オー シャンゼリゼ!

三澤洋史

オー シャンゼリゼ!
 シンガーソングライターのZAZ(ザーズ)のCD&DVDを聴きながら、
「ブックレットの歌詞をフランス語で読んでみようかな、日本語の訳詞も別のブックレットに乗っているけれど、何も見ないでも意味分かるかな?」
と思って小冊子を開いた。すると目に飛び込んできた文章に驚いた。しかしながらすぐに、
「あっ、そうか・・・そうだよね。なんで今まで気が付かなかったのだろう」
と思ってひとりで笑ってしまった。

 曲は「オー シャンゼリゼ」なのだが、歌詞はOh! Champs Elyséesではなくて、Aux Champs Elyséesだったのだ。それをパリに7年以上も住んでいた長女の志保に言ったら、
「そうだよ。当たり前じゃない。だって普通に、シャンゼリゼではさあ、とか、シャンゼリゼでね、とか言う時に使っているから、ごくごく当然にそう思っていたよ」
だって。
 でも、逆に僕たちの世代は、日本語に訳されたカンツォーネやシャンソンを中尾ミエとか佐良直美とか布施明とかで聴いていたから、

街を 歩く 心軽く 誰かに会える この道で
素敵な あなたに 声を かけて こんにちは僕と行きましょう
オー シャンゼリゼ オー シャンゼリゼ
いつも 何か 素敵な ことが あなたをまつよ オー シャンゼリゼ
のオーを感嘆詞以外のものだと思って聴いていた人は、よっぽどフランス語に詳しい人以外、当時は誰もいなかったんじゃないかな。auxとはaと名詞複数形につく定冠詞lesがくっついたもので、長女が言うように「シャンゼリゼでは」とか「シャンゼリゼで」という意味だ。しかし、なんでシャンゼリゼって複数なんだろうね。

 ちなみに、このフランス語を自分なりに訳してみた。

Aux Champs-Elysées シャンゼリゼでは
   
Je m'baladais sur l'avenue le cœur ouvert à l'inconnu 
僕は大通りをブラついていた 
知らない人に心を開いて 
J'avais envie de dire bonjour à n'importe qui 
誰でもいいから「こんにちは」って言いたかったんだ 
N'importe qui et ce fut toi, je t'ai dit n'importe quoi 
誰でもよかった、で、それが君だったってわけ
僕は君に話しかけた 別にどんな話題でもよかった 
Il suffisait de te parler, pour t'apprivoiser 
話しかけるだけで充分だった 君と仲良くなれるなら 
 
[Refrain]:リフレイン 
Aux Champs-Elysées, aux Champs-Elysées 
シャンゼリゼでは シャンゼリゼでは 
Au soleil, sous la pluie, à midi ou à minuit 
太陽のもとでも 雨の下でも 真昼でも真夜中でも 
Il y a tout ce que vous voulez aux Champs-Elysées 
望むものは何だってあるんだ シャンゼリゼではね 
 
Tu m'as dit "J'ai rendez-vous dans un sous-sol avec des fous 
君は言った
  「地下でちょっとおかしい人達と会う約束をしているの」 
Qui vivent la guitare à la main, du soir au matin" 
「ギターを手に夕方から朝まで暮らしている人達よ」 
Alors je t'ai accompagnée, on a chanté, on a dansé 
だから僕は君をエスコートした 
みんなで歌って 踊って 
Et l'on n'a même pas pensé à s'embrasser 
キスをしようなんて考えは ちっともなかった 
 
[Refrain] 
 
Hier soir deux inconnus et ce matin sur l'avenue 
昨日の夜までは見知らぬ同士 今朝は大通りで 
Deux amoureux tout étourdis par la longue nuit 
恋人同士 長い夜を一緒に過ごしたせいで 
頭がぼーっとしているよ 
Et de l'Étoile à la Concorde, un orchestre à mille cordes 
凱旋門広場からコンコルド広場まで
千の弦楽器のオーケストラのように 
Tous les oiseaux du point du jour chantent l'amour. 
夜明けの鳥たちが みんなで愛を歌うのさ 
 
[Refrain] 

 最初の方でapprivoiserという言葉があるだろう。これは「星の王子様」できつねが言っていた言葉で、「飼い慣らす」「手なずける」という意味だ。つまり、その人が自分にとってただの他人ではなく特別な存在となることを意味する。そうか、こんなところでも使うんだね。僕は「君と仲良くなれるなら」と訳したけれど、本当は「君と特別な関係になれるなら」くらい踏み込んでもよかったのかも知れない。でもね、そこまでいくと、日本語の文章の流れからしたらちょっとあざとい。だから「仲良く」で止めておいた。

