ゼミナール終了。あとは・・・・。

 4回に渡ったドイツ・レクィエム・ゼミナールが終わった。大変だったけど楽しかった。レクチャーの準備をしながら僕自身沢山のことを学んだ。何よりも、ブラームスという作曲家と「ドイツ・レクィエム」という作品をこんなに身近に感じたことは、これまでにはなかった。このゼミナールがなかったならば、僕の「ドイツ・レクィエム」の演奏はかなり内容の薄っぺらいものになってしまったに違いない。

 考えてみれば不思議なことである。音符に直接向き合っているのだから、音楽家はいつだって誰よりも作曲家、作品に近いはずである。でも本当はそうとも言えない。「ドイツ・レクィエム」を“音符的に”振るだけだったらいつでも振れる。しかし演奏をするという行為は、そんな生やさしいものではない。演奏している当の本人が一番分かっていないということは、あってはならないことだけど、実は現場では結構あるんだ。
 問われているのは、月並みな言葉で言ってしまうと、「作品に対する共感」ということだ。「ナディーヌ」ではないけれど、作曲家がその作品を、かけがえのないものとして心を込めて書いたその気持ちに、どこまで肉薄できるか? また自分がどれだけその作品を深く読み、その中からどれだけ自分だけのかけがえのない表現を作り出せるか?そうした問いを自らに投げる時、僕は自分が演奏家であるという怖さに立ちすくむ思いがする。

 「作曲家の伝記や作品に関する書物を読んだって、上手に演奏しなければ無意味だよ。なんてったって演奏家は演奏によって評価されるんだからね。」
という意見があるのも分かる。学者がみんな良い演奏家とは限らないからね。
 以前、クリストファー・ホグウッドの元でアシスタントをした時、僕は彼に尋ねたことがある。
「音作りや解釈やテンポの設定まで、あなたの研究が反映されているのでしょうね?」
「んなわけねえだろ。」
「えっ?」
「音楽に実際に向かったら、研究なんて全て忘れるさ。あとは自分の感性に従ってやりたいようにやるのさ。」
「・・・・・・。」
「でもね、だからといって研究が必要ないってわけではない。少なくとも、本当はこんな事したらいけないんじゃないのかな、と後ろめたさを感じながら演奏したりせずに自由にふるまえる為には、理論の裏付けは不可欠だよ。でも演奏はいつだって自由さ。」
自由の獲得のために理論的な裏付けを求めるか、いいこと言うなと感心した。

徹底聴き比べ
 最後のゼミナールの準備は、正直言って大変だった。「徹底聴き比べ」なんて大風呂敷を広げてしまったからね。きちんといろんな演奏を聴いて、語りたい内容に添って分類し直し、部分を切り貼りして一時間半の講演用にまとめなければならない。しかも、ただ聴き比べしただけでは目的は達せられない。何のために聴き比べるのかというと、それで自分はどういう「ドイツ・レクィエム」を作りたいのか?という結論に導いていかなくてはならないのである。
 20種類以上のCDを毎日毎日一生懸命聴いた。実は、普段僕はいわゆるレコ勉(レコードを聴いて勉強すること)する方ではないのだ。スコアを勉強している時は、CDはほとんど聴かない。スコア・リーディングをしてピアノを弾きながら、どのテンポをとろうか、どのバランスでこの楽器とこの楽器とを響かせようか、などと熟考していくのである。 クラリネットとファゴットのパートをポロンポロンと弾きながら、「セカンドをちょっと出そうか?う〜ん・・・。」なんて感じで、他人が見たら何やっているか分からないだろうな。頭の中ではオケのサウンドがつながっているんだけど。
 そんな時CDを聴いて、もし自分の気に入らないテンポで出てきたら、通常は即やめてしまう。でも今回は止められなかったので辛かった。
 CDに出すような音楽家は、みんな自分の世界を持っているからね。中途半端に影響を受けるのも望ましくない。いろんな人の物真似をしているうちに、「で、あなたは?」と聞かれたら、「ええと、僕ってどうやるんだったっけ?」なんて状態になったらシャレになりませんからね。

