トラウマの傷がうずき、人は恐れや不安を抱いて、かえって不自然な行動をとったり、自分から失敗する方向に導いていったりしてしまいます。極端な場合は、失敗することで、逆に「失敗するのでは」という恐れから解放され、安心するという人すらいます。

 そうした恐れや不安を抱くことは私にもあります。でも、私はそんな時、エルサレムに入城していくイエスの姿を思い浮かべます。イエスは知っていました。周り中敵だらけの中、今自分がエルサレムに行けば、きっと捕まって殺されるであろう事を。しかし彼はそれを知っていてひるむことなく入城して行きます。何故か?彼は、自分の命よりも真実を貫くことを選んだからです。
 人のネガティヴな評価など何のその。恐れずに進んでいくそのエネルギーの源泉は何か?それは・・・イエスの愛です。「全き愛の前に恐れはない」のです。走ってくる車の前に飛び出していった自分の子供を助けようと、身を乗り出していく母親の心境です。そのイエスの境地を想い浮かべる時、私の心は安らかになり勇気が湧いてきます。

コラール幻想曲の傑作
 次の曲では、まさに「恐れるな」ということがテーマです。イエスは信徒達に対し、「恐れるな!」と言った後、Ich bin bei dir(私はお前のそばにいる)といい、さらにDu bist mein(お前は私のものなんだから)と、絶対的信頼を置くよう促します。

 この曲の後半のコラールHerr, mein Hirt, Brunn aller Freudenを彩るコラール幻想曲は、バッハが作曲した全てのコラール幻想曲の中でも白眉のものです。上行するIch habe dich bei deinen Namenという音型と、denn ich habe dich erlösetの半音階的下降音型とが見事に絡み合い、そこに堂々とコラールのメロディーが乗っていきます。
 半音階のモチーフに和声付けする時には、その調性の固有和音だけの使用では対応出来ないので、必ず臨時的な転調を行うことを余儀なくされます。バッハの場合、半音階的モチーフを使用している曲に傑作が多いのは、彼は「こんな時こそ自分の腕の見せ所」と、彼の才能をフルに投入するからです。
 この曲でも、聴いている人が今何調にいるのか分からなくなるほど調性感が曖昧になるので、無調の曲を聴いているような浮遊感に放り出されます。それでいて和声的には全て整合性があり、それがシンプルなコラールのメロディーとも違和感なく共存しています。もの凄い才能だと思います。いっそのこと12音技法で書く方がはるかに易しいのです。
 礒山先生の解説に寄れば、このモテットは一番早い時期に書かれたのではないかと言われているそうです。1715年頃といいますから30歳くらいの作品ということですが、作曲技法としたら完全に円熟した巨匠の境地です。
それでは「恐れるな、私はお前のそばにいる」を聴いて下さい。

Fürchte dich nicht, ich bin bei dir BWV228
恐れるな、私はお前のそばにいる

偽作?
 次にお送りする「主をたたえよ、すべての異邦人よ!」ですが、この曲は礒山先生の解説にも書いてあるように、偽作の疑いのある曲です。しかしながら、この曲を演奏すればするほど、私にはどうしてもこれが“バッハの手を全く離れた曲”だとは思えないのです。
 私は、数年前からスキーに凝っていて、特にコブ斜面を滑るのが大好きなのですが、いつもその時想い浮かべるのが、バッハのロ短調ミサ曲のCum Sancto Spirituだったり、モテットだったりします。何故なら、コブを越える時のちょっとジャンプする感覚と、バッハの音楽に随所に見られる飛翔する感覚がそっくりなのです。ところが、それを感じるのはバッハの音楽だけです。ハインリッヒ・シュッツでもブクステフーデでもヴィヴァルディでもヘンデルでも、この躍動感を感じることは決してないのです。

 でも、このLobet den Herrnで、私はそれを感じるのです。確かにこの曲だけシンプルな4声であるし、バッハとしては規模も小さいです。歌の声部から離れた通奏低音の動きのように、他のモテットと異なった音楽的処理も見られます。しかしながら、同時に、音楽が凝縮して詰まっている感じ、とりわけund preiset ihn以降の重なり合うモチーフによる高揚感は、バッハの音楽でなければ決して得られないものです。
 私は学者ではないので、私の考えは演奏している立場からの直感的なものに過ぎないのですが、私は個人的にはこう結論付けています。オリジナルは確かにバッハの曲ではなかったかも知れない。でも、何らかの形で巨匠バッハの手が入っていないことには、この曲の充実感は考えにくいのです。