 さて、前に掲げたような僕たちが親しんでいる日本語訳は、ダニエル・ビダル(Danièle Vidal)が歌ったもの。彼女は、1952年モロッコ生まれのフランス人で、1970年代前半に歌手としての活動の拠点を日本に置いており、テレビに出ていたというが、いろんな人が歌っていたので、僕にとっては彼女の印象は薄い。
 そのちょっと前の時代には、越路吹雪が歌っていたという。この印象はもっと薄い。というか、僕はどうも越路吹雪という存在も歌も、子供心になんかおどろおどろしくて気持ち悪かった。しかし、その岩谷時子さんの訳詞を今見てみると、かなりフランス語を正確に訳している。
ひとりで街を ブラブラしながら
話しかけたいな こんにちは
相手は誰でも あなたでもいい
私のとりこにしてみたいな

オー・シャンゼリゼ オー・シャンゼリゼ
欲しいものが昼も夜も
ここにはあるよ オー・シャンゼリゼ
 apprivoiserを「とりこ」か、うまく訳したね。

パリは5月が好き
 ZAZの演奏を聴いてからというもの、フランス語熱が再燃している。それで、いくつかのシャンソンのフランス語を自分なりに訳している。まあ、なにも僕が訳さなくても、世の中にはいろんな訳詞が出ていて、ネットで簡単に入手出来るが、そうではなくて、原詩の韻の踏み方や語感を味わいたいし、直訳のニュアンスを大切にしながら、どうやったら日本語として違和感なく表現出来るのかをいろいろ試すのが楽しいのである。つまり趣味の世界。

 いつも思うのだが、語学の出来る者であれば、原詩を理解するのは困難ではない。でも、難しいのはその先で、日本語の文章に翻訳するとなると、たちまちヨーロッパ言語と日本語との表現形態の断層の深さに突き当たり、それを無理矢理こなれた日本語にするためには、時にかなり大胆な意訳を試みなければならない。でもそうすると、誤解が生まれるリスクが高まり、時には、正反対の意味にとられてしまう危険性もある。日本語は難しい。

 ZAZが往年のシャンソン歌手であるシャルル・アズナブールと共演した「5月のパリが好き」を好んで聞いている。かつてカウント・ベイシー楽団のアレンジを引き受けていた名アレンジャーのクインシー・ジョーンズがプロデュースして、ベイシー風のイカしたフルバンドに乗ってふたりが歌う。シャンソンを含むあらゆるフレンチ・ミュージックはジャズととても相性が良い。僕はCDのこの演奏が大好き!

なので、この曲を自分なりに訳してみた。

J'aime Paris au mois de mai
パリは5月が好き
1
J'aime Paris au mois de mai
Quand les bourgeons renaissent
Qu'une nouvelle jeunesse
S'empare de la vieille cité
Qui se met à rayonner
パリは5月が好き
樹や花が芽を出し
新しい青春が
古い都を占領し
街が輝き出す 
2
J'aime Paris au mois de mai
Quand l'hiver le délaisse
Que le soleil caresse
Ses vieux toits à peine éveillés
パリは5月が好き
冬が見棄てて立ち去ると
今しがた目覚めたばかりの古い家々の屋根を
お陽さまが愛撫する 
3
J'aime sentir sur les places
Dans les rues où je passe
J'aime ce parfum de muguet que chasse
Le vent qui passe
通りがかった広場や通りで
風が追い立てて運んでくる
スズランの香りをかぐのが好き 
4
Il me plaît à me promener
Par les rues qui s'faufilent
A travers toute la ville
J'aime, j'aime Paris au mois de mai
街中を縦横に縫っている通りを
手当たり次第に散歩するのが好き
好き パリの5月って大好き 
5
J'aime Paris au mois de mai
Lorsque le jour se lève
Les rues sortant du rêve
Après un sommeil très léger
Coquettes se refont une beauté
パリは5月が好き
夜明けには通りが 
浅いまどろみの後
夢から覚めながら
色っぽく化粧をし直す 
6
J'aime Paris au mois de mai
Quand soudain tout s'anime
Par un monde anonyme
Heureux de voir le soleil briller
パリは5月が好き
名もない人達によって
不意にすべてが活気づく
お陽さまがキラキラと輝くのを見るのはしあわせ 
7
J'aime le vent m'apporte
Des bruits de toutes sortes
Et les potins que l'on colporte
De porte en porte
あらゆる種類の騒音
それに 扉から扉へと
渡ってゆくうわさ話を
運んでくる風が好き 
8
Il me plaît à me promener
Dans les rues qui fourmillent
Tout en souriant les filles
J'aime, j'aime Paris au mois de mai
人で溢れかえっている通りを
女の子たちに微笑みかけながら
お散歩するのが好き
好き、好き、パリの5月 
9
J'aime Paris au mois de mai
Avec ses bouquinistes
Et ses aquarellistes
Que le printemps a ramenés
Comme chaque année le long des quais
パリは5月が好き
春は連れてくる
いつもの年のように
屋台の古本屋や水彩画家たちを
セーヌの河岸に沿って 
10
J'aime Paris au mois de mai
La Seine qui l'arrose
Et mille petites choses
Que je ne pourrais expliquer
パリは5月が好き
セーヌ河はパリを潤す
すると説明のつかない
無数の小さな事件が起こる 
11
J'aime quand la nuit se léve
Etend la paix sur terre,
Et que la ville soudain s'éclaire
De millions de lumières
夜が始まる時が好き
地上に平和が広がってくる時
すると街は不意に
百万のあかりで光り輝く 
12
Il me plaît à me promener
Contemplant les vitrines
La nuit qui me fascine
J'aime,J'aime Paris au mois de mai
ショーウィンドをひやかしながら
お散歩するのが好き
僕をとりこにする夜
好き、好き、パリの5月 


