秋のうた
落葉
(上田敏訳)
CHANSON D'AUTOMNE 秋のうた
(三澤による直訳)
秋の日の Les sanglots longs  秋の
ヴィオロンの Des violons  ヴァイオリンの 
ためいきの        De l’automne  長いすすり泣きは
身にしみて Blessent mon coeur  モノトーンにけだるい 
ひたぶるに D’une langueur  僕の心を 
うら悲し。        Monotone.  傷つける。 
   
鐘のおとに Tout suffocant  鐘が時を告げると 
胸ふたぎ Et blême, quand  僕は息詰まり
色かへて        Sonne l’heure,  青白くなりながら 
涙ぐむ Je me souviens  思い出す
過ぎし日の Des jours anciens 過ぎた日を
おもひでや。        Et je pleure.  そして泣く。 
   
げにわれは Et je m’en vais そして僕は旅立つ 
うらぶれて Au vent mauvais  僕を連れて行く
ここかしこ        Qui m’emporte,  性悪な風に吹かれて 
さだめなく De çà, de là  こっち、またあっちと 
とび散らふ Pareil à la  さながら 
落葉かな        Feuille morte.  死んだ葉。 
 秋も深まってくると、毎年この詩を思い出し、口ずさむ。ヴェルレーヌの有名な詩だ。高校の頃は、この上田敏の海潮音からの訳が親友角皆君と僕との合い言 葉だった。
 僕はこの詩に曲をつけようといろいろ試みたけれど、何故かどうやってもこの詩の持つ世界を壊してしまうようで進まず、とうとう中断してしまった。その中 断したところまでは今聴いても悪くないんだけど、先を続ける気には未だになれない。
 それから時が経ち、僕はフランス語を勉強して、この詩を原語で読めるようになった。すると、このフランス詩は全く別の味わいと魅力を持っていることが分 かった。同時に、これまで親しんできた上田敏の訳が、かなり誤訳に近い意訳であることにも気がついた。
 こうした上田訳の不足を補おうとするかのように、有名なこの詩には堀口大学をはじめ沢山の人が訳に挑んでいる。でも僕は、やっぱり上田訳に帰ってきてし まうんだな。

 原詩を見るとヴァイオリンが複数になっている。Sanglots longsは長いすすり泣き。秋のヴァイオリン達の長いすすり泣きとは、すなわち窓や木々の梢を音を立てながら吹き抜けていく「木枯らし」のこと。この寒 々とした動的な感じが「秋の日の」と訳してしまうと失われてしまう。
 堀口大学は最初「秋のヴィオロンの」と訳していたけれど、後で気がついて、「秋風のヴィオロンの・・・」と訳し直したそうだ。これはひとつの解決策。
 それと第一節目最後のモノトーンという言葉を訳しそこねているのは残念だ。
 この詩のタイトルは上田訳では「落葉」となっている。しかし原題は「秋のシャンソン」あるいは「秋のうた」。枯れ葉だけがテーマではない。

 原詩のJe m'en vaisは、多くの訳者が「さまよう」と訳しているけれど、むしろ「旅立つ」「立ち去る」の意。「あの世に行く」という意味もある。
 枯れ葉はフランス語ではあまりロマンチックではない言い方をする。feuille morteすなわち「死んだ葉」。なんと即物的な!

さながら
死んだ葉

 Je m'en vaisの後にfeuille morteを出すことによって、限りなく死を暗示している。特にこの最後の単数の「死んだ葉」のひとことで、木枯らしに弄ばれた末にガクッと地面に落ちて ペタッと止まる感じが表現されている。
 上田訳「うらぶれて」は素敵な言葉だが、原詩には全くない創作。われがうらぶれるのではなくて、われを連れて行く風がmauvais(悪い、ふしだら な)なのだ。誤訳でないとしたら行き過ぎた意訳。

 このように、「意味を訳す」という観点から見るとこの詩はかなり問題がある。でも、この詩はそれでもなお文学界に燦然と輝く名訳なのである。

 そもそも外国語の詩を訳すということは不可能なのだ。この詩の持つ魅力、4a 4a 3b  4c 4c 3bというシラブル数と脚韻を持つ相称六行詩(sixain symetrique)、すなわちピエール・ギローをして「この相称のなかの不均斉、偶数脚のなかの奇数脚こそはヴェルレーヌの韻律の本質である」と言わ せしめた独特のイレギュラーな詩脚が醸し出すリズムや、「ロン」、「ヴィオロン」とナザールで韻を踏み、「ロトンヌ」で落とす脚韻の見事さなどは、どんな 素晴らしい訳を施しても、日本語では表現し得るべくもない。詩こそは、言語と密接に結びついていて、その言語の響きや語感を味わい尽くすものだけに、これ を他の言語に置き換えた時点で、そうした本質的な魅力は全く失われる運命にある。
 だからこそ訳詩には、原詩を踏まえながらその上に立って、新しく日本語の世界を構築する文学的才能が求められるのである。

