芸術、宗教、癒し、そして奇蹟は・・・・

芸術、宗教、癒し、そして奇蹟は・・・・
 芸術を一生懸命やればやるほど、芸術ってなんて贅沢なものなんだと思う。世界には数え切れないほどの飢えている人々や虐げられている人々、みじめな人々 が溢れているというのに、新国立劇場では今日も電気代を湯水のように使い、実際に住めない家や、何の実用的な用途のない家具や、街角では決して着ることの 出来ないオートクチュールの衣裳に囲まれて、練習や公演が行われている。
 聴衆は決して安くない入場料を払い、海外からわざわざ飛行機に乗ってやってくる出演者達は決して安くないギャラをもらう。こうしたことを巨大な無駄遣い と言ってしまっても、誰もそれを否定できない。

 僕は長い間悩んでいた。特にひとりのキリスト者として、どんなに芸術を極めたとしても、所詮贅沢な世界の中で泳いでいるだけではないかという無力感にさ いなまされていた。
 人々の心は満たすことは出来ても、飢えた者のお腹を満たすことは出来ないではないかと思うと、アルベルト・シュヴァイツァー博士のように、なにもかも投 げ出してアフリカにでも渡るより方法がないように感じられた。

 そんな時、僕はある聖書の箇所に出逢った。
さて、イエスがベタニアでらい病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
弟子達はこれを見て、憤慨して言った。
「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
イエスはこれを知って言われた。
「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
                    マタイによる福音書、第26章6〜13 
 不思議な聖句である。常に貧しい者の見方、虐げられた者の見方であるイエスが、貧しい人々を見棄てるようなことを言っている。イエスは明らかに、この女 の行為が貧しい人々に施す以上の行為であると言い切っているのだ。貧しい人々に施す以上に価値のあること。それは何か?僕はそこで、ハッと思ったのであ る。

 この自然界において、全ての生物は皆エゴイスティックである。我々は皮膚一枚を隔てて自己と外界を区別している。その中に他者が入り込んできたとき、肉 体がどのように反応するかを観察すれば一目瞭然である。白血球は、細菌など外界の異物からただちに身を守り、肉体は自らのアイデンティティーを死守する。 このように人間も動物的に見たときには徹頭徹尾エゴイスティックに作られている。それは本来罪でも悪でもないのである。
 しかし他の動物と違って、人間にはこの世的でないもうひとつの価値観がある。それがイエスの教える愛の価値観である。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
求める者には与えなさい。
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
                    マタイによる福音書第5章より 
 こうした価値観は、この世的な考えからは決して出てこない「損をする馬鹿馬鹿しい」価値観である。
 この世においては、ものには限りがある。ひとりが多く持っていれば、その分だけ他の者は少なく持つことになる。すなわち奪い合いの世界である。そこでは 皆常に喪失への恐怖を持っている。だから他人を警戒し、いがみあい憎しみ合う世界が展開するのだ。
 しかしキリストの説く天上的世界は愛に満たされた世界だ。愛は無尽蔵であり、汲めどもつきぬものなのである。むしろ与えれば与えるほど、無限にこんこん と湧き出でてくるものなのである。これを知っている人は、もはや地上的価値観に従って生きることをやめ、人に対し与えっきりの気持ちを持てるようになるの だ。

 イエスはこうした天上的世界の価値観を人々に教えに来たのである。勿論、弟子達が主張した貧しい人々に施すという考えは、元来はこうした「無限に与え る」価値観から来ている。しかし、イエスが言いたかったことは、そうした最中にも「この世的に」物事を見てしまうという人間の傾向をいましめているのであ る。
 香油を売って貧しい人々の為に施すという事は、一見正しいようであるが、本来的な世界を見つめることを怠った場合、こうした行為はただちに偽善へと走 る。
イエスはこうも言っている。
見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
                    マタイによる福音書、第6章より 
 人間とはどこまでいっても弱いものだ。良いことをしているのだからもうそれだけでいいだろうと思うが、そうはいかないのだ。良いことをしている人ほど気 をつけなければならないのは、評価され賞賛を浴びたい気持ちを律しなければならないことだ。イエスはみんなに分かるように父が報いてくれると言っているけ れど、本当は父の報いすらも期待しないほど無心にならなければいけないと思う。
 まずは本来的世界を見つめて与えっきりの心になることなしには、施しすらも安易にしてはならない。さもないと独善的になり、見返りを求めた押しつけがま しい行為となってしまうのである。

