沈黙

キチジローの強さ
 転びもんのキチジローについて考える。自分の弱さ故に、踏み絵はすぐ踏むし、なんと自らの手で司祭ロドリゴを役人に引き渡してしまうキチジローは、裏切り者のユダになぞらえられ、こんなキチジローにも救いはあるのだろうか、と問われている。
 でも、僕は思う。キチジローはユダとは違う。キチジローは、自分では弱虫だと言っているけれど、彼は本当は弱くはない。何故なら、彼は最後までキリストとつながろうとする事をやめないからだ。

 彼は執拗に、
「コンヒサン(告悔)をお願いします!」
とロドリゴにまとわりつく。自分がロドリゴを裏切った後でも、そのことによってロドリゴがどんなに嫌悪感をあらわにしても、彼はお構いなしである。
 ユダは違う。ユダは決して謝らないし、自ら進んでイエスから離れていく。そして自分で自分の命を絶つまで、彼の方からイエスに「立ち帰る」姿勢を見せることは、ついぞないのである。

 もし、あなたが不良の息子を持ったとする。明らかに誤った道を歩んでいたり、なにか悪いことを行っていることが明らかになった場合、あなたは息子に、
「お前は間違っている!」
と言うであろう。
 というか、その正邪は親としてはっきり正さなければならないであろう。でもそれに対し、息子が言うことを聞かなかったらどうであろうか?プイッとふてくされてあなたの元から去っていったとしたら、あなたはもうなすすべを持たないのではないだろうか。
 反対に、悪いことを認め、
「親父、ごめん!俺、今度こそ本当にちゃんとやるから!」
とすぐに謝ってしまうが、繰り返し罪を犯す息子はどうであろうか?これも困ったものではあるが、少なくとも自分の所に来る限りは、自分とつながっているのではないだろうか?
 つまり、そもそも親子の「関係」というものは、息子の方に悪の自覚があり、それを本人が認めて、
「ごめん!」
の一言がないと、築くことが出来ないのである。

 神と人間との関係も同じだ。ユダが強く、キチジローが弱いのではない。人間は、神の視点から見れば、多かれ少なかれ所詮弱く愚かで迷える存在なのであるから、神の前にはユダもキチジローも大差ないのである。でも、唯一大きく違うところは、キチジローは決して神を見棄てないが、ユダは神を見棄てたということである。神がユダを見棄てたのではない。ユダが神を見棄てたのだ。ユダのように、コミュニケーションを拒否した者には、神といえどもすでになすすべを持たないのである。最も大事なことは、コミュニケーションに他ならない。

 五木寛之著の親鸞~激動篇の最後の方に、親鸞の法話がある。人は何故念仏を唱えるのかという疑問に対し親鸞はこう答えている。

「もし嵐で船が難破したとする。逆巻く波の夜の海で、おぼれそうになっているときに、どこからか声がきこえた。すくいにきたぞ!おーい、どこにいるのだ!と、その声はよんでいる。さて、そなたならどうする。平次郎どの」
親鸞にきかれて、平次郎はこたえた。
「ここにいるぞ!おーい、ここだ、助けてくれー、と声をあげるでしょう」
「そうだ。まっ暗な海にきこえてくるその声こそ、阿弥陀如来がわれらに呼びかける声。その声に応じて、ここにおります、阿弥陀様!とこたえるよろこびの声が南無阿弥陀仏の念仏ではあるまいか」

キチジローとは遠藤周作
 キチジローは何故ロドリゴから離れなかったのであろうか?何がキチジローをして、そんな面倒くさい贖罪の道を永遠に歩み続けさせたのであろうか?そんなに弱かったら、いっそのことキリシタン達からもロドリゴからも離れて、どこか遠くの国で暮らせば良いではないか。なにもキリスト教だけが宗教ではないではないか。
 それに言及する前に、キチジローという存在が、そもそもキリスト教の信仰を捨てたくても捨てられなかった遠藤氏の生き方そのものをモデルにしていることを挙げておこう。
 クリスチャンの家庭に育った遠藤氏は、キリスト教が嫌で嫌でたまらなかったという。さらにフランスにまで留学して、西洋文化を吸収しようとした遠藤氏は、あまりにも自分の感性とかけ離れた石の文化に最後まで溶け込むことが出来ず、挫折して帰国する。
 ところが彼が日本に帰ってきてから行ったことといえば、我が国では人口の1パーセントにも満たないキリスト教を題材にした文学を書き続けたこと。しかも、それが日本人の共感を呼び、彼が作家としてその生涯をつつがなく終えられたことだ。
 これこそ、キチジロー的しぶとさであり、キチジロー的強さでなくて何であろう。キチジローの強さとは、転んでも転んでも“つながり続ける”強さだ。親鸞の言う
「ここにいるぞ!」
を叫び続ける信仰の強さなのだ。

