生ましめんかな

 3月6日に92歳で亡くなった栗原貞子さんの「生ましめんかな」という詩を読んで“いのち”についてずっと考えている。
 被爆した広島のビルの地下室。自分が瀕死の重傷者なのにもかかわらず、産気づいた若い女の出産を助け、自らはあかつきを待たずして死んでいったひとりの産婆の話に胸を打たれた。
 消えようとするいのち。生まれ出んとするいのち。こんな悲惨な状況からも、いのちは容赦なく始まろうとするのだ。
「生ましめんかな、生ましめんかな、己が命捨つるとも」
栗原さんの壮絶なるいのちの賛歌がここでは聞かれる。

いのちの尊さ
 でも、いのちって一体なんだろう。いのちってどうして尊いのだろう。これはシンプルであるが、人生における究極的な問いだ。
 今、日本人の多くの人は特別の宗教を持っていない。その中のかなりの割合の人は無神論者だと言ってしまってもいいかもしれない。それにしては日本社会は安全に動いているし、日本人は思いやりもあるし、生きていて居心地が悪くない世の中を形成しているのはむしろ驚きだ。

 しかし最近の日本では、何かある毎にこの「いのち」の問題を突きつけられる。そしてそこで議論が止まってしまい、先に行くことが出来ないでいる。
 学校内で殺人事件が起きたりする。すると待ちかまえていたかのように、いろんな評論家達がテレビに登場し、もっともらしい顔で学校教育の不毛を嘆いて見せたりする。
 でも僕は思う。現在公立の学校教育の場に宗教を持ち込むことはタブーになっている。それでいながら「いのちの尊さ」を教えろというのはそもそも無理な話ではないか、と。先生達は一体何の価値観に基づいて倫理教育や道徳教育をすればいいのか。
「どうして人を殺してはいけないか?」
とか、
「どうして人を傷つけてはいけないか?いじめてはいけないか?」
とか、教えるためには深い哲学的考察が必要だ。でも、そこまで突き詰めて考えている人は今の日本に一体何人いるか。いやいや、僕は誰かを責めているのではない。

僕に死ぬ権利を下さい
 先日、練習の合間にオペラシティーの本屋に立ち寄った。一冊の本が僕の目に止まった。「僕に死ぬ権利を下さい」(NHK出版)というタイトルを見てギョッとし、手に取る。
 著者のヴァンサン・アンベールはフランスのひとりの青年。でも今はもうこの世にはいない。彼は19歳の時に交通事故に遭い昏睡状態に陥るが、奇跡的に意識と聴覚を取り戻す。しかし医師からこれ以上回復の見込みがないことを知らされ、母親の手を借りて安楽死を決行したのである。
 闘病生活の間にヴァンサンは、体の中で唯一動かすことの出来る右手の親指を使って母親とコンタクトを取ることに成功した。母親がABCDとアルファベットを言うと、該当する文字の所で彼は親指を動かす。そうしてひとつひとつ文字を並べて単語を作り、文章を作っていく。
 まさに気が遠くなるような作業だが、このやり方を使って彼はシラク大統領に安楽死を認めてくれるように嘆願の手紙を書いたり、こうして一冊の本を著したりした。
 驚くべき事は、自分の全身の中で親指一本しか動かすことの出来ない、まさに「植物人間」の状態となっているヴァンサンが、このように我々健常者と全く同じ意識を持っていることが証明された事だ。

 かつて妻の父親は脳梗塞で倒れ、長い闘病生活の末旅立っていった。やはり義父も全身がほとんど麻痺していた。ある時お見舞いをした直後、僕は妻と、義父の意識がどこまであるのか話し合ったことがある。しかし、「健常者と同じかも知れない」などとはとても信じたくなかったので、「きっと意識もぼんやりしているに違いない。」ということにしておいた。
 もし義父にヴァンサンと同じように覚醒している意識があったとしたら、義父はなんと残酷な運命の中にいたのだろう。そう思うと可哀想で涙が出そうになる。
 何も出来ない。何も見えない。何も食べられない。どこにも行けない。暗黒の世界にただ閉じこめられた自分。絶え間なく押し寄せてくる苦痛。それでいて意識だけははっきりしているなんて、独房に閉じこめられるよりももっと辛いことではないか。