 有名な篠沢秀夫教授は、「秋(の)日(の)、ヴィオロン(の)、ためいき(の)」と重なる(の)が、原詩「レ、サングロ、ロン、デ、ヴィオロン、ドゥ、 ロトンヌ」と重なるオの母音を見事に再現している点を指摘し、上田訳を褒めている。
 また上田訳は、原詩と並べてみて分かる通り、原詩の六行フレーズを忠実になぞり、リズムは違うものの、五字綴りの日本語詩に仕立てている。上田訳は、原 詩を知らない者にとっては、少なくとも原詩の持つ世界を予感させてくれるだけの役割は果たしている。そしてなにより純粋に詩として美しい。その美しさがあ るから、その後沢山の訳詩が出てきても、変わらぬ人気を持ち続けることが出来たのである。

 木枯らしの吹く街を歩きながら、僕は心の中で何度も繰り返す。
「トゥ、スュフォカン、エ、ブレーム、カン、ソヌ、レール、
エ、ジュ、ム、スヴィアン、デ、ジューランスィアン、エ、ジュ、プレール」
何という響きの軽やかさ美しさよ!ナザールや子音達が僕の唇で舞い踊る。
 それと、もうひとつの詩も・・・・すなわち、
「鐘の音に胸ふたぎ、色かへて涙ぐむ・・・・」
こっちはちょっと重厚。
 この二つの別々の作品は、共に僕の心のかけがえ のない宝だ。


 ブラームス回想録集の第三巻「ブラームスと私」(音楽之友社)が出て、いよいよこのシリーズが完結した。特に感銘を受けたのは、シューマン夫妻の四女オ イゲーニエ・シューマンの手記。
 ブラームスが彼女にピアノのレッスンをする様が細かく記されている。オイゲーニエはなかなか文才があるので、読み物として楽しく読める。

「スタッカートでバッハを弾いちゃいけない。」
「でもママ(クララ・シューマン)はよく、スタッカートで弾いている。」
あははは、結構こんな風に口答えしているのは親しい証拠。
 興味深いのはブラームスとクララがしょっちゅう喧嘩をしていたこと。ブラームスの気まぐれからくる無愛想さと、お嬢様育ちゆえに繊細なクララがささいな ことですれ違う様子がうまく描写されている。
 またブラームスはいろいろいたずらをするのが好きだったのだが、不器用なのでハズレて結果的に人を傷つけてしまったことも少なくないようだ。

 ある時、クララの演奏を聴いた後で、ブラームスはオイゲーニエにベートーヴェンの楽譜を取りにいかせた。そしてページをめくり声をあげた。
「まったくお母さんの耳ったら、正確この上ないよ。ここを見てごらん。どの楽譜でも同じ音が印刷されている・・・・。ずっと誤植だと思ってきたのが、最近 自筆譜を見ることができて、やっと僕が正解だとわかったんだ。でもお母さんはその前に訂正しているじゃないか!そんな耳を持っている音楽家なんか、いやし ないよ!」
 ブラームスのクララを想う気持ちは、こんな風に尊敬とあこがれとが一体となった本当に美しいもの。またクララの子供達があんなにもブラームスを慕ってい ることからも分かるように、ブラームスは本当にやさしい人なんだ。最近僕はブラームスを人間的にますます好きになってきた。まったく、ワーグナーとはあら ゆる意味で対照的だね。

 そのワーグナーなんだけど、昨晩東響コーラスのオーディションの集計を待っている間に、大久保の事務所の本棚にあった「バイロイトの長い坂道」という ワーグナーの伝記を取って読んだ。こいつは本当に自己中心的な奴で、人から多額の借金をしておきながら、自分は着るものや調度品、食事など贅沢三昧。逃亡 生活の先で自分をかくまって面倒を見てくれた恩人の奥さんはいただいてしまうし、全く読んでいるだけで腹が立ってくる。
 しかし二度目の妻でリストの娘、コジマ・ワーグナーのワーグナーへの深い思いには胸がつまった。
 ワーグナーは旅先のヴェニスで心臓発作を起こし、ソファのコジマの膝の上で息を引き取った。コジマは誰になんと言われようとも、遺体のそばを離れようと しなかった。食事もとらず横にもならないで、ベッドに移された夫の横にひざまづいていた。25時間後、まわりの人々が遺体を棺に移す為に無理矢理彼女をそ こから引き離した。彼女は盛大な葬儀にも埋葬式にも姿を見せず、何一つ口にせずひとり自室にとじこもっていたという。その時彼女は明らかに夫の後を追って 自分も死のうとしていた。
 しかし、次の年のバイロイト音楽祭では、コジマは自ら練習に参加し、演奏や演技に注文をつけた。三年後の「トリスタンとイゾルデ」では意を決して自ら演 出をつけた。
 コジマは生まれ変わったのだ。これがバイロイト音楽祭の歴史の一歩なんだ。
井之上委員長が集計表を持って現れる頃には、実は僕の瞳はうるんでいた。誰にも気づかれなかっただろうけど。

 バイロイト祝祭劇場の天井裏にはずっと一匹のコウモリが住み着いていて、時々公演の最中に舞台から客席まで自由に飛び回るんだ。常連なら誰でも知ってい る。
そのコウモリの名前は、「コジマ」。

 小野リサのクリスマス・ソングを集めた新しいアルバムを楽しんで聴いている。
「Boas Festas2〜Feliz Natal〜」(TOCT-25497)
浜松バッハ研究会の萩野さんのぴちぴちとした若い奥さんに影響されて僕も小野リサを聴くようになった。冬に聴くボサノバも悪くないよ。

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