沼地である日本
「この国は沼地だ。やがてお前にも分かるだろうな。(中略)どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐り始める。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった。(中略)日本人は、人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は、人間を超えた存在を考える力を持っていない」
 この言葉を言うのは、ロドリゴの前に15年も日本で布教活動をし、その後の弾圧で棄教してしまったフェレイラである。フェレイラは、ロドリゴのかつての師である。この言葉は僕には、痛烈な日本文化批判であるように感じられる。

 たとえば、ここで「基督教」という言葉を「民主主義」に置き換えてみるといい。我が国では、西洋から輸入された民主主義という苗が、本当に西洋のまま成熟して育っていると言えるのだろうか?
 民意が政治に直接反映する民主主義は、本当に健全に営まれていると言えるのだろうか?その前に、民意というのが本当にあるのだろうか?ひとりひとりが、現在の政治のあり方に「責任」を持っているという自覚があるのだろうか?
 経済原理とお上にかしずく妙な従順さの陰で、不自然な根回しや裏工作が横行し、与党と野党とはただの上げ足取りを繰り返しているのが、あるべき民主主義の姿なのであろうか?

 このように、日本人は和魂洋才(わこんようさい)という名の下に、全てのことについて、自分の都合のよいように変形させてしまうのだ。それは一種の才能でさえある。ただ、僕には、フェレイラの言うように、日本人が人知を超えたものを認識する力がないとは決して思わないが・・・・・。

遠藤文学は異端か?
 遠藤文学が日本人の共感を呼ぶ背景には、こうした日本人の特性に言及している個所が多いことである。キリスト教というものさしを当てることによって、日本人とはどのような民族なのか客観的に考察しているのが新鮮ともいえる。
 ただ、それだけに、遠藤文学に表現されるキリスト教観は、オーセンティック(正統的)なキリスト教から大きくはずれている。遠藤氏がキチジロー的しぶとさでカトリック作家として大成したことは尊敬するが、かといって僕は彼の異端的な面を見過ごすわけにはいかない。日本人の特性がそうだからといって、布教する教義自体を「日本人に合うように」変える権利は、何人たりとも有してはいないのである。

 カトリック信者以外の読者に言っておくが、日本のカトリック信者が、みんな遠藤周作氏の考えに賛同しているなどとは決して思わないで欲しい。むしろ、小説「沈黙」が世に出た直後は、当のカトリック教会からの反発には凄まじいものがあった。僕も、その頃はちょうど教会に通い出して洗礼を受ける直前だった。若い信仰心に燃えていただけに、僕は猛反発して、誰彼となくつかまえては議論した覚えがある。森一弘司教などは、遠藤氏のキリスト教観に対し、「石の文化から木の文化へ」と一定の理解を表明しているが、現代でも聖職者の中に、遠藤氏の考えを認めない人は少なくないのである。

 西洋で支配的な「正邪を分かつ絶対的な神」という捉え方から、東洋的な「赦す神」へと誘(いざな)った遠藤氏の方向性は間違っているとは思わない。神にはその両方の面があるからである。
 ただ先ほどの親子の関係のように、赦しの前には罪の自覚が不可欠である。罪の放置や断罪の先送りは決して真の赦しにつながらないという意味で、この二つは一対をなしている。どちらが欠けても神の真の姿を捉えたことにはならないのであるが、遠藤氏の場合、意図的に「赦す神」を強調するあまりに、そのバランスを崩してしまっているように思われる。

