僕の年末年始

1)大晦日

紅白歌合戦

 大晦日には何故か紅白歌合戦を見る。というか、群馬宅で過ごすため、子供の頃から親父が見ている紅白歌合戦を何気なく一緒に見ているだけだ。しかし4時間以上もの番組を集中して見ているわけではない。途中で別の部屋に行って、N響の第九を見たり、お風呂に入ったり、パソコンを開けたり、まあ、考えられる限りのダラケた見方をしている。それでも幾人か印象に残る歌手はいた。

>演歌は日本の心
 まず演歌系の歌手は皆一様に歌がうまい。特に和服を着て歌う女性演歌歌手達にはなんともいえない色気があって、歌っているときの顔が美しい!
 潤んだ瞳でビブラートをきかせて語られるとググッとくるな。こういう歌には熱燗の日本酒と炙った一夜干しのイカが似合う。う〜ん、演歌はやはり日本の心だなあと今更ながら思ったよ。

名曲
 曲がいいなと思うのは、夏川りみの歌った「涙そうそう」。この曲はケア・タウン小平でも演奏されて居住者達の涙を誘った曲だが、こんな曲は作れそうでなかなか作れるものではない。いつ聴いても心にジーンと迫ってくるものがある。名曲だね。
 それと「亜麻色の髪の乙女」。倉木麻衣の歌は別に感心しないのだが、この曲と「思い出の渚」はグループサウンズ時代の傑作だね。あ、あとタイガースの歌った「落ち葉の物語」と「廃墟の鳩」と、ええと、ええと、結構良い曲あったね。おじさんはなつかしいや。

平原綾香と中島美嘉
 平原綾香は僕の好きな歌手だが、生演奏で聞くとアラも含めていろいろよく分かる。恐らくとても小さい声でささやくように歌っているのだろう。息の流れが極端に少ないので、落ち着いた環境でないと音程も悪くなってしまう。でも彼女の息混じりの歌はいいなあ。と言っても意外とセクシーではないんだよね。サラリという感じ。不思議だな。
 同じように息をセーブして歌ってながら、心にググッと来るのは中島美嘉の歌だ。ヘッド・ヴォイスは高音で不安定になりながらも、感情が入って丁寧に歌っているためあまり気にならない。でも、この人どうして歌う時こんな前かがみな姿勢をするのだろう。お腹でも痛いのかなと心配になるよ。

アジアは一つ
 感動したのは松任谷由実のSmile Again。愛知万博の歌として作られたこの曲を、彼女は次の万博の開催地である上海からライブで歌ったのだが、彼女の他に韓国、中国の歌手達と鼓弓奏者がいて、かわるがわる歌っていたのがとてもインターナショナルな感じで印象的だった。これからはアジアの連帯感が必要なのだと強く思った。
 松任谷由実の声は相変わらず平べったい変な声で、歌い方も好きではないのだが、あそこまで通すと、これもひとつのスタイルとして定着するのだろうな。

Def Tech
 また、Def Tech のラップ、My Wayは、言葉に独特のリズム感があって面白かった。選ばれた言葉達は意外とまともで、しかも何かメッセージ性さえ感じさせた。
ミュージカル「ナディーヌ」の中でも「ドクター・タンタンのラップ」を作った僕は、実はラップの隠れたファン。「おにころ」に次ぐ第二作目のミュージカル「愛はてしなく」でも変拍子のラップを作曲している。
 ラップとは、言葉と音楽との関わり合いのひとつの形。でもね、いい関わり合いをしている曲は多くはない。この曲はその中でも秀逸。

メッセージ性と芸術性
 メッセージ性と言えば、歌合戦の合間に吉永小百合によって原爆詩が朗読された。その中にはかつて「今日この頃」でも僕が紹介した「生ましめんかな」も入っていた。しかし、その後のさだまさしが歌った「広島の空」は、メッセージ性の方が芸術性よりも勝っていて、演奏自体が面白くなかった。なにか広島の題材で作りさえすればいいという安易さが前面に出てしまったように僕には感じられた。
 対抗した紅組の森山良子が歌った「さとうきび畑」も反戦歌だが、こちらの方が抽象的になっている分、逆に普遍性を持っており、人の心を打つ。この辺にメッセージ性と芸術性との相克の難しさがあり、いろいろ考えさせられる。
 たとえばね、皆さんの友達が恋愛をして「僕の彼女は素晴らしい!」と訴えたとしても、皆さんは「ふうん、よかったね。」と思うだけだろ。そこには芸術的あるいは客観的な説得力はないんだ。それが説得力を持つためには、一度抽象化する必要がある。「僕の彼女」から「いわゆる彼女というもの」に抽象化することによって、第三者もその恋愛感情を共有出来るようになる。つまり自分の恋愛に置き換えて考えられるんだ。この辺が芸術の秘密だな。
 それと、寄り道ついでに言うと、広島の原爆で何万人の人が死んだということは、芸術の世界では関係ないんだ。それよりも、自分の大切な“たったひとり”を失った悲しみを表現する方がリアリティを持つ。自分にとってかけがえのない人というのは何万人ではなく、たったひとりなのだから。
「広島の空」の詩にも、さだまさしの歌にも、そうした切実さが欠けていた。題材が共感を呼びやすいものだけに、あるいはさだまさしが上手な歌手だけに、残念!僕は、感動に対してどん欲だから、とことん感動したいんだ。