タイトル
 一般的には「5月のパリが好き」というタイトルで知られた曲だが、僕にはどうも原詩がJ'aime Paris de maiとかJ'aime mai de Parisではなく、あえてJ'aime Paris au mois de maiとしたところに、「パリっていったら、なんてったって5月がいいよな」という雰囲気を感じるのだ。だから、あえて「パリは5月が好き」にした。

第1節目
Qu'une nouvelle jeunesse S'empare de la vieille cité
のnouvelle(新しい)とvieille(古い)の対比がいい。jeunesseは、単に「若さ」と訳す人がいるけれど、断然「青春」だよな。s'emparerという動詞は、「奪う、占領する、支配する」という意味。
「伝統ある古い都を、青春が占領し、街が毎年若さで上書きされる」
というニュアンスを理解して欲しい。

第2節目
Quand l'hiver le délaisse
のdélaisserは「見捨てる、見限る、なおざりにする、権利を放棄する」という意味。冬がパリを見捨てて、あるいはパリに対して自分の権利を放棄して、という感じ。こういう単語を使うのがまさに詩の味わい深いところ。冬の擬人化。これを単に「冬が去ると」と訳したのではつまらない。結局はそういう意味に落ち着くんだけれど・・・。

第3節目
 昔、5月1日のメイデーに、次女の杏奈とふたりでシャンゼリゼ通りに出たら、街中のあちらこちらにスズランが売っていて、muguetミュゲという単語を初めて覚えたのを昨日のことのように思い出す。5月のパリの象徴はスズラン。

第5節目は、ちょっと悩む。
Lorsque le jour se lève Les rues sortant du rêve Après un sommeil très léger
Coquettes se refont une beauté
夜明けには 通りが 浅いまどろみの後 夢から覚めながら
色っぽく化粧をし直す

この最後のCoquettes(女性名詞複数)は、そのままだと「色っぽい女達」という意味。でもその前ずっと「通り」(女性名詞複数)のことを言っているので、文脈からは「通りという色っぽい女達が化粧をし直す」という風に理解するのが自然ではないかと思う。ちなみにse faire une beautéという慣用句は「化粧をする」という意味。refaireは「し直す」。
 でも、心のどこかで、目が覚めるのは通りで、それとは無関係に「色っぽい女達は化粧をし直す」もアリかなあと思っている。早朝なのにねえ・・・でも、その可能性もゼロではないよ。だってうちの娘なんか、10時から二期会研修所の授業がある時なんか、朝っぱらからしっかり化粧しているもんね。昨晩遅く帰って来て寝たばかりなのに・・・。

第6節目
 本当は表現し切れないことがある。たとえばquand(の時)という言葉がこの詩のいたるところにあるだろう。
J'aime Paris au mois de mai Quand soudain tout s'anime Par un monde anonyme

これを本当は、「名もない人達によって不意にすべてが活気づく、そんな瞬間が好きなので、5月が好きなんだよ」というところまで意訳しちゃいたいんだけどね。また、意味的には、
J'aime Paris au mois de mai quandまで続いていて、ややこしいけれど、超直訳で言うと、「ということが起こる時としての5月という月が好きなんだよ」というニュアンス。

第7節目
Et les potins que l'on colporte De porte en porte
 うーん・・・les potins(複数)は「うわさ話」と訳したけれど、「ゴシップ」も面白いかも知れないな。colporterは「運び伝える、言いふらす、吹聴(ふいちょう)する」の意味。扉から扉へというのがあるので、とりあえず「渡ってゆくうわさ話」と訳したけれど、「言いふらされるゴシップ」というのでもよかったかな。でもねえ、ゴシップと言ってしまうと、なんか芸能界の話題みたいじゃない。うわさ話の方が身近。
どちらかに決めなければならないのが翻訳の辛いところ。