 遠藤氏がもし中世のヨーロッパに生まれていたならば、間違いなく異端裁判にかけられ火あぶりの刑になったであろう。少なくとも、奇蹟を起こすことの出来ない無力なイエスという考え方は、教義的には明らかに間違っていると思うし、
「踏み絵を踏みなさい。そのためにわたしはいるのだから」
と言うイエスも間違っていると思う。そして、その問題こそ、まさに親鸞が悩み続けた他力信仰の落とし穴なのである。すなわち、どうせ赦してもらえるのだから、どんどん罪を犯してもいいのかという極論にまで発展するわけである。

 司祭ロドリゴは、井上筑後守(いのうえちくごのかみ)の狡猾な責め苦に遭い、穴の中に宙づりにされている信徒達を助けたければ信仰を棄てよと強要されている。そこにフェレイラが現れる。フェレイラは言う。
「もしここにイエスがいたら、彼は愛のために転んだ(棄教した)であろう」
このセリフこそ、大間違いである。そんな情緒的だけの行動をイエスは決してしない。
 イエスは、平和に漁師として生活していたペテロを弟子にし、
「わたしはこの岩(ペテロ)の上にわたしの教会を建てる」
と持ち上げておいて、受難の時は逆に、
「お前はわたしを3度知らないと言うであろう」
と予言して罪の呵責に追い込み、最後には殉教するまでに至らせた。ある意味、イエスは徹底的に残酷な人である。何故か?それは、彼自身、全くこの世的価値観で生きていないからである。
イエスは言う。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣(つるぎ)をもたらすために来たのだ」(マタイによる福音書第10章34節)
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイによる福音書第16章24-25節)
自分自身、十字架上での痛ましい死に至るまで、徹底的にこの地上的価値観を越えた美学で行動したキリストの生き方は凄まじいばかりなのだ。真実を伝え、真実に生きるということはそういういことなのだ。

 かく言う僕自身、偉そうなことは言えない。ロドリゴの立場になったら、同じように転んでしまったかも知れない。いや、弱虫な僕は、きっと転んでしまうだろう。ロドリゴどころか、キチジローのように醜い姿をさらすかも知れない。でも、絶対に言わないと断言できるのは、
「キリストも転ぶだろう」
などという甘ったれたセリフだ。
 それだけは言ってはいけない!イエスはそんな人ではない!そんな人ではないぞーーーー!愛のために転んだりするわけねーだろうが。そんな愛は人間の低い情愛であって、神の愛ではなーい!神の愛はなあ、もっと世を超越していて崇高で近寄りがたく、そして厳しいものなのだ!あほんだらああああああああ!

ハアハアハア・・・・・。

 でも、こうも思う。キリスト教が自らのまわりに罪の意識を張りめぐらしていることによって、一般の日本人に取りつく島がないのは理解出来る。罪を悔い改めて懺悔しないとキリスト教の門は開いてくれないというのは、日本人には敷居が高いのかも知れない。
 遠藤氏は、それを分かっていて、
「ああ、これだったら受け容れられるかも知れない」
と思ってもらうために執筆したのかも知れない。
 そして、すでにキリスト者となっている者達には、自分の考え方をオカズにしてどんどん議論してもらい、そのことによってそれぞれの信者が自分の信仰を見つめ直し、深めてもらえればと、あえて突っ込みどころ満載のキリスト教観を打ち出したのだろう。その意味では遠藤氏は“なんちゃって異端”の確信犯なのだと思う。

 加えて、カトリック教会も、最近は随分寛容になってきているので、聖書学の様々な異端的仮説に対しても、容認はしていないだろうが放任している。火あぶりは勿論、追放のようなことも特に行われはしない。まあ、いい時代になったものである。
 だから遠藤文学もオフィシャルにカトリック教会から除名とはなっていないし、僕が異端的だと発言しても別になんら問題はないわけである。ともかく遠藤文学は徹頭徹尾日本人の方を向いていて、日本人の日本人による日本人のための文学であることは間違いない。
 でも、それは裏を返せば、川端康成や三島由紀夫が海外で人気を博しているようには、西洋では決して受け容れられないことを示している。まあ、そんなことは元より望んではいなかっただろう。そもそも遠藤氏自身が西洋と袂を分かつことから遠藤文学は出発しているのだから。

