インヴェンションは楽しい

 8日にあるヤマハの講演会の準備に追われている。主にピアノ教師を対象にしたバッハのインヴェンションに関する講演である。「ピアノは楽しいけどインヴェンションだけはどうも苦手」という生徒が少なくない現実の中で需要があるらしく、予約がかなり入っているようだ。そうなるとこっちとしてもみんなに喜んでもらおうと思って資料を丁寧に作っている。
 講演は、前半がインヴェンションのアナリーゼ。後半は演奏論だ。こう言うと堅苦しいが、初めての人や、日頃楽譜に親しんでいない人にも楽しんでもらえるようにしている。

 inventionという言葉を研究社新英和大辞典でひくと、まず「発明、案出、創案、考案」と出ているが、後の方に「修辞学で言うところの主題の創造的選択」とある。さらに「弁論の構想、展開のための5段階からなる伝統的修辞論の第一部」と書いてある。
 バッハはこの曲集の序文の中でこう述べている。
  gute Inventiones nicht alleine zu bekommen, sondern auch selbige wohl durchzufuhren
良きInvention(着想〜楽想)を得るだけではなく、それをうまく展開させること
 バッハの音楽を理解する上で、彼が当時ドイツで学ばれていた古代ローマの哲学者キケロの修辞学の考え方を採用していたことは理解しておく必要がある。
 キケロは、その論文「デ・インヴェンツィオーネ」で、良き演説を成し遂げる為に必要なことは、“着想”(インヴェンツィオ)をうまく“配列”し、これに“様式”を与え、“記憶”して実際に“演説”するという五つの過程を上手に成し遂げることだと述べている。
 バッハがこうした考え方を採用していたとすれば、演説の原稿を本人が作るのが当然だったように、かつては演奏行為も作曲行為と切り離して考えられてはいなかったのである。
 だからインヴェンションは、バッハが、長男フリーデマンを初めとした自分の弟子達の練習曲として書いたと同時に、作曲の模範例としての意味も持っている。

 それにしてもインヴェンションは名曲である。特に2声インヴェンションは、このそれぞれがわずか2ページに収まってしまう長さの中で、なんと凝縮し充実した内容が語られているのだろう。それこそ主題という着想がいかに無駄なくしかも存分に展開するかという見本となっていて、研究すればするほど驚きが広がってくる。ある意味では、「マタイ受難曲」や「シャコンヌ」にも匹敵する最高傑作かも知れない。

 ところで僕の家には、グレン・グールド、アンドラーシュ・シフといったピアノ演奏とグスタフ・レオンハルトによるチェンバロ演奏によるCDがあったが、インターネットで検索してみたら、鈴木雅明氏のチェンバロによる演奏が評判良い。しかしタワーレコードには置いてなかったのであきらめていたのだが、金曜日の夜にどうしても欲しくなり、この「今日この頃」にも度々登場する、バッハ・コレギウム・ジャパンのメンバーでもある美人ソプラノ歌手Fにメールして「なんとかならないかな?」と聞いたら、即返事が返ってきた。
「コレギウムの事務所の人が、明日宅急便で送ってくれるそうなので、日曜日には着きます。」
だって。ヤッター!と喜んでいたら、土曜日になったらさらに、
「今日事務所の人がたまたま初台の方に出向いていくので、新国立劇場の楽屋口の受付に預けておきます。」
とメールが入った。な、なんて親切な!

「楽屋口のきれいなお姉さんに預けたと事務所の人が言っています。」
と後でまたFからメールが入った。僕は、
「僕が受け取った時は、警備員のおじさんでした(笑)。」
と返事を書いた。
というわけで、信じられないくらい親切な事務員のお陰で、土曜日の内にCDがゲット出来た。

 インヴェンションだけでなくバッハの大部分の作品はみんなそうであるが、テンポとか表情記号とかほとんど書かれていない。だから全て演奏者の趣味に任せられるのである。その為、これが同じ曲?と思うくらい様々な演奏が存在する。
 グレン・グールドのバッハは、僕は基本的には買っているんだが、インヴェンションの解釈ではちょっと疑問がある。2声インヴェンションと3声シンフォニアが交互に並べられており、大体2声の方は弾き飛ばすように速く、3声はロマンチックに遅い。お得意のノン・レガート奏法は小気味良いのだが、全体を聴いた感想は、
「インヴェンションをナメとんのか?」
という感じ。
 それに対してシフの演奏は、特にノン・レガート奏法というわけでもないのだが、音がきれいで、時に様式感にのっとり、時にロマンチック。なかなか気に入っている。
 チェンバロの演奏は、ピアノほど表情に自由がきかないので退屈になりやすい。レオンハルトなんか聴いていると、これが模範なのだろうけど、やっぱりチェンバロってつまんないなと思ってしまう。

 しかし鈴木雅明氏の演奏は違った。まず響きの良い神戸松蔭女子学院チャペルでの録音状態も良いのだが、何と言ってもチェンバロの音色が美しい。鈴木氏の所蔵するオランダの楽器だということだ。テンポの設定は、いろんな演奏の中で最もしっくりくるものだし、微妙なアゴーギクも自然で、かつ表情深い。
 特筆すべきは装飾音。インヴェンションにはいろんな装飾音のヴァージョンがある。しかしそれは、「これしか駄目」というものではなく、バッハが「たとえばこんな風に」とフリーデマンの楽譜に書き入れたりしたものが多く、これも基本的には奏者の即興性や趣味に委ねられるものなのである。
 有名な一番のインヴェンションのテーマも、「ドレミファレミド」の「ファレミド」のジグザグ進行が「ファミレミレド」の三連符に変えられたヴァージョンが存在する。鈴木氏の演奏では、こうしたヴァージョンを採用しながら、さらに自分の即興的な装飾音も加えたりしながら、一曲一曲を丁寧に作っている。
 きれいな音のチェンバロっていいね。僕は、いろんなインヴェンションの演奏の中でどれか一枚と聞かれたら、この鈴木氏の演奏を推薦する。次はシフだな。

