心の標準搭載ソフト

 全く嘆かわしい!自分が同じ日本人であることがこれほど情けなく思われたこともない。長らく尾を曳いている耐震設計偽装問題や、みずほ証券の顛末などを見るにつけ、日本人はここまで浅ましくなってしまったかと残念でならない。また巷ではいろいろ変な事件も起きている。

 社会全体が病んでいると思う。でも、もしかしたら、みんなは「病んでいる」とも思っていないのではないかとも思う。何故なら、「病んでいると思う」ということは、「病んでいない健康な状態」を知っているという前提の元に成り立つからだ。

 反論を覚悟の上であえて言うと、人間の精神にとって「健康な状態」というのは、心の中に宗教を持っている状態だと思う。しかし誤解しないで欲しいのだが、僕の言う宗教とは、キリスト教でもなければ他の既成宗教のことでもない。
 人間は本来、どこの既成宗教に頼らなくとも、ウインドウズがインターネット・エクスプローラーやアウトルック・エクスプレスを標準搭載しているように、心の中に標準搭載している宗教を持っている。それを人は通常「良心」と呼ぶ。時には「おてんとうさま」だったり、「ご先祖様」だったりもする。とにかく人間は本来宗教を内に持っているのである。これが僕の持論だ。

 「わたしは無神論でして。」と言う人は少なくはない。でも顔を見るとどう見ても無神論者のようには見えない。だって本当の無神論者とか唯物論者というのは恐ろしいんだ。
 唯物論者によれば、人間は物質的な存在であり、精神も大脳皮質の働きで自我を認識しているに過ぎないから、死ねば自我は消滅する。肉体は焼けばただの灰になり、その人の人生はなかったも同然だ。だから無心論者が死者を弔うというのは論理的に矛盾している。もはや魂も何も存在していないのだから。
 無神論者にとっては善も悪もない。この世は全て偶然の産物であり、我々もたまたまある一時期だけ宇宙に存在しているに過ぎない故に、存在の模範もなければあるべき姿などという目標もない。どんな生き方だから正しく、どんな生き方だから間違っているということもない。極端な話、お金を盗んでも人を殺してもバレなければいい。どうせ消滅する命ならば、生きている間になるべく面白おかしく生きるべきである。でも何かあって楽しく生きれなかった人には、もう何の救いもないのである。これが本当の無神論。

 しかし無神論者と言っても、ここまで徹底して思っている人は多くはない。大抵の人達は、既成の宗教団体に属していないという意味で無神論という言葉を使っているように僕には思われる。そういう人達は、本当は標準搭載の宗教を持っていながら、そのソフトを開いたことがないか、開いても使い方が分からないだけだ。

 新しい住宅に床の間や神棚がなくなってから日本はおかしくなったと言う人がいる。極端な説だが、ある意味では正しいのかも知れない。昔の人は仏壇に手を合わせてご先祖様を拝み、神棚の前でパンパンと手を打ち鳴らして家内安全、商売繁盛を祈った。また、「情けは人のためならず」とか「人を呪わば穴二つ」「因果応報」などの格言を引用しながら、年寄りは若者達を導きいさめてきた。こうしたことを通して、日本人は標準搭載宗教というソフトの使い方を教えていたのである。標準搭載のものだから、当然高級なものではない。つまりベーシック・バージョンである。
 仏教は本来様々な教えを持つ第一級の宗教であるが、一般家庭では先祖崇拝だけが残ったし、神道は穢れと禊ぎが極限まで追求された宗教だが、お賽銭と引き替えに個人個人が虫の良いお願いをする機関と化している。
 しかしベーシック・バージョンなのだからそれでもいいのだ。それが「人知を超えた存在を意識する」きっかけとなればいいのである。

 そこに、もっと素晴らしいソフトが入り込んできた。それは、科学の名を語った唯物論だったり、経済原理だったり、キリスト教のような高級宗教だったりした。それらのソフトは、悪意があるとは限らないのだが、しばしば元からあった標準搭載ソフトをアンインストールすることを強いた。こうして日本人は外来ソフトをインストールして、その素晴らしさに目を奪われたあまり、標準搭載ソフトをアンインストールし、しだいに日本人らしさを失ってきた。