松村「沈黙」~普遍性の獲得
 ところが、このような遠藤文学の民族的閉鎖性を超え、インターナショナルな普遍性を獲得することにあっけなく成功したのが、松村禎三氏の描き出した「沈黙」である。稽古を重ねれば重ねるほど、僕には、松村「沈黙」は、遠藤周作氏の原作から、教義的に異端的な要素を全て周到に排除した作品だと思えてきてならない。松村氏は、クリスチャンでもないのになんてキリスト教の教義に深く精通していて、そしてなんて狡猾なのであろう。

 つまりはこうだ。この作品だったら、ヨーロッパに持って行っても、確実に西洋人に受け入れてもらえるのだ。この作品だったら、少しも日本的ではなく、異端的でも閉鎖的でもなく、実にインターナショナルなのだ。
 松村氏はきっとこの作品をもって世界に進出していくことを考えていたに違いない。しかしながらそれは彼の野望ではない。僕は松村氏という人間をよく知っているが、彼が「自分の野望の実現」のために遠藤氏を利用したなんてことはあり得ない。むしろその逆である。それどころか、それは松村氏の遠藤氏へのリスペクトであり、愛なのかも知れない。
 松村氏は、遠藤氏のこの作品を、もっと広く世に出したいと本気で思っていたに違いないのだ。遠藤氏がかつて日本人のためにキリスト教の教義を曲げたように、その遠藤氏の内容を、松村氏が普遍性獲得のために再び曲げたのだとしたら・・・・それも運命かも知れない。

 こう僕が言うのは、この作品自体の価値は、世界で立派に通用する内容を持っているからである。いや、オペラ「沈黙」こそ、我が国のこれまでの全てのオペラの中でも最高峰であると僕は断言する。
 同時に、このオペラは、我が国が初めて作り出した、西洋文化思潮史とがっぷり四つに対峙出来る内容を持った祈念碑的作品である。この非キリスト教国の日本が、こんな作品を生み出したということ自体が奇蹟ではないだろうか。

 オペラでは、ロドリゴが最後まで問いかける。
「あなたは今こそ沈黙を破るべきだ!・・・・答えてください・・・・・イエスよ!・・・・あなたはとうとう最後まで何もお答えにならなかった・・・・・」
そこに合唱がOra pro Nobis(我らのために祈り給え)と静かに舞台裏から響き渡る。すべてを暖かく包み込むように。限りなくやさしく・・・・・。
 この解決方法は、「沈黙」という作品の解決にとどまらず、むしろ我々の世界のあり方そのものを表現している。

 この世においては、神も仏もないような不条理がどんなにまかり通っていても、神は沈黙を守っている。ホロコーストが行われていても、原爆が落とされても、飢餓にあえいでいても、東日本大震災が起きても、神は、この世に生み落とされて悲惨さの中に沈んでいる我々人類を放置したまま、あきれるほどの沈黙を守っている。
 でも、本当にそうだろうか?本当に神は沈黙しているのだろうか?確かに言葉では言わないし、現実の目に見えるような形では現れてこない。けれど、それをもって「沈黙」と言うのか?
 いやそれどころか、心の眼を開いてよく見てみれば、あの舞台空間いっぱいにOra pro Nobisが響き渡っているように、世界は、いや大宇宙は、神の息吹というものに充ち満ちているのではないだろうか?神の音楽は、これまでも、どの時代のどの空間においても、むしろ飽和状態で鳴り響いていたのではないか?我々は、ただそれに気が付かないだけなのではないか?
 Ora pro Nobisというラテン語と響き渡る音楽は全く西洋風であるが、これが舞台空間に響き渡ると、僕はそこにアジア的汎神論を感じる。このラスト・シーンの中に、僕は従来のキリスト教の限界を打ち破る新たな胎動を感じる。僕は、この作品がいつか世界に羽ばたいていく姿を夢見ている。そして、それはそう遠い将来ではないような気がする。

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