 当時は、出版も現在ほど盛んではなく、コピー機もなかったため、バッハ自身、他人の作品を沢山写譜しています。その際に、何らかの理由で編曲を施したりすることもあっただろうし、たとえば自分の子供達に作曲の手本を示すために、他人のモチーフを使って曲を部分的に、あるいは全体に渡って書き直すということだってあったかも知れません。
 そして、それを何らかの機会に演奏してしまったとしても、誰も分からないし、著作権の確立していない当時では、それほど罪悪感を感じる必要もなかったでしょう。
 つまり、「バッハ100パーセントか他人100パーセントか」という二者択一では測れないケースがあっても不思議はないだろう、というのが私の考えです。

 さて、この曲の最初の部分では、音楽が凝縮した対位法的処理で書かれていますが、次のDenn seine Gnade und Wahlheitでは、和声的で、伸びやかなコラール風の音楽が聴かれます。次のin Ewigkeit(永遠に)の長く引き延ばされた音符の処理は楽しいですよね。それからHallelujaの3拍子のフーガもとてもバッハ的です。うーん、やはり私はこの曲をバッハだと思って演奏します。
 それではお聴き下さい。

Lobet den Herrn, alle Heiden! BWV230
主をたたえよ、すべての異邦人よ!

モテットとは何か?
 この辺で、そもそもモテットとはどういうものなのか、話してみたいと思います。モテットとはフランス語のle motという言葉がルーツになっていると言われます。つまり「言葉」という意味ですが、イタリア語にもmottoという言葉があります。「これを私はモットーとしている」という風に日本人も使います。
 モテットは、基本的にはモテット形式で書かれています。モテット形式の定義は簡単です。ある言葉にひとつの音楽的モチーフが与えられ、ひとくさり発展すると、次の部分になり、次の言葉に対応するモチーフが付けられて発展する。それだけです。そして言葉に従って次々に新しいモチーフが与えられて発展し、(ここが大事なのですが)ソナタ形式などのように最初のテーマに戻ることはありません。コンセプトとしては、言葉がモチーフを作り出す原動力になっていて、先に音楽ありきではないということです。

バッハのモテットの特徴
 バッハもそれに従っているのですが、二つほど大きな特徴があります。特徴というより、“ルール違反”と言った方が分かり易いかも知れません。ひとつは、先のLobetでもそうですがテーマが戻ってきてしまうことがよくあります。Lobetと始まりund preiset ihnの部分になったらもうlobetのモチーフは戻ってきてはいけないのに、戻ってきて、しかも同時進行している・・・つまりこの両方のモチーフを作った時点で、これが重なることが出来るように仕組んでいたというわけですね。バッハはきっと音楽的統一感を無視出来なかったのでしょう。(だからやっぱりこの曲はバッハが作ったのですよ)
 もうひとつの特徴は、コラールを入れているということです。モテットは、カトリック教会が発祥なので、コラールを入れるという習慣は当然ありませんでした。むしろパレストリーナの延長のような作曲技法なので、コラールという異質物を混入させることによって均一性が失われ、煩雑になった印象は否めません。大切な事は、バッハは、モテットの持つ「言葉の感化力」という根本精神に戻り、それ故に、ルール違反を犯しても、コラールを挿入することに躊躇しなかったのだと思います。

最高傑作「主に向かって新しい歌を歌え」
 さて、第一部の最後を飾るのはSinget dem Herrn ein neues Lied(主に向かって新しい歌を歌え)です。その規模の大きさ、発想の雄大さ、展開の大胆さから、この曲こそ6曲の中でも最高傑作であるとは誰しも認めるところでしょう。
 この曲の第1曲目後半から始まるフーガのなんという素晴らしさでしょうか。その高揚感にワクワクしてきます。第2曲目では打って変わって第2コーラスによる静かなコラールで始まります。このコラールの歌詞では、我々の存在が、あたかもしぼんでしまう花や風に舞う枯葉のようにはかないものであることが淡々と歌われていきます。also der Mensch vergehet(そのように人間は消えていくのだ)という歌詞を聞くと、その無常観に絶望感すら覚えますが、それを救っているのがコラールと交互に現れる第1コーラスの温かい希望に満ちた言葉と音楽です。
「幸いです。ひたすら堅固に、あなたとあなたの温情に信頼する者は」