第9節目
 本当は、日本語としてはこんな風に訳した方がいいのに決まっている。
「春になると、いつもの年のように屋台の古本屋や水彩画家たちが、セーヌ河岸に並ぶ」
でもさあ、それじゃつまんないんだよね。フツー。だって原詩では、春が彼らを連れてくることになっているもの。暖かくなったから彼らがそこに勝手に店を構えるんじゃないの。彼らを連れてくるのは春なの。
 こうした擬人化はね、馬鹿にしてはいけない。ある意味宗教的ですらある。ロシア民話の12月(つき)ではないけれど、春っていう神さまが彼らを連れてくるんだよ。この哲学的表現を無視してはいけないんだ。

第10節目
La Seine qui l'arrose Et mille petites choses Que je ne pourrais expliquer
セーヌ河はパリを潤す すると説明のつかない無数の小さな事件が起こる

 原詩では、小さな事件が「起こる」なんてひと言も書いてないだろう。でもその前のarroserが曲者なのだ。
arroserは「水を撒く、水をかける」の意味。だから、
「セーヌ河がちょっとパリにチョッカイ出して水をかける」というニュアンスになるんだよ。「水もの」だから。
 でもなあ、一方でLa Seine arrose Parisというと「セーヌ河はパリを潤す」という慣用句があるので、そっちも生かしたいだろう。本当は両方をかねているわけだけれど・・・原語はLa seine qui l'arroseなので、両方のいいとこ取りをすると、こんな風。
「パリを潤すセーヌ河がちょっと水をかけただけで、パリではたちまち説明のつかない小さな事件が起きるのさ」
ここまで訳すとやり過ぎ?でも、読者には本当はここまで分かって欲しい。これがきっと翻訳家の悲哀というものなのだろう。

第11節目
J'aime quand la nuit se léve
 このla nuit se léveだが、la nuit sévèreというのもある。最初のは「夜が始まる」という意味だが、sévèreはシビアという意味するフランス語なので、「厳しい夜」のような内容になってしまう。印象としては夜が更けた感じだ。
 これは僕の個人的な好みなのだが、se léveの方がいい。なんとなくたそがれ時になってきて、街の輪郭が薄くなってぼうっと平和な雰囲気になってきたところに、街中の街灯が一気につき、家々の明かりがまるで示し合わせたみたいについて、無数のくっきりとした光の点で彩られた夜の街に変貌していくというイメージの方が自然な気がする。
「厳しい夜」だと、百万の光が突然輝くのは、現実ではなくて象徴的な意味になってしまう。けれど、そのモチベーションがよく分からない。宗教的なのかな?

 それに、そのすぐ後の第12節目の、ショーウィンドウをひやかすのは、そんなに遅い時間じゃないような気がするんだけれど・・・でもねえ、soir(晩)という言葉でなくて、あえてnuit(夜)という言葉を使うのが、最後まで引っ掛かるのだよ。
La nuit qui me fascine
訳では「僕をとりこにする夜」と書いたけれど、「僕を魅惑する夜」でもいい。この夜は、遅めの雰囲気だよね。


パリの空の下 フランス語~イタリア語~日本語
 シャンソンの「パリの空の下」のフランス語の歌詞を、イタリア語に翻訳し、レッスンでイタリア人の先生に見てもらった。思ったより細かな相違が多い。やはり、ラテン語オリジンの国民同士といえど、一枚岩ではないのだね。ちなみに僕の対訳も下に載せた。

