僕のワーグナー観とアプローチ
これまでのワーグナー体験

 ありがたいことに、「ニーベルングの指環」シリーズが始まってから、これまで予想以上の評価をいただいている。とはいえ、それは全く思いがけないというものでもない。

 ワグネリアンを自称しながらレコードを聴きまくっていた学生時代、二期会で若杉弘氏などの元で副指揮者として活動していた80年代から90年代、99年から五年間に渡るバイロイト祝祭劇場での経験、そして新国立劇場でのトーキョーリングをはじめとする様々なワーグナー体験。それらの間に、僕はワーグナー楽劇の神髄を探求し続け、正しいワーグナー演奏の規範を追い求めてきた。
 その中には反面教師もあった。というより、一般的なワーグナー演奏の常識というものに、いつしか疑問を抱くようになり、名盤と言われているCDに対してさえ、本当にこれでいいのだろうかと思うようになっていった。
 それに比例するように、自分にとってのワーグナー演奏の理想像は、しだいに霧の中からその全貌を明らかにしてきて、今では細部に至るまで明快なイメージを持つに至った。いよいよ時が熟してきた。折しも、神は、愛知祝祭管弦楽団という手兵を僕に与えてくれた。それは運命であり、僕に前に進む以外の選択肢はなかった。

こうして僕の「ニーベルングの指環」は始まったのだ。

ワーグナーの楽劇は面白い
 たとえば、みなさんは、ワーグナーの楽劇を本当に楽しい、面白いと思って聴いていますか?僕は、今だから言うけれど、はっきり言って退屈することが多いのだ。そんな時、それはワーグナーだから仕方ないとあきらめていませんか?僕もかつてはそうであった。しかしながらスコアを読んでいくと、決してそんなことはないのである。
 ワーグナーは、聴衆を放っておいて自己満足だけに浸っているナルシストではない。自分の表現したいことを確実に相手に伝えるべく、精緻なオーケストレーションを駆使し、ライトモチーフ(指導動機)によって雄弁にストーリーテリングを行っていくエンターテイナーなのである。だから、彼のスコアを丁寧に読み込み、これを正しく解釈するなら、退屈な場面はほとんどないと僕は断言する。

 実際、昨年の「ワルキューレ」の時、多くの方々から、
「一番退屈だと思っていた第二幕が、とても面白く聴けた。特にブリュンヒルデの死の予告のシーンがよかった」
と言ってもらえた。ある人はこうも言ってくれた。
「三澤さんの『ワルキューレ』がよかったので、家に帰ってからCDを聴いたら、つまらなかった」
これこそ我が意を得たりである。

ワーグナー演奏のみっつの誤解
 ひとことで言ってしまうと、世の中のワーグナー演奏はみな重厚すぎる。その理由としていくつかの単純な誤解がある。

ひとつめの誤解
「ワーグナーは哲学的、宗教的、精神的なので、重厚に演奏しなければならない」
もしかしたら「パルジファル」のような崇高な作品には、それは当てはまるかも知れない。しかし、「ニーベルングの指環」は、スピリチュアルな作品ではない。むしろその反対だ。神話を扱った物語でありながら、徹底的に人間くさいドラマである。これは、欲望と不条理を赤裸々に描き出しているリアリスティックな作品。もったいぶった重厚さは不要なのである。

