風邪の床の回想

「おやげねえのう・・・・。」と言いながら、祖母はよく、汗ばんだ僕の額と髪の毛の生え際を撫でたっけ。この「おやげない」という方言、今でも良く分からないが、可哀想とか哀れという意味で祖母は使っていたような気がする。
 小さい時から、風邪を引くとおふくろや祖母がとたんにやさしくなった。みかんの缶詰なんて普段食べられないものを口にすることが出来るし、おふくろは僕に添い寝してくれた。

 昨晩(日曜日の晩)、新国立劇場で「おさん」の練習が終わって帰途につき、家の近くのバス停に降り立った瞬間、猛烈な寒気が僕を襲った。もう立っているのがやっとで、バス停から家までが果てしなく遠く感じられた。他人が見たら、僕は奇妙なほど身をかがめながら内股で遅く歩いていたであろう。
 家に帰ってそのままベッドに潜り込んだ。パジャマに着替える余裕なんかない。とにかく全身に悪寒が襲っているのである。
 体温を測る。どんどん上がっていく。8度7分まで一気に上がった。
「困ったなあ。この調子じゃあ、明日は無理だな。」
 明日は朝からドイツ・レクィエムに関する『ぶらあぼ』の取材に、東響のマネージャー中塚さんと一緒に行くことになっている。ベッドの中から電話する。

 こうして今日は新国立劇場もお休みにして朝から一日ずっと寝ていた。熱はなかなか下がらない。そうこうしている間に、そういえば、子供の頃は風邪引くとみんながやさしくなったなあ、と思い出したのである。

 僕はおふくろが大好きだった。でもいたずらばっかりしていて、よく彼女を困らせた。
「かあちゃん、先生がすぐ学校に来いだって。」
ランドセルを放り出すと、僕はおふくろと一緒に学校に向かった。
「頭はいいんですけどねえ。なにせいたずらばっかりしていて・・・・。今日も授業中にふざけていたので、『顔を洗ってらっしゃい!』と教室から追い出すと、そのまま帰ってこないんです。心配になって行ってみると、トイレの裏で一人で 遊んでるじゃありませんか。もう困ってしまってねえ。」
「済みません・・・・。」
でも、おふくろは僕を強くは叱らなかった。
「ヒロは本当は良い子なんだよ。」
と言ってくれた。僕は申し訳ないなあ、と思いながらも、何故かいたずらをやめることが出来なかった。

 授業参観になると、先生が黒板に字を書くために後ろを向いた瞬間、僕はさっと立ち上がり、後方にいる親達に向かって「バアッ!」としてみる。みんなはクスクス笑う。異常を察知した先生が振り返る頃には、僕は知らん顔して自分の席に戻っている。そんなことが何度か続いた後、先生は僕を裏切って(違うだろう!)急に振り向いた。
「あっ!」
「三澤君!廊下に立ってなさい!」
そこで僕は前代未聞、授業参観日に立ち番をするはめになった。
 なんか、この間もこんな原稿書いていたなあ。あ、「マクベス」だ。三つ子の魂百までも。相変わらず同じ事をやっているんだなあ。

 ある時、風邪で学校を休んだ。2日間くらい家で寝ていたが、もう良くなって今日は学校に行こうとしたら、おふくろが、
「今日も学校を休みなさい。もう一度お医者さんに行くからね。」
と言う。
「ヤだ!もう友達に会いたくなったもん。学校に行くんだ。」
「駄目だよ!」
と言ったきり、おふくろは僕と目を合わせてくれない。
 彼女は僕を自転車の荷台に乗せ、小児科に向かった。
「もう大丈夫ですよ。治ってますよ。」
と言われて小児科を出ると、おふくろは僕を自転車に乗せたまま、家とは反対方向に向かう。なにか思い詰めたような表情をし、ずっと無言のまま。僕はだんだん不安になってきた。
「かあちゃん。僕悪い子だったよ。これからはかあちゃんの言うことちゃんと聞くからね。」
「そうじゃないんだよ。ヒロは良い子だよ。」
おふくろは初めて僕に向かって話しかけてくれた。

 烏川の土手。赤城山を遠くに眺めながら自転車を置いて、僕とおふくろは土手に腰を下ろす。
「ヒロ。おかあちゃん考えたんだけど・・・・。」
「・・・・。」
「家を出ようと思うんだ。どこかにアパートを借りてね。二人で暮らすんだよ。おかあちゃん一生懸命働いたらヒロを学校に出すことくらい出来るよ。ねえ、どう思う?」
「・・・・。」

 僕はおふくろが好きで好きでたまらなかったんだ。たまになにかの旅行でおふくろが一晩でも外泊するようなことがあると、晩になるとさみしくて泣いた。恥ずかしい話だが、僕は小学校の高学年になってもそうだった。
 だから、おふくろと二人で暮らすんだったらそれでもいいと思った。不思議とその瞬間には他の家族のことは思わなかった。逆に、これでおふくろの愛を独り占めできるとさえ思ったのだ。
「いいよ・・・・。かあちゃんと二人で暮らすんだね。」
でもその次の瞬間に僕は、いつも僕が学校から帰るとおふくろが家にいて、
「おかえり。」
と言ってくれる生活がなくなることに気がついた。きっと僕は自分で鍵を開け、おふくろの帰りを待ちわびる生活が始まるんだ。それに二人の姉には、これから二度と逢えなくなるんだろうか?
「いくちゃんやみっちゃんに逢えなくなるね。」
「・・・・・。」

 それからおふくろは、再び僕を自転車の荷台に乗せると、烏川を渡って玉村にある実家に連れて行った。母の実家は農家だった。納屋では養蚕を行っており、僕はひとりでおかいこを触ったりして遊んだ。母方の祖母はなんにも言わなかっ た。
 夜になって親父が来た。親父はおふくろを怒るのかと思って密かに恐れていたけど、何も言わなかった。
 すべてが何もなかったかのように進行し、そのままおふくろと僕は家に帰り、姉や祖父母が僕たちを迎えた。なんのとがめもなかった。むしろ腫れ物に触るように、その話題に触れるのを避けているようだった。
 でも僕は、ちょっと後悔していた。何故二人で住もうと言い切ることが出来なかったのか?あんなにおふくろのことが好きなのに、自分は卑怯な奴だ、と子供心に自分を責めた。

 熱にうなされるベッドの中で、僕の心は子供の頃に帰っていた。
「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。」(イザヤ書66−13)
 僕は愛されていたんだ。人生の最初から、自分のことをかけがえのない存在だと思ってくれる人達に囲まれて暮らしていたんだ。そう思うと胸が熱くなった。

 モソモソと僕の股ぐらで愛犬タンタンが動き出した。彼は、今日は僕を独り占めに出来ると思って、ずっとベッドの中で一緒に寝ている。でも、あまりに熱いので布団の外に出てきた。僕はタンタンの額を撫でながら、
「おやげねえのう・・・・。」
と言ってみた。言葉は分からなくても彼も自分が愛されているのは感じている。彼が上目遣いに僕の方を見ると、しばらく二人でじっと瞳を見つめ合った。

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