Sous le ciel de paris Sotto il cielo di Parigi
Jean Bretonnière  
パリの空の下
 
1  
Sous le ciel de Paris Sotto il cielo di Parigi
S'envole une chanson Si alza in volo una canzone
Hum Hum Hum Hum 
Elle est née d'aujourd'hui E nata oggi 
Dans le cœur d'un garçon Nel cuore di un ragazzo 
パリの空の下 
ひとつのうたが飛び立つ 
そのうたは 今日 
ある若者の心の中に生まれた 
2  
Sous le ciel de Paris Sotto il cielo di Parigi
Marchent des amoureux Camminano gli innamorati
Hum Hum Hum Hum 
Leur bonheur se construit La loro felicità si costruisce
Sur un air fait pour eux Su una melodia fattta per loro
パリの空の下 
恋人たちがそぞろ歩く
そのしあわせは
彼らのために作られたメロディーの上に築かれていく
3  
Sous le pont de Bercy Sotto il ponte di Bercy
Un philosophe assis Un filosofo si siede
Deux musiciens quelques badauds Due musicisti, qualche spettatore
Puis les gens par milliers Poi la gente a migliaia
ベルシー橋の下では
ひとりの哲学者が座っている
ふたりの楽師に何人かの野次馬
それがいつの間にか沢山の人で溢れちゃうのさ
4  
Sous le ciel de Paris Sotto il cielo di Parigi
Jusqu'au soir vont chanter canteranno fino a sera
Hum Hum Hum Hum 
L'hymne d'un peuple épris L'inno di un popolo incantato
De sa vieille cité Dalla sua vecchia città
パリの空の下 
彼らは晩まで歌っていくのだろう
古い都に魅せられた
民衆の賛歌を
5  
Près de Notre Dame Vicino a Notre Dame
Parfois couve un drame Spesso cova un dramma
Oui mais à Paname Si ma a Paname(Panama)
Tout peut s'arranger Tutto si puo aggiustare
ノートルダム寺院の近くは
しょっちゅうなんらかの騒動を抱えている
でも それがいつの間にかうまく収まってしまうのが
パリというもの
6  
Quelques rayons Qualche raggio
Du ciel d'été Del cielo d'estate
L'accordéon La fisarmonica
D'un marinier Di un marinaio
L'espoir fleurit La speranza fiorisce
Au ciel de Paris Nel cielo di Parigi
夏の空の輝く光
船乗りの弾くアコーデオン
パリの空に
希望が花開く
7  
Sous le ciel de Paris Sotto il cielo di Parigi
Coule un fleuve joyeux Scorre un fiume gioioso
Hum Hum Hum Hum 
Il endort dans la nuit Nella notte si prende cura
Les clochards et les gueux Dei barboni e dei mendicanti
パリの空の下
喜ばしい河が流れる
夜になるとセーヌはそのふところに
浮浪者や乞食たちを眠らせる
8  
Sous le ciel de Paris Sotto il cielo di Parigi
Les oiseaux du Bon Dieu Gli uccelli del Buon Dio
Hum Hum Hum Hum 
Viennent du monde entier Vengono da tutto il mondo
Pour bavarder entre eux Per chiacchierare tra loro
パリの空の下
神様に祝福された鳥たちが
世界中からやって来て
おしゃべりに花を咲かす
9  
Et le ciel de Paris E il cielo di Parigi
A son secret pour lui ha un segreto
Depuis vingt siècles il est épris Da venti secoli è innamorato
De notre Ile Saint Louis Della nostra isola di San-Louis
でもね パリの空には
秘密があるんだ
もう二千年も前から
パリはサンルイ島に恋い焦がれているんだよ
10  
Quand elle lui sourit Quando lei gli sorride
Il met son habit bleu Lui indossa il abito blu
Hum Hum Hum Hum 
Quand il pleut sur Paris Quando piove su Parigi
C'est qu'il est malheureux E perche lui è triste
サンルイ島がパリに微笑めば
パリは青空を装う
でも 雨が降るってことは
パリの空が悲しんでいるということさ
11  
Quand il est trop jaloux Quando è troppo geloso
De ses millions d'amants Dei suoi milioni di innamorati
Hum Hum Hum Hum 
Il fait gronder sur nous Lui si scatena di noi
Son tonnerr'éclatant Con suo tuono ruggente
時には パリにいるおびただしい恋人たちに
あまりに嫉妬してしまう
そんな時は 我々の上に
ものすごい雷鳴を轟かせるんだ
12  
Mais le ciel de Paris Ma il cielo di Parigi
N'est pas longtemps cruel Non è crudele a lungo
Hum Hum Hum Hum 
Pour se faire pardonner Per chiedere il perdono
Il offre un arc en ciel Lui offre un'arcobaleno
でもね パリの空は
いつまでも意地悪ってわけじゃない
その後 お詫びのしるしとして
お空に虹を架けてくれるもの

第1節目
イタリア語の先生は、Elle est née d'aujourd'huiのdeはイタリア語では要らないので、è nata di oggiではなくè nata oggiで充分だという。そう言われてみると、そもそもフランス語でも要らないように思うね。deが入ると「今日生まれた」ではなく「今日という日から生まれた」みたいになるからね。先生にあっさり要らないと言われると「そっか」とも思ったけれど、後から、あえて入れている可能性も考えて、ちょっと心が揺れている。

第2節目
Marchent des amoureuxがmarciano gli amantiではなくCamminano gli innamoratiの方がふさわしいことは先週書いた。僕が訳したような「そぞろ歩く」というニュアンスはイタリア語のmarciareではないからね。もっぱら“元気よく行進する”という意味になってしまうから。まあ、そういう元気な恋人同士も中にはいるかも知れないけれど・・・。イタリア語のamantiも、フランス語のamoureuxには対応出来ない。恋人たちではなく、愛人たちという意味深な単語になってしまうから。
フランス語のairをイタリア語のariaに移し替えたら、先生にmelodiaの方がはっきりしていいと言われた。でもなあ・・・airないしはariaには“空気、大気、雰囲気”の意味もあって曖昧なのは分かるけれど、その曖昧な部分をも残した方が良かったかな、という迷いがあるなあ。
ただこの曲は、第1節目で若者の中に生まれた“ひとつのうた”が全体を支配していて、第3節目のふたりのミュージシャンのうたにみんなが集まり、その調べ(賛歌)が第4節目で晩まで続いていくというし、アコーデオンが希望を花開かしたりするというので、まあ、「メロディー」と言い切ってしまっても差し支えないのかも知れない。第11節目の雷鳴の轟きさえ、音楽の一種と捉えることも出来るからね。