 キリスト者として許されないことだと分かっていながら、安楽死を息子に施して自殺幇助の罪に問われている母親に、僕はいいようのないシンパシーを持つ。
 全身が麻痺した自分の息子の動かない体の中には、しかし紛れもなく息子自身の魂が宿っている。会話をし、自分の欲求を表し、思考する息子の魂。しかしその魂は、ある時ひとつの結論を出した。それは・・・・「回復の見込みのない自分の命をもうこれで終わりにしたい。」
 息子の結論を聞いた母親の苦悩はいかばかりであったか。しかし彼女には分かっていた。自分の息子の人生に幕を引くことが出来るのは、自分以外にはあり得ないということを。そして決心した。どんなに後悔しようとも、自分はその役を引き受けようと。
 辛かったに違いない。彼女は一生自分の手で息子を殺めた過去を引きずっていく。でも僕は、それが母親というものなんだと思った。本当にどこまでもどこまでも自分の息子と共に生き、彼の苦悩を全身で受け止めた素晴らしい母親。ヴァンサンはそんな母親を持っただけでもこの世に生まれてきた甲斐があったと思う。

 しかしこう思ってはいけないのだ。僕は、個人的には宗教なしにいのちを語ることはあり得ないと思っている。いのちは与えられたものである。我々は皆、天の意志によって生かされている。皆、いのちについては自分の権利ではなく天の権利の元にある。だから他人のいのちを奪ってもいけないし、他人がそのいのちを持ってこの世で行おうとする様々な可能性やそのための権利を奪ってもいけない。母親は自分の子供を私物化してはいけない。勿論自分で自分のいのちを奪ってもいけない。

 そんなことは分かっている。しかし、そう考えてもう思考することをやめてしまおうとしたら、それは宗教の狡い使い方のような気がするんだ。

東京空襲
 3月10日は東京大空襲の日だった。60年前のその日一日で約10万人もの命が奪われたという。
 想像してもらいたい。もし現代において、米軍がたとえばバグダットで無差別絨毯爆撃を行い、一度に10万人もの命を奪うとしたらどうであろうかと・・・。あるいはバグダット上空から原爆を落とし、その下の街全てを廃墟にしてしまったらどうであろうかと・・・・。
 勿論現代では考えられないだろう。各都市には各国の報道陣がいて戦争が始まると爆撃を受ける都市の内側からも取材が続けられる。そして攻撃する側も、
「これはあくまで軍事施設や敵対する組織の拠点などに焦点を絞って攻撃することが目的であり、一般市民は傷つけないのだ。」
と繰り返し強調する。
 昔はそんな倫理観もなかったのだ。日本国内では一億玉砕と叫んでいたけれど、米国側だって、少なくとも東京、広島、長崎の一般市民は皆殺しになっても構わないと思っていたに違いない。でなかったらあんなことは決して出来なかったであろう。

 人が人のいのちを簡単に奪う。恐ろしいことだ。それがどんな正当な理由の元であろうとも、人類の歴史にとって汚点であり、人類のなした愚行であることには変わりはない。

それでも天は
 それでも天は、次々と新しいいのちをこの世に送り出す。過ちを犯しても犯しても、いのちは地に満ちている。我々が未だ消滅しないでいるということは、神様はまだ人類に対しなんらかの希望、期待を持っているというのだろうか?人が人を裏切り、憎しみ合い、争い合う愚行を繰り返すばかりの悲しい世界だというのに。

 しかし一方で、世界の片隅で人知れず愛する者達の魂を、天は見ているのだろうか?誰にも認められず、むしろ誤解され、見棄てられる沢山の無名の愛は、いつかどこかで誰かに抱き留められるのだろうか?
 全てのいのちは、最後には認められ、受け入れられ、愛され、癒されるのだろうか?僕のいのちも、これを読んでいるあなたのいのちも・・・・・。

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