 一度アンインストールされてしまうと、それまでもやもやしていたこだわりのようなものがなくなって、すっかり心が軽くなる。
 たとえば西洋の経済原理の真っ直中に飛び込んでみると、物品を市場から買い占めてしまって値段をつり上げて儲ける「先物取引」など、「これって卑劣ではないの?」と思う。でも別に法を犯しているわけではないと言われれば、「そうか、こういうことやってもいいのか。」と思い、今度は、頑張って誰よりも素晴らしくやってのける。会社からもよくやったと評価される。普通だったらここで「何か違うな。」と思う。でもアンインストールした人は思わない。
 人のプライバシーを盗み撮りし、週刊誌にあばく。そのことによって相手の人が離婚すればしたで、また面白がって騒ぎ立てる。こういう生き方って価値ある素晴らしい生き方なんだろうか?でも、それによって本が売れれば誰も文句を言わない。全て経済原理が最優先し、今日もマスコミは人の心を踏みにじる。
 一株何万円というリストの中に突然六十一万株一円という数字がある。普通の人は即座におかしいと思う。ははあ、間違ったんだなと思う。この時点でさわらないでおこうと思うものだ。しかしこの瞬間に飛びついて、一瞬の内に莫大なお金を儲けた人がいる。その利益がみずほ証券の損失の上に成り立っていることは百も承知だ。そこに良心の呵責を感じない人は、経済原理というソフトをインストールした時に標準搭載ソフトをアンインストールしたんだろうな。
 耐震設計偽装問題が発展し、証人喚問などが行われている。みんなそれぞれの立場で自分を弁護している。誰が誰に脅されたとか、法を犯してまでやるなんて思っても見なかったとか、白々しい答弁が続いていた。でも誰も安全性のことを考えてなかったということだけは明白になった。みんな「良心」の影も形もなかった。彼等は本当の無神論者と言えるのかも知れない。

 国立市では今年一月のどんど焼きが中止になった。行政の元で宗教行事をやることにクレームがついたからだという。国立市は文化人の集まる街で有名だ。でもこれは大変な過ちなのだ。人々が素朴に標準搭載ソフトを使う権利を侵しているのだ。利口な人達が集まるところほど、こうした決断を下すものである。
 今回のこの件については知らないが、こうした宗教行事にクレームをつけるのがよくキリスト教団体だったりするから困る。キリスト教は、その排他性の故に他宗教から迫害を受けた一方で、他宗教を迫害もした歴史を持つ。素朴な宗教を素朴に信ずる自由を奪う権利は、キリスト教といえどもないというのが僕の意見だ。

 アメリカなどで臓器移植はキリスト教の教義の元に推進されてきた。キリスト教ではこう教えられている。人間は霊と肉体とで成り立っている。パウロによると、肉体は罪に属し、霊は神に属す。人間は死ねば霊が肉体から離れ神の元に行くので、肉体は単なる物質なのである。
 このパウロの教義は優れた教義であるが、微妙に唯物論に近い。特に脳死の生体臓器摘出の論理と共に語られるとき、自分の近親者がまだ息がある内にどんどん臓器を取り出される事に対する感情的というか本能的な抵抗感は、整然とした理論にあっけなく負ける。
 つまり気をつけないと、キリスト教の教義は唯物論に利用される。標準搭載ソフトをアンインストールしたキリスト教者は恐い。十字軍にも行けば、魔女狩りも異端者への火刑も、南米の侵略も、何の罪の仮借なしに行うのである。

 世の中のあちらこちらからいろんな価値観が入り込んでくるのはいい。選択肢も広がってきて、我々はより自由になっているように見える。でも本当にそうだろうか?
 我々は標準搭載ソフトを抹消されて、あいまいに残しておいてもらいたいところや、そっとしておいてもらいたいところに経済原理や数々の理論で踏み込まれたりして、なんだかとっても住みづらくなってはいないだろうか?
我々はもっとシンプルに生きられないのだろうか?

 たとえば、誰も咎めなくても、法に触れなくても、人間にはやってはいけないことというものがあるのではないか。また我々の人生には、やはり正しい生き方とか、よりよい選択とかがあるのではないだろうか?
 あるいは、誰にも知られなくても施す親切や、なんの儲けにならなくても、あるいは損をしてでも人に尽くす行為というものも世の中にはあるのではないか。そしてこれらのことを受け止めてくれるのは、やはり人知を超えた大きな存在なのではないだろうか。それをある者は神と呼び、あるものは仏と呼んだのではないか。

 そして、それらの大いなる存在は、我々の心の中の標準搭載ソフトともつながっているのではないか。もし、どんなに素晴らしい宗教や価値観が世に存在しても、標準搭載ソフトの観点から変だなと思うことがあったなら、それはやはり違うのではないか。もし、人々がそんなシンプルな価値観を持っていたなら、あのオーム真理教の地下鉄サリン事件のようなものも起きなかったのではないか。
 シンプルで美しい生き方をするためには、どこかの宗教団体の扉を叩く必要はないと思う。自分の内面を静かに見つめ、その声に耳を傾けるだけで良いのである。

 みなさんも自分の心の中に眠っている標準搭載ソフトをそっと開いてみてください。間違ってアンインストールしてしまった人は、インターネットにつなげばすぐに無償でダウンロード出来るんだよ。だってそのソフトは元々太陽の光や水や空気と同じように、無償で万人に与えられているものなのだから。
そのソフトの本当の名は、またまた月並みだけど、「愛」。

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