第3節目
 Deux musiciens quelques badaudsに対応するDue musicisti,とqualche spettatoreの間には、コンマを入れた方がいいよ、と先生に言われた。で、入れてみたんだけれど、原詩では入っていない。もちろん入れた方が意味は分かりやすい。
「ふたりのミュージシャンと、それをきいて集まってきた野次馬たち、それから次第にどんどん人がなんだなんだと集まってきて、たちまち大勢の人だかりとなるのがパリなんだよな」という雰囲気の文章。

第4節目
 Jusqu'au soir vont chanterのように「行く」という意味のallerと動詞の不定形を使って近い未来を表すやり方は、イタリア語でもないわけではないけれど、一般的には使わないので、普通の未来形を使ってcanteranno fino a seraとしてみた。
 aとleという定冠詞の組み合わせのauに対して、イタリア語では、最初aとlaの組み合わせであるallaを使っていたが、先生に、「使ってもいいけど、イタリア語では定冠詞を使わないことが多いのよ」と言われたので、あえてfino a seraとした。ちなみにsoirは男性名詞でseraは女性名詞。何故だ?

第5節目
Parfois couve un drame及びSpesso cova un drammaのcouverあるいはcovareは、共に「親鳥が卵を抱く」とか「卵をかえして雛を抱く」とかいう意味で、それが転じて「事件などの計画を密かにたくらむ」の意味となる。フランス語のparfoisは「時々」で、イタリア語ではqualche voltaくらいがちょうどいいのだろうが、あえてもうちょっと頻度の高いspessoを用いてみた。「たまに」よりは「頻繁に」とか「しょっちゅう」のニュアンスが高い方がパリらしいじゃない。
Tout peut s'arrangerのs'arrangerに相当するのはイタリア語のarrangiare+siのarrangiarsiだが、先生は事件を調停したり丸く収めて解決するにはaggiustareという単語の方が相応しいと言う。

第6節目はほとんどそのまんま。アコーデオンという単語がイタリア語ではfisarmonicaと全然違う点をのぞけば・・・。

第7節目
Il endort dans la nuitは「(セーヌ河)は、夜になるとそこに浮浪者たちを眠らせる」という意味だが、先生はそれだったらcura「面倒を見る」という単語を使ってNella notte si prende curaとしたら分かり易いと言う。僕は、日本語では「面倒を見る」ニュアンスも大事かなと思って「そのふところに」という原語にない言葉を入れてみた。

第8節目
Les oiseaux du Bon Dieuの意味がよく分からなかったので先生に聞いた。Bon Dieuは「良い、善良な、優しい神」の意味。
「良い神様が作った被造物としての鳥たちという意味よ」
「僕たち人間だってみんなBuon Dioが作ったんじゃないか」
「でも人間の方が罪深いからね。鳥たちの善良さを強調しているというわけ」
「なるほど」
その善良な鳥たちが、屈託なくおしゃべりするために世界中から集まってくるということだね・・・そこまで考えてハッと思った。
以前、パリのバタクラン劇場の界隈で同時多発テロがあったろう。あの後、パリの市民たちは、
「自分たちは、フランス革命などを通して、自由を勝ち得てきたのだ。だから、普通に市民生活を送れる自由の街であることをなんとしても守らなければならない」
と言って、とても恐かっただろうに、普通に店を再開し、普通に市民生活を送るという一種の抗議行動を行った。
 僕も昨年パリに行った時、どんなにものものしくしているだろうと思いながら街に入ったが、普段通りののどかな街並みに拍子抜けしたほどだ。
でも、もしそれが彼等のポリシーを命がけで守っている故だとしたら、この第8節目の歌詞の意味はとても重いと思わないかい?

善良な鳥たちが屈託なくおしゃべりを出来る街。
そうした世界を作るためにかつては革命の血が流れた歴史を持つパリ。
自由、平等、友愛を努力して勝ち得た街。

第9節目
A son secret pour luiのpour luiは、イタリア語にするとper luiだけれど、先生は首をひねりながら、「これ要らないからha un segretoだけにしよう」と言った。フランス語のpour luiは、恐らく「彼にまつわる秘密」みたいの意味になるのだろう。
Depuis vingt siècles il est épris
このéprendre「夢中になる、惚れる」にrapire「うっとりさせる、恍惚とさせる、心を奪う」を当てはめようとしたら、「やっぱりこういう時はみんなinnamorareを使えばいいのよ」と言われた。なので、Da venti secoli è innamoratoにした。