 さて、講演の準備はまだまだ。やる方は身を削る思いで準備するんだよ。まあ、楽しいんだけどね。

ラテン語について
 今日「カトリック新聞」を読んでいたら、「ラテン語、風前のともしび」という記事が目に付いた。
  バチカン10月28日CNS
バチカンで十月に開かれたシノドス(世界代表司教会議)でも、ラテン語は衰えを隠せなかった。司教達は口ではシノドスの公式言語とされているラテン語に敬意を表したが、実際の意思疎通は現代語で行われていた。
(略)
シノドスの開会から閉会ミサまで、バチカンにおいてさえもラテン語の生存が危ういことが明白に示されていた。
(略)
シノドスを主催し、毎日のラテン語の祈りを主宰した教皇ベネディクト十六世は、今年四月、教皇就任に当たっての長文のメッセージを完璧なラテン語で発表し、人々を驚かせた。その場に居合わせた枢機卿達の多くは、後で本文の翻訳を読まなければならなかった。
 さすが新教皇!しかし全体としては駄目だコリャの感ありだね。かつては学生達はみんなラテン語に精通していて、学問的言語としてはもとより、学生達の冗談やヤバイ隠語までみんなラテン語で行われていたんだ。パリのカルチェ・ラタンだって直訳すると「ラテン語界隈」という意味で、ソルボンヌ大学を中心としたラテン語の飛び交う学生街という意味なんだから。
 すでにラテン語はイタリア語、フランス語、スペイン語などに吸収されてしまって、死語となって久しいので、「風前のともしび」と言われたって誰も困らないわけだけど、バチカンでラテン語が標準語でなくなると、それに変わるのはイタリア語になってしまうんだろうな。
 元来イスラエルで生まれたキリスト教が、ローマ帝国のお陰で世界に広まったのは事実だけれど、だからといってイタリア優位に物事が運ぶのには納得がいかない。
 先日の新教皇選挙の時だって、イタリア出身以外の教皇は珍しいなんて話が出た。イタリアはキリスト教発祥の地でもなんでもないのに、この上言語的にイタリア優勢になるのは困りますよ。だからラテン語にはまだまだ頑張ってもらいたい。

 ややこしいのは、20世紀初頭にピオ十世が決めた「典礼のラテン語発音」がかなりイタリア語寄りだということだ。それ故、ミサ曲などのラテン語の発音はすべてこの「カトリック・ラテン」の読み方になってしまっているという事実だ。ここでもバチカンのイタリア寄りがかいま見えて僕は個人的には面白くない。
 一方、ドイツなんかでは、未だにギムナジウムなんかではドイツ式、すなわち「ジャーマン・ラテン」で教えているというし、大学に行ってラテン語の古典文学を学ぶ人は、こんどは学問的な「古典ラテン」の発音で学ぶと言う。バチカンが権威の杖を振りかざしても、各国の対応もこんな程度なのかも知れない。だから、もしかしたら「カトリック・ラテン」を最も忠実に守っているのは、中途半端なアカデミズムの日本かも知れないなあ。
 古典ラテンでは、Cは常にkと発音されていた。二重母音もきちんと読まれていたので、Caesarはカエサルと読まれていた。それが「カトリック・ラテン」で読むとチェーザルだよ。まあ、英語はもっとひどくてシーザーだけどね。本人病院の待合室で「チェーザルさーん、どうぞ。」と呼ばれたって気がつかないぞ!
 我が国だって、マグナ・カルタはマーニャ・カルタとは読まないだろう。学問の世界では依然「古典ラテン」が強いのだ。

 「カルミナ・ブラーナ」の歌詞で使われているラテン語を「カトリック・ラテン」で発音させる指導者がいるが、これははっきり言って間違っています。みなさんの側にそうした指導者がいたらすぐに訂正させてください。
 その根拠として、まずこの歌詞は、ミサでも典礼文でもなんでもない隠語を含む俗語なので、「カトリック典礼文」という権威から全くはずれたところにあるという点に留意して欲しい。
 次に、中世のミュンヘン郊外の修道院では、当然のごとく当時のドイツ式で発音されていて、これを作曲したカール・オルフもドイツ人であるという事実に注目。加えて中世当時の方言っぽいドイツ語と混じり合って歌われていることから、響きの統一性を図るためにも、この作品は「ジャーマン・ラテン」で歌われなければならないのである。
 なんでも「カトリック・ラテン」で歌っておけば間違いなし、と思って安心していてはいけません。「カトリック・ラテン」は「カトリック」の世界でしか通用しないのです。だから「プロテスタント」のバッハの作品は、ミサ曲であっても「ジャーマン・ラテン」でやるべきです。
 モーツァルトは微妙だね。本当は「ジャーマン・ラテン」の上に作曲されていたので、geをゲじゃなくてジェとか発音してしまうと、厳密に言うとモーツァルトの世界から離れてしまうんじゃないかと、僕は個人的には思っている。
 これは人から聞いた話なので、確信はないけど、バチカンでも、モーツァルトの作品の上演にあたっては、「ジャーマン・ラテン」を容認しているという。

 新国立劇場の「カルミナ・ブラーナ」は、初日を見た人達の口コミやリピーターが殺到して、当日券が驚くほど良く売れている。今日はいよいよ千秋楽。それでは、これから行ってきまーす!

追伸
いよいよ、今週、待ちに待ったドイツ・レクィエムCDが発売されます。嬉しいな。皆さん!予約はお早めに!!

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