ふたつめの誤解
「ワーグナーの音楽は合いすぎてはいけない」
「ワーグナーの音楽は、はっきり弾きすぎてはいけない」
「ワーグナー指揮者は、はっきり指揮してはいけない」
これがどれだけ間違っているかは、僕が五年間仕事したバイロイト音楽祭の祝祭管弦楽団の演奏が証明している。
バイロイト祝祭管弦楽団は、一人一人の奏者がしっかりした音を出して演奏している。そばで聞いていると少しの曖昧さもないが、「きっちり合っているだけ」という印象でないのは、点で音楽をやっていないで、大きなラインで音楽を捉え、うねるようなサウンドを作り出しているせいである。煙に巻かれたようなフニャフニャした音楽では断じてない。
それと、ひとりひとりの奏者が、確固たるイメージを持ち、確信に満ちて演奏しているが、たとえばライトモチーフに対するイメージが奏者によって微妙に違ったりする。しかし、だからこそエキサイティングなのである。青といえば青、赤といえば赤と、常に一色になるのではなく、様々な想いがぶつかり合って玉虫色の曰く言い難しという音色を出す。これがバイロイト祝祭管弦楽団の魅力なのである。
それを束ねる指揮者は、それらの一筋縄ではいかない奏者達を納得させるための、より大きなイメージを持っている。僕がバイロイトで実際に聴いていただけでも、レヴァイン、バレンボイム、ティーレマンなどは、実に明快な指揮で自分のイメージする音楽を、有無も言わせず伝えている。シノポリは、打点を叩かなかったが、彼の描くラインで、やりたいことは100パーセント奏者に伝わっていた。曖昧だから良い、というのは完全に間違っている。

みっつめの誤解
「先のふたつの誤解によって、つまらない演奏を良しとしている世の常識」
ワーグナーはドラマをもっと生き生きとさせるために楽劇を書いた。それなのに、ライトモチーフなどによる個々の音楽の描き分けがきちんと出来ていないとなれば、演奏がつまらなくなるのは必至だ。これこそ最も根が深い問題かも知れない。反対から言うと、
「ワーグナーの楽劇の演奏は、ドラマを描き切ることに徹するべし」
ということである。その観点からワーグナーのスコアを読み込み、そこに書いてあることが全て実現できたら、退屈な瞬間は一瞬たりともない!

僕のアプローチ
僕は全ての歌のパートを自分で歌ってみる。そして自分の歌えないテンポは決して選ばない。たとえば楽劇「ジークフリート」第一幕のジークフリート登場の場面を、ショルティなどはとても速く演奏する。それはそれでいい。しかしながら、日本人が歌う場合、そのテンポで演奏したら、歌詞のニュアンスは全く伝わらなくなってしまう。     
僕はそんな時、テンポありきではなく、表現ありきという選択肢を取る。その上に立って、ひとりひとりの歌手とピアノを弾きながら丁寧にコレペティ稽古をする。自分の解釈やテンポは伝えるが、逆に彼等の呼吸を読み、それと同化しようとする。そうして互いの関係から、最良の表現を導き出せるよう努める。つまり全てが一期一会なのであり、既成演奏のコピーなどナンセンスなのである。

歌手とのバランスのことであるが、ワーグナーの管弦楽に書かれてあるダイナミックスをきちんと守るならば、彼等の声を覆い尽くすことはない。ワーグナーの管弦楽法は、歌手が入ってくるとfp(フォルテピアノ)などを使い、周到にバランス調整を施してある。
バイロイト祝祭劇場での演奏では、劇場の構造故に、あまりバランスに留意しなくても成立する。しかしワーグナーはバイロイト祝祭劇場だけのためにスコアを書いていない。それなのに、一般的に演奏されているものは、垂れ流し的にうるさ過ぎ、その音の洪水がワーグナーであると聴衆も勘違いしている。だから、より大きな声の歌手ばかり起用されるという悪循環も起きている。
pはピアノで演奏すべし。こんな点でバイロイトを模範にしてはいけない。もしかしたら、バイロイトを良く知っているからこそ、言えることかもしれないが・・・・。

指揮者は、ワーグナーの意図したストーリーテリングを滞りなく行うために、気持ちの上では黒子に徹するべし。ドラマとしての必要に応じてテンポを決め、ライトモチーフを浮き立たせ、ある時は背景に徹し、自分のオーラを消しても歌手を支えるが、管弦楽が大きく情感の翼を広げる時には、遠慮することなくマッシブなサウンドを響かせるべし。
先ほどワーグナーの演奏が一般的に重厚過ぎるとは言ったが、むろん軽快ならよいという意味ではない。それどころか重厚さもワーグナー管弦楽の大きな魅力のひとつである。しかしながら、たとえば「ジークフリート」第一幕の活気溢れるジークフリート登場の場面での中途半端な重厚さは要らないだろう。だいたいにおいて、サクサクと物語を進めていくべき場面での停滞感が、ワーグナー演奏のネックになっているのだ。さらに、そのことが本当に情感溢れる場面での集中力を拡散してしまうという悪循環を作り出している。要するに、みんなでよってたかってワーグナー演奏をつまらなくしているとしか、僕には感じられないのである。