第11節目12節目
 サンルイ島に恋しているパリの空が、その気まぐれなお陰で有頂天になったり悲しくなったりしたあげく、イチャイチャしている空の下の恋人同士に嫉妬して、もの凄い雷鳴をとどろかす。でも、その後でお詫びのしるしに、お空にあんなにも美しい虹を架けるなんて、とっても詩的。
 原語では虹をoffrirする「提供する、ふるまう、ご馳走する」という単語を使う。こっちの方が明らかに素敵なんだが、日本語になっちゃうと「お詫びのしるしに虹をふるまう」というのもねえ・・・。やっぱり、本当は原語でそのまんま味わうのがベスト。

詩の翻訳って何なのだろう?
 ふと考えた。僕は、こうしてフランス語をイタリア語に直したりしているけれど、どうして一番得意なドイツ語に直そうと思わないんだろうか?と。やっぱりね、ドイツ語ってダサいんだよ。だから、もともとドイツ語のヘッセやゲーテなどの詩はいいけど、小粋なフランス語の詩を、わざわざ野暮ったいドイツ語に直す必然性を感じないよな。
 それに、ドイツ語は、自分としたら結構日本語感覚でしゃべれる得意な言語なので、今更勉強することにあまり新鮮味を感じないというのもある。まあ、ドイツ語を専門にしていたり、もっと深く研究したい欲求が出てくればやるのだろうが、今のところワーグナーの楽劇のテキストが分かるくらいで満足しているからね。

 それよりも、自分で詩を勝手に訳しておいて言うのもなんだが、詩を訳すのって、そもそも意味があるのだろうか?フランス語をイタリア語に訳すのは、ほとんど同じオリジンの単語を並べればいいと言ったが、それをしたところで、脚韻などの“詩としての味わい”は当然ながら失われてしまうんだ。
 たとえば、Sous le ciel de ParisのパリーのイにElle est née d'aujourd'hui オージュールドウィーのイが対応していたり、S'envole une chansonのシャンソンのソンにDans le cœur d'un garçonのギャルソンのソンが対応している。こうした“響きの面白さ”は、もうイタリア語訳にはない。この節の全ての文章が6シラブルであることから生まれている独特のリズム感もない。
 詩は小説とは違って、意味内容よりも韻律のリズム感や語感が醸し出す雰囲気そのものの方が重要だったりするから、これでは訳したところでナンセンスではないか。では訳詩というものはまったく無意味なのか?うーん、難しい問題だが、一方で、良い詩は翻訳してでも読みたい、という気持ちにも嘘はない。

 この詩の中にずっと通奏低音のように流れている、古都パリの悠然としたたたずまいと、そこから日々新しく生まれ出る若きエネルギーに対する愛。それが“うた”や音楽と結びつき、立ち登ってくる文化の香り。かつて自らの手で勝ち取った自由を謳歌する街、その自由は、浮浪者や乞食、あるいは売れない画家や古本屋である自由をも含むし、この街はどんな人達をも受け容れるふところの広さを持っている。こんなパリを愛する歌が、僕のように同じようにパリを愛する者達の心を捉えて放さない。だから、この曲は、言語の壁を越えて世界中に愛されているのだ。

ああ、パリに行きたくなってきた。


秋の歌 ヴェルレーヌ
この記事は、ずっと前の2004年の11月28日のものだ。でも、今読んでも新鮮なので、この稿に載せた。

落葉 CHANSON D’AUTOMNE 秋のうた
(上田敏訳) (三澤による直訳) 
秋の日の Les sanglots longs 秋の 
ヴィオロンの Des violons ヴァイオリンの
ためいきの De l’automne 長いすすり泣きは
身にしみて Blessent mon coeur モノトーンにけだるい 
ひたぶるに D’une langueur 僕の心を 
うら悲し。 Monotone. 傷つける。 
 
鐘のおとに Tout suffocant 鐘が時を告げると 
胸ふたぎ Et blême, quand 僕は息詰まり 
色かへて Sonne l’heure, 青白くなりながら 
涙ぐむ Je me souviens 思い出す 
過ぎし日の Des jours anciens 過ぎた日を 
おもひでや。 Et je pleure. そして泣く。 
 
げにわれは Et je m’en vais そして僕は旅立つ 
うらぶれて Au vent mauvais 僕を連れて行く 
ここかしこ Qui m’emporte, 性悪な風に吹かれて 
さだめなく De çà, de là こっち、またあっちと
とび散らふ Pareil à la さながら 
落葉かな。 Feuille morte. 死んだ葉。 