 芸術に話を戻すと、あらゆる芸術のインスピレーションは、その本来的な世界から与えられる。あらゆる芸術家は、その本来的世界を「知っている」。本来的 世界を全く知らない人は芸術家とは言えない。
 その人が既製の宗教の信仰を持っているか否かは関係ない。芸術家は皆、自分の創り出すものが自分の頭からひねり出したものなどではないことを知っている のだ。それがどこから来るのか知ろうとするものは宗教への扉を叩くだろう。しかしみんながそうではない。芸術家のインスピレーションは、時には教義にしば られた宗教よりもずっと「霊的」なのであるから、宗教は必ずしも必要とは言えない。ジョン・コルトレーンのように神を感じることは、芸術家だったらごく日 常的なことだと思う。
 その本来的世界においては、著作権もなにも存在しない。良い芸術はみんなのものであり、みんなで共有している。イマジネーションはこんこんと湧き出で る泉からいくらでも取ってくることが出来るし、それは本来誰のものでもないのである。そこで違いが出るとすれば、キャッチする方の受け取る能力と心の澄み 具合といったところか。
 
 芸術家に短命な人が多いことや、破滅的な人生を送る人が少なくないのも、本来的世界の輝きを知っているが故に、この世的なものに対する執着心が普通の人 に比べて薄いからとも言える。
 僕だって、もしモーツァルトのような音楽が頭に浮かんでしまったら、もうそれだけで人生どうでもよくなって発狂してしまうかも知れない。ナディーヌのピ エールとの出逢いの音楽が湧いてきただけだって、もう有頂天になってしまうくらいなんだから・・・。
 そんな時はこの僕だって、日常生活よりもずっと創作の世界の方にリアリティを持って生きている。そうした僕の宗教観も、普通のカトリック信者よりもきっ とずっと自由で開放的なような気がする。自分が死んだ時に還るべき世界は、あのインスピレーションが降りてくるその先にあるに違いないと確信しているくら いだから。

 芸術とは何か?芸術家とは何をする人なのか?芸術とは、この世と別に本来的な世界があり、我々が肉体的な存在であると同時に「霊的な」存在であることを 世に示すものであり、芸術家とはその預言者なのである。だから芸術は宗教と並んでこの世で最も価値があり、人生においてどんな代価を払ってでも第一に追い 求めるべきものなのである。この世的に見て無駄に見えるものほど、実は大きな価値があるのだ。
 すなわち芸術とは、イエスに捧げた高価な香油の入った石膏の壺なのである。

 ここまで分からなければ、新国立劇場に対して巨大な無駄遣いと言う意見には対抗できない。僕は、今は自分のやっている事に懐疑的ではなくなったけれど、 心ではいつも自分に問うている。
「自分は本当に貧しい人々、虐げられた人々を助けるのに匹敵する行為、あるいはそれ以上の行為を、芸術家として日々成しているだろうか?」

 癒しのレクィエムとうたい文句の今回の演奏会。癒しという言葉も、本当は軽々しく口にしてはいけない言葉だ。もしあえて口にするなら相当の覚悟がないと いけない。
 癒しは、弱いもの同士が傷を舐め合うような卑屈な弱々しいものになってはいけない。癒しには天上的世界からの強烈な光りが必要だ。その光りで全ての不安 や疑惑やトラウマを吹き飛ばすのだ。
 無心にならなければいけない。純粋な心を持たなければいけない。与えきりで何も見返りを必要としない広く豊かな精神の持ち主でいないといけない。

 さあ、あと一週間になってきた。僕は光りを自らのまわりに集めるために、精神的禊ぎの時期に入ります。これから本番まで心の針を静かに天上界に合わせます
5月1日、天上界から何者かが降ります。奇蹟は起きます!必ず起きます!
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