 第3曲目では、どっしりと確信に満ちた賛美の音楽が聞かれ、終曲の「息ある者はみな主をたたえよ」では火のような情熱が私たちの胸を熱くします。まさにバッハの音楽の醍醐味であります。これほどまでに飛翔し、乱舞する言霊(ことだま)の圧倒的なパワーを、私はみなさんと一緒に分かち合いたいと思います。
 では「主に向かって新しい歌を歌え」を聴いて下さい。

Singet dem Herrn ein neues Lied BWV225
主に向かって新しい歌を歌え

休憩


第二部

現代~自由の中の漂流
 こうして演奏していながら、つくづくバッハの時代ってうらやましいと思ってしまいます。モテットの中で語られている言葉達はみんな溌剌と確信に満ちています。そしてそうした価値観を、当時の社会ではみんなで共有していたのです。
 一方、現代ではあまりにも価値観や好みが多様化していて、自分が正しいのかどうかも分からないし、何を指針に生きていけばいいのかも分からない。「お前は間違っている!」と怒ってくれる人もいないし、逆に、「これでいいんだ!」という太鼓判を押して「迷わず進め!」と背中を押してくれる人もいない。何でも許されているけれど、その自由の中で、私たちは漂流しているような状態にあります。
 だから、現代では、語られる言葉も口当たりばかり良くて力がないのです。私たちは内心では、もっとはっきりしたパワーのある真実の言葉を求めています。これもいいですよ、あれもいいですよではなくて、これが一番、これはダメと言って欲しいのです。それが、この6曲のモテットのどこの言葉の中にもあると、私には感じられます。

聖霊とは?
 第2部の1曲目は、聖霊について語られているモテットです。聖霊のことは、キリスト教の信者でさえよく理解していない人が少なくありません。父なる神、子たるキリスト、そして聖霊が、神の持つ3つの異なった現れだと言われます。その中で、聖霊こそ、私たちの心の中に入り込み、私たちを内側から照らし、癒し、力づけ、私たちが神に従って行動する手助けをしてくれるものであります。
 私たち人間は、隣人を愛したいと思っても、意志だけでは愛することが出来ません。ではどうしたらいいのでしょうか?それを成してくれるのが聖霊の力です。私たちに出来るのは祈るだけ。でも神の息吹である聖霊が自らの内に宿る時、愛は溢れ出て止まらなくなるのです。シュヴァイツァー博士のように、全てを投げ打って愛に身を捧げるような人の原動力こそ、聖霊の成せる業というものでしょう。
 私(わたくし)という存在がここにいて、神やキリストという存在が、私と切り離されて相対して存在しているのではなく、私たちは“キリストの霊性を帯びること”によって、自然に神の臨在を感じることが出来、その信仰が私たちの行動を導いていくのです。つまり父と子と私をつなぐものが聖霊というわけです。

 この8分の3拍子で始まるモテットで、冒頭から激しくうごめく16分音符は、聖霊の活発な作用を表現しています。実にパワフルな音楽です。音楽は休みなく4拍子の部分に入っていきますが、ここで歌われるmit unaussprechlichen Seufzenという歌詞が実にユニークです。聖霊は「いいようのない溜息(うめき)でもって」とりなしてくれると言うのです。

 Der aber die Herzen forschetのフーガっぽい部分では、次のdenn er vertritt die Heiligenのモチーフが出た後、また最初のテーマが戻ってきます。ここでもバッハらしいルール違反が見られます。
最終コラールのDu heilige BrunstのBrunstを辞書で引くと、「発情」と出ています。「お前、聖なる発情よ!」は変ですが、それだけ聖霊の情熱がハンパでないことを示しています。最後のHallelujaにたどり着く時、私の心はいつも何とも言えない晴れやかな充足感に満たされます。この素晴らしい音楽を縁として、まさにその瞬間に自分の心の中に聖霊が入り込んで来るのを感じるのです。みなさんもきっと、そのカタルシスを味わうに違いありません。
 それでは、「霊は弱い私たちを助け起してくださる」をお聴きください。

Der Geist hilft unser Schwachheit auf BWV226
霊は弱い私たちを助け起こしてくださる

音楽と神学との融合
 私たちのモテットの旅も、残すところあと一曲だけになってしまいました。私は、Komm, Jesu, kommで始まったモテット全曲演奏会の最後はJesu, meine Freudeと決めていました。不確定なこの世に産み落とされた人類の「深き淵から叫ぶ声」は、「恐れ」を乗り越え、「新しき歌」を歌いながら聖霊に満たされて、ついに力強い喜びの讃歌に至るのです。

