8月21日

 先週読み始めた音楽之友社のブラームス回想録集だが、面白くてあれから2巻とも一気に読んでしまった。これまで我々がいかに間違ったブラームス像を抱かされていたか分かって唖然とする。なにしろ、ここに収められているのは皆ブラー ムスの身辺で生活していた人達が描いた「生の」ブラームスの言葉であり行動なのだから。
 その中からいくつかを引用しよう。

変則をやるのはかまわない。ただしきちんと理由が説明できて、必然性がある場合だけだよ・・・・こういったリズム構成は、必ず低声(バス)の旋律できちんと説明できなければならないし、バスは上声部の鏡像になっていなければならないよ。

 ブラームスは至る所でバスの扱いに言及している。ワーグナーの「ジークフリート」終幕の二重唱に対して否定的な意見を述べる時も、

あそこは全曲中一番弱い。あのひどいバスったら!

という言い方をする。彼は必ずバスとの関係の中で音楽を考えている。これはバッハ時代の通奏低音を基本とするドイツ音楽の伝統の上に彼の音楽も存在する証であると同時に、ブラームスの音楽を理解し演奏する為にはバスに注意を払う必要が不可欠である事を示唆してもいる。
 ワーグナーに対するブラームスの評価は常に首尾一貫している。彼は「神々の黄昏」の葬送行進曲が過大評価されているのを批判した後でこう言う。

「森のささやき」だって似たようなものだ。詩的な感じはするが、音楽的には無意味だよ。「ラインの黄金」の例の変ホ長調の三和音と同じで、ただの要素だ。要素だけの音楽、つまり管弦楽法だけの音楽だ。

つまり彼にとっては、和音の連結やメロディーなどが様々な雰囲気や情緒を表現するその効果は認めるけれども、それだけではただの「要素」であり、そこから楽曲を「構築」して初めて音楽として成り立つと考えているのである。一方劇場では、それがドラマと一体となった場合、単なる「要素」だけでも音楽として存在し得る。この辺にシンフォニカーであるブラームスとドラマティカーであるワーグナーとの立場の違いがあるのだ。
 新しい音楽に対してのブラームスの印象。R・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」に関して、

最後のところを見たかね?ロ調とハ調が同時だ。まあどんな調が混ざってもよいが、それには混ぜる人間の内なる欲求がないとね。でもその人が抵抗を感じなければ反対しないよ。しかしどんなもんかねえ・・・・。

他の二流の音楽に対するような痛烈な批判が出ないところに、新しい潮流に対するとまどいが見えるのが何となく可愛い!

 今日(8月21日)も群馬宅で書いている。今日、明日は新町歌劇団の「ナディーヌ」公演。合唱団は国立と違って新町歌劇団なので頭がこんがらがってしまい、もう出来ていたと勝手に思いこんでいたら、まだ作っていなかったなんてこともしばしば。でも一度国立で舞台にかけたので、どこが難しいか、本番までに何に気をつけて練習しなければならないか完全に把握しているので、その点ではかなり楽だった。
 それに今回は作品をかなり客観的に眺められた。僕は自分の作品をワーグナーやプッチーニのような巨匠の傑作と並べるつもりは毛頭ないけれど、少なくとも言える事は、クラシック、ジャズ、ロックなど様々な分野の音楽が出そろい、オペラ、ミュージカルなどが混在している「現代」でなければ生まれ得ない作品だと思う。その意味ではバーンスタインの「ミサ」と問題意識が似ているかも知れない。
 でも大きく違うところは、バーンスタインは不安の時代(彼の第二交響曲のタイトルでもある)、あるいは不毛の時代を作品の中で表現していたが、現代は彼の時代よりももっともっと不毛、もう本当に極限まで不毛な時代なので、その不毛さを表現したってみんなが絶望に陥るだけだから、僕はそうした表現は冒頭の「大都会」だけにとどめて、後は夢と希望で作品を彩ったというわけだ。
 指揮していて突然、
  「これ本当に僕が作ったの?」
と思う事がある。こんな不思議な感覚、皆さんには分からないだろうなあ。とにかく、公演に来てくれた人達全てに、少しでも生きる勇気と希望を与えられたらと願っている。

 ギリシャ・オリンピックで日本選手が大活躍している。世界の檜舞台で自分の力を出し切る選手達の瞳は輝いている。今だから白状するが、実は僕は中学一年生の時、一学期だけ柔道部にいたことがある。あはははは、嘘みたいでしょう!体を鍛えようと思って入部したのだが、みんなの中で一番下手だった。でも受け身だけは誰よりも上手だったよ。夏休みになる時にやめて二学期から吹奏楽部に入り、トランペットを持ったんだ。そんなわけで、柔道の技のことは少しは分かる。しかし、あれだねえ。一本決まった時って胸がスカッとするね。
 スポーツにおいては勝負がはっきりしているので、喜ぶにしても悲しむにしても見ての通りだ。音楽の世界ではどうだろう。本当に優秀な人が最高の舞台に立てるよう、人材を発掘し、正しい判断をしていかなくてはならない。これはとても大きな使命だ。私情を捨てる事。公平である事。自分にも他人にも常に正直である事。僕くらいの年代になると、もう昔ほど目上の人に気を遣う必要はないので、組織の中にあっても勇気さえあれば正直に生きる事は可能だ。でも一番大変なのは、例えばだよ、最高の人材が性格悪く嫌な奴だった場合。反対にNO.2の人材は自分を敬い慕い、自分にとってこの上なく好ましい場合。さあ、あなたならどうする?それでも公平な判断をする為には、僕には宗教が必要なんだ。

私は人に仕えられる為にではなく
人に仕える為にこの世に来た

キリストのこの言葉は今の僕にはとても重いんだよ。
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