 秋も深まってくると、毎年この詩を思い出し、口ずさむ。ヴェルレーヌの有名な詩だ。高校の頃は、この上田敏の海潮音からの訳が親友角皆君と僕との合い言葉だった。
 僕はこの詩に曲をつけようといろいろ試みたけれど、何故かどうやってもこの詩の持つ世界を壊してしまうようで進まず、とうとう中断してしまった。その中断したところまでは今聴いても悪くないんだけど、先を続ける気には未だになれない。
 それから時が経ち、僕はフランス語を勉強して、この詩を原語で読めるようになった。すると、このフランス詩は全く別の味わいと魅力を持っていることが分かった。同時に、これまで親しんできた上田敏の訳が、かなり誤訳に近い意訳であることにも気がついた。
 こうした上田訳の不足を補おうとするかのように、有名なこの詩には堀口大学をはじめ沢山の人が訳に挑んでいる。でも僕は、やっぱり上田訳に帰ってきてしまうんだな。

 原詩を見るとヴァイオリンが複数になっている。Sanglots longsは長いすすり泣き。秋のヴァイオリン達の長いすすり泣きとは、すなわち窓や木々の梢を音を立てながら吹き抜けていく「木枯らし」のこと。この寒々とした動的な感じが「秋の日の」と訳してしまうと失われてしまう。
 堀口大学は最初「秋のヴィオロンの」と訳していたけれど、後で気がついて、「秋風のヴィオロンの・・・」と訳し直したそうだ。これはひとつの解決策。
 それと第一節目最後のモノトーンという言葉を訳しそこねているのは残念だ。
 この詩のタイトルは上田訳では「落葉」となっている。しかし原題は「秋のシャンソン」あるいは「秋のうた」。枯れ葉だけがテーマではない。

 原詩のJe m’en vaisは、多くの訳者が「さまよう」と訳しているけれど、むしろ「旅立つ」「立ち去る」の意。「あの世に行く」という意味もある。
 枯れ葉はフランス語ではあまりロマンチックではない言い方をする。feuille morteすなわち「死んだ葉」。なんと即物的な!

さながら
死んだ葉

 Je m’en vaisの後にfeuille morteを出すことによって、限りなく死を暗示している。特にこの最後の単数の「死んだ葉」のひとことで、木枯らしに弄ばれた末にガクッと地面に落ちてペタッと止まる感じが表現されている。
 上田訳「うらぶれて」は素敵な言葉だが、原詩には全くない創作。われがうらぶれるのではなくて、われを連れて行く風がmauvais(悪い、ふしだらな)なのだ。誤訳でないとしたら行き過ぎた意訳。

 このように、「意味を訳す」という観点から見るとこの詩はかなり問題がある。でも、この詩はそれでもなお文学界に燦然と輝く名訳なのである。

 そもそも外国語の詩を訳すということは不可能なのだ。この詩の持つ魅力、4a 4a 3b 4c 4c 3bというシラブル数と脚韻を持つ相称六行詩(sixain symétrique)、すなわちピエール・ギローをして「この相称のなかの不均斉、偶数脚のなかの奇数脚こそはヴェルレーヌの韻律の本質である」と言わせしめた独特のイレギュラーな詩脚が醸し出すリズムや、「ロン」、「ヴィオロン」とナザールで韻を踏み、「ロトンヌ」で落とす脚韻の見事さなどは、どんな素晴らしい訳を施しても、日本語では表現し得るべくもない。詩こそは、言語と密接に結びついていて、その言語の響きや語感を味わい尽くすものだけに、これを他の言語に置き換えた時点で、そうした本質的な魅力は全く失われる運命にある。
 だからこそ訳詩には、原詩を踏まえながらその上に立って、新しく日本語の世界を構築する文学的才能が求められるのである。

 有名な篠沢秀夫教授は、「秋(の)日(の)、ヴィオロン(の)、ためいき(の)」と重なる(の)が、原詩「レ、サングロ、ロン、デ、ヴィオロン、ドゥ、ロトンヌ」と重なるオの母音を見事に再現している点を指摘し、上田訳を褒めている。
 また上田訳は、原詩と並べてみて分かる通り、原詩の六行フレーズを忠実になぞり、リズムは違うものの、五字綴りの日本語詩に仕立てている。上田訳は、原詩を知らない者にとっては、少なくとも原詩の持つ世界を予感させてくれるだけの役割は果たしている。そしてなにより純粋に詩として美しい。その美しさがあるから、その後沢山の訳詩が出てきても、変わらぬ人気を持ち続けることが出来たのである。

 木枯らしの吹く街を歩きながら、僕は心の中で何度も繰り返す。
「トゥ、スュフォカン、エ、ブレーム、カン、ソヌ、レール、
エ、ジュ、ム、スヴィアン、デ、ジューランスィアン、エ、ジュ、プレール」
何という響きの軽やかさ美しさよ!ナザールや子音達が僕の唇で舞い踊る。
 それと、もうひとつの詩も・・・・すなわち、
「鐘の音に胸ふたぎ、色かへて涙ぐむ・・・・」
こっちはちょっと重厚。
この二つの別々の作品は、共に僕の心のかけがえのない宝だ。



 


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