指揮者とは我が儘なもの
 でも今回数限りなくCDを聴いて、ひとつ気がついたことがあった。それは、どのCDを聴いてもみんな自分としては違和感を覚えるポイントがある。心を真っ白にして、自分の意見を一度捨てて、それでもやっぱりもう少し速いテンポでやりたいなと思ったら、それが自分が心の中から望んでいるテンポなんだと気がついた。バランスも解釈も全部そう。こうした消去法もあるのだな。ただし、それは自分の音楽の方向性が自分の中ではっきり決まっている時にのみ有効。

 自分が最もしっくりいっていると感じるテンポが、合唱団員の気に入るテンポとは限らない。Aさんにとっては速すぎるかも知れないし、逆にBさんにとってみれば遅すぎるかも知れない。しかし僕はその両方に気を遣うわけにはいかない。むしろ僕が自分のテンポを貫かなければ、自分の統一の取れた表現は出来ない。そう考えてくると、万人が満足するような演奏なんてこの世には決してあり得ない。つまり指揮者が万人から手放しで賞賛されることも厳密な意味ではあり得ない。
 今回のレクチャーで、「速すぎるテンポ」、「遅すぎるテンポ」として皆さんの前に紹介したのは、あくまで僕自身の感覚から見ての話。「すぎる」とは言ったって、実際にそれを演奏している本人からしてみれば妥当なテンポのわけだし、現にそれが良かったからCDになっているんだものね。

 プロの音楽家に忠告。レコ勉はやっぱり邪道です。つたなくてもいいから自分のオリジナリティを追求するべきです。どっちみち批判を浴びるんだったら、「だってカラヤンはこうやっていたんだもの。」なんて言わずに、自分の内部でしっかりとそれを受け止めるべきだ。まあ、これは指揮者とかソリストの話だよ。合唱団員なんかは違うかも知れない。
 オーケストラの団員や合唱団員の身になってみれば、いつも自分とは違うテンポや解釈を指揮者から押しつけられているんだからね。可哀想だね。指揮者って我が儘だね。ごめんなさい。でも、指揮者が我が儘でないと、またこれが困るんだ。ブルックナーが指揮台に立った時みたいに、
「早く始めましょうよ。」
という楽員に対し、
「いえいえ、みなさんからお先にどうぞ。」
って言うんじゃ困るだろう。

 僕がガーディナー版やヘレヴェッヘ版がお薦めといったって、あまりその言葉を信じすぎないように。僕は悪いけど彼等のようにはやりません。ただ合唱のサウンド作りには参考になると思う。少なくとも、ウィーン国立歌劇場合唱団を参考にされるよりは、僕の作りたい音に近いということだ。本番終わって、
「嘘つき。ガーディナーやヘレヴェッヘと全然違うじゃないの。」
って怒ったりしないでね。言っておくけど、僕の「ドイツ・レクィエム」は誰のものとも違う。また違わないと意味がない。
「三澤の作った『ドイツ・レクィエム』はヘレヴェッヘのコピーでした。」
と言われたら、僕はどんな批判よりも悲しいものね。

MDR−プロジェクトの将来
 次の次の日曜日はもう本番です。それと共にこのMDR−プロジェクトの使命も終わる。しかしこのサイト、自分で言うのもなんだけれど、結構最近は人気がある。いろんな人から「見ているよ。」と声を掛けてもらえるようになった。もしこのサイトが終了になってしまったら、これまでの原稿も読めなくなってしまうので、昨晩ゼミナールの後の打ち上げでいろいろ相談した結果、これを何らかの形で存続させていこうという結論になった。 特に各賛助団体から言葉を頂戴した段階で、これは僕が行っている様々な団体をつなぐセンターの役割を今後果たし得るのではないかと思えてきたのである。それぞれの団体は皆専用のホームページを持っているが、それを統括し、それぞれの団体の情報交換の場となるようなネットワークの本拠地というわけである。
 僕もこの毎週の「今日この頃」がなくなったら淋しいからね。MDRとしては来週の更新はいつも通り行うが、再来週は日曜日が演奏会なので、月曜日を最後の更新日とし、お礼かたがた僕が最後の更新原稿を書くことにしました。う〜ん、もうそんな話をするほど近づいてきたんだね。うー、ドキドキしてきたよ。

エンジンふかし始めたぞう!
 東響コーラスは、これから容赦なくビシビシやるぞ。決して決して妥協だけはしない。何人生き残るかサバイバルゲームではないけれど、限界に挑戦します。僕も本気です。先週はアイドリングなんて言っていたけれど、もうエンジンふかし始めました。さあ、いくぞ!覚悟!

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