 先ほど第1部の最後のSinget dem Herrn ein neues Liedこそ、モテットの最高傑作と言いましたが、この「イエスよ、私の喜び」もSinget dem Herrnに対するもう一方の頂を形作っております。Singetが音楽的な集中力と凝縮性を持っているならば、Jesu, meine Freudeは、神学と音楽との融合という意味で大きな精神的広がりを持っています。

 このモテットの特徴として、「イエスよ、私の喜び」というコラールの第1節から第5節にプラスして、5つの曲に分けられた新約聖書の「ローマの信徒への手紙」第8章の第1節から11節までのテキストが挟み込まれる構成となっていることです。このローマ書の第8章というのは、使徒パウロの根本的な思想です。それは次のようなことです。

人間は肉体を持っているが故に罪を犯してしまう。罪の報いは死である。これが罪と死の法則であるが、我々はキリストを信じることによって、キリストの霊をその身に帯びることになる。キリストの霊が自らの内に住んでいるなら、体は罪の故に死んでも、霊は義の故に永遠の命に生きる。これが霊と命の法則である。

 パウロは、人間は弱いものであり、もし、罪を犯したということで滅びなければならないのならば、なにびとも滅びから逃れられないと考えています。しかしながら、キリストを信じることによって救われるのだと言い切っています。
 マルティン・ルターは、その考えをもう一歩先に進めました。宗教改革の前の中世のカトリック教会では、現在でもレクィエムの歌詞などで見られるように、「世の終わりが来た時に信徒達はみんな恐怖の大王の前に連れて行かれ、誰も知らないはずもあんな罪やこんな罪も明るみに出されてしまい、滅びに至る者と救いに至る者をふるいにかける」という恐怖によって信徒達を縛っていましたが、ルター派のプロテスタント教会では、そのようなことは一切聞かれません。それどころか、「キリストを信じている者達は、キリストの霊を帯びてもう救われているのだから、この地上でどんな不条理の中に生きていても、死んであの世に行けばキリストと相まみえて、全てが報われるのだ」という徹底的なポジティヴ指向を前面に打ち出しました。

 バッハもそれを受けて、ローマ書の救いの約束と、こうしたルター派のポジティヴな教義を反映したコラールの歌詞とを、このモテットの中で見事に融合させることに成功しています。コラールの歌詞は、この世の中において敵やサタンに悩まされながらイエスに希望を託している信徒達の心情が語られていくので、同時進行しているローマ書を信徒がどのように捉えて日々の行動に移していくのかという解き明かしの役目を持っています。
 こうしてこのモテットは、音楽に結集された説教のたたずまいを持っています。言葉の感化力が音楽的説得力を得て比類なき高さに到達している稀有の作品として、私はこのモテットをSinget dem Herrn ein neues Liedに対するもうひとつの頂きと位置づけているわけです。

様々な工夫
 さて、このモテットでは音楽面でも様々な工夫が凝らされ、曲がオムニバス的に並んで単調になるのを防いでいます。コラールは後にいくに従って、様々な和声付けや表情付け、ないしは変奏が施されていきます。
 特に第5曲目のTrotz dem alten Drachenでは、本来ならば、
Trotz dem alten Drachen,
Trotz des Todes Rachen,
Trotz der Furcht dazu !
と通常のメロディーで歌われるのですが、ここでは自由変奏としてオリジナルのメロディーから、ここまで離れるかと思うくらいまで変えられています。
第8曲目のGute Nacht, o Wesenはアルトをメロディーとするコラール幻想曲です。

 さらに、全体の構成はシンメトリー(左右対称)となっています。第2曲目と最後から2曲目は同じ音楽的素材を使っていて、聴いていても似通っています。第4曲目の女声3部合唱に対応する第8曲目は、アルト、テノール、バスだけの3声の合唱です。第5曲目のTrotzのコラールからノンストップで流れ込む第6曲目では、素晴らしいフーガが聴かれます。この2曲はユニットとなって全10曲の中心を成しています。
 それでは、バッハが言葉と音楽とに盛り込んだ強い想いを、「イエスよ、私の喜び」を聴きながらたっぷり感じ取っていただきたいと思います。

Jesu, meine Freude BWV227
イエスよ、私の喜び

  
Cafe MDR HOME  


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