ポジとネガ
 さて、「ジークフリート」と「神々の黄昏」は双子の兄弟である。その兄弟は、とても似ていながら正反対でもある。「ジークフリート」がポジなら「神々の黄昏」はネガ。これは、最近急逝してしまった礒山雅氏が、ワーグナー協会講演会でかつて語ったことであるが、それに我が意を得たりと思いながら、僕は、すでに「ジークフリート」の中にネガ的要素が伏線として随所に入り込んでいることに気が付いた。
 恐れを知らず、若竹のようにまっすぐに成長したジークフリートは、本来ワーグナーにとって理想の英雄像であるはずだ。ワーグナーは、この英雄への愛着を公言してはばからず、自分の息子にもこの名前をつけた。
 しかしながら、作品の中で表現される主人公ジークフリートの中には、常に、その長所故の脆弱さのようなものが漂っている。もしかしたら、それを作っている時には、本人のワーグナーでさえ、気が付いていなかった可能性がある。

 たとえば、第二幕で英雄ジークフリートがファフナーを退治した直後、本来ならばもっと天真爛漫なファンファーレでも鳴るところだろうが、重苦しい音楽に直結し、瀕死のファフナーの独白が始まる。
 またその後、ミーメが、策略によってジークフリートを殺めようとしていることを見抜かれ、逆にジークフリートによって殺されてしまう場面でも、直後に後味の悪いような音楽が流れる。
 ジークフリートは、ファフナーを殺した時、あるいは自分の育ての親であるミーメを殺した時でさえ、罪の仮借のようなものを全く感じていない。それは、自分が彼等よりも上であるというプリオリティ意識故である。すなわち、
「彼等は死ぬに値する存在であり、自分はそれを駆逐する権利を持っている」
という差別意識につながっている。
 ところが音楽は正直だ。ワーグナーが紡ぎ出したそれらの重苦しい音楽が語っているのは、もっと根源的なこと。人が人を殺めることの宗教的意味と、殺人を犯した者が陥るであろう心理状態だ。表面意識としては感じていなくても、ジークフリートの潜在意識の領域では、加害者でありながら魂が深く傷ついているのだ。
 第二幕の終幕近く、ジークフリートは言いしれぬ孤独感に襲われる。
「自分には友と呼べる者がひとりもいない・・・」
他人の存在を拒否した行為が、その者を孤独に追いやるのである。

 「ジークフリート」第三幕第三場。「ブリュンヒルデの目覚め」の場面で響く、明るいホ短調の和音は、そのまま半音下げられて「神々の黄昏」冒頭の不吉な導入の和音となる。「ジークフリート」で物事がうまく運んだことが、そのまま同じ理由故に、「神々の黄昏」では全て反転し裏目に出て、この壮大な物語は没落に向かってまっしぐらに進んでいく。

ポジとネガを超えるものとは?
 こうしたことを包含しているから、本来なら「英雄が邪悪な大蛇をやっつけて美しい乙女を目覚めさせてめでたしめでたし」と明るく単純なはずの「ジークフリート」に陰りの要素が入り込んできている。
 そうしたことを僕は、先に説明した意味の分からない重厚さでぼやかすことなしに、ワーグナーのメッセージを確実に聴衆に届けたいと決心している。ワーグナーが「神々の黄昏」までの間に本当に表現したかったものを、この「ジークフリート」の演奏中に、聴衆のみなさんに伏線として感じ取ってもらうためにである。

そのメッセージは、実は、「神々の黄昏」の後にまで続いているのだから・・・。

大事なネタバレをしよう。

問い:恐れを知らぬ英雄ジークフリートに欠けているもの、それは何か?
答え:同情である。それ故、世界は滅んだといってもいいであろう。
問い:では、それを補う要素を備えた人間像をワーグナーは創造したか?
答え:した。その名はパルジファルである。それゆえ世界は聖化された。

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