停滞気味のサウンド
 Jポップスのサウンドは、ここのところ全く進歩発展は見られない。それどころか、パーカッションのリズムのみが前面に出ていて、ハーモニーも弱く、なによりバスの支配力が極端に弱いのが気になって仕方がない。そのパーカッションも以前より色がなく、サウンドに生彩がない。
 僕的に言ったら、サウンドとして成り立っていない、いわゆる「しろうと」の音にしか聞こえないんだが、この意見を聞いて古いと思う人がいたら、誰か僕を説得してください。なにかこの音の中に僕の見えていない新しさがありますか?
 ちなみに次女の杏奈は、昨年11月にオレンジ・レンジの演奏会から帰って来てから、僕に、
「あのね、ミキサーが悪かったのかも知れないけれど、音響が良くなかった。バランスが悪かった。」
と言っていたから、若い人の耳が僕の世代の耳と決定的に違うというわけではあるまい。僕のひとりよがりの感覚から断言すると、この和製ポップスのサウンドには未来を切り開く力はない。

N響第九
 紅白歌合戦の合間に浮気(?)して見たN響第九は、今年は国立音楽大学声楽科合唱に代わって二期会合唱団だった。実はあの中の三分の一くらいは新国立劇場合唱団のメンバー。第九の練習のために何日か新国立劇場の合唱音楽練習のスケジュールを動かしてあげたのだ。
 熟年のお兄さんお姉さん達の合唱は、国立音大には悪いが、さすが学生とはひと味もふた味も違う。そりゃそうだ。同じだったら悲しい。ドイツ語の発音も表現も大御所田中信昭氏の薫陶のお陰で、ビシッと決まっていた。

 しかし、肝心のアシュケナージの作り出す音楽には、正直言って共感するところが少なかった。なんとなく落ち着きがなく、勢いだけで音楽を持って行こうとして、説得力に欠けていたなあ。棒のテクニックもなあ・・・・指揮者として見ると・・・ん・・・まあ、ピアニストだから・・・・う〜ん・・・・これ以上はムニャムニャ・・・・・。

 バスのレイフェルクスは、新国立劇場の「アンドレア・シェニエ」のジェラールで大成功した歌手だが、声がやっぱり悪役っぽいなあ。そばで聞くとでかい声だが、でかいだけでは人の心は打たないな。人類皆兄弟と歌い上げる感じではないのが残念。
 今年は、多忙のため東響コーラスの第九の合唱指揮を断ったので、第九は全く関わっていなかったから新鮮だった。でもどうして12月に第九?


2)ロード・オブ・ウォー
 12月29日は休日だったので、映画を見に行った。おなじみの立川シネマ・シティ。昨年トム・ハンクスの「ターミナル」を見たところだ。しかし、今日見たものは、「ターミナル」でスピルバーグ監督の下、制作総指揮を務めたアンドリュー・ニコルが制作、監督、脚本を手がけた映画でありながら、全く毛色が違う。
 それは「ロード・オブ・ウォー」という映画だった。副題は「史上最高の武器商人と呼ばれた男」という。

 考えてみると、僕は戦争映画、あるいは戦争に関係する映画を随分見ている。きっと、戦争という極限状態の中で、人は何を思い何を感じるのだろうかという事を少しでも体験したい気持ちが強いのだと思う。
 しかし、この映画を見た後の気持ちは複雑だった。この主人公、ニコラス・ケイジが扮するユーリー・オルロフは、最も戦争の近くにいるが、戦争の当事者ではない。彼は武器商人である。
 この映画では、5人の実在の武器商人をモデルにして、ミックスしたキャラクターをユーリー・オルロフに結集させたといわれる。だから、この映画の中で起こることは全て、実際に起こったこと、あるいはいつでも起こりうることなのだ。

「私は殺し屋ではない。人を撃ったこともない。戦争で稼いではいるが、人が死なずに済めばと願っている。」
しかし一方で、突然戦争終結の連絡が入り、自分の売ろうとしていた武器がキャンセルになると、
「チェッ、真面目に戦争しろよな。」
と吐き捨てるように言ったりもする。

ニコラス・ケイジの名演技
 そんな闇の商人であるが、ニコラス・ケイジの名演技のお陰で、信じられないけれど、観衆はかなりユーリー・オルロフに好感を覚えていくのである。ユーリーは、あこがれの女性エヴァのために、財産を投げ打って、自分が国際輸送会社のオーナーであると見せかけ、エヴァをゲットする。そして結婚し、子供をもうける。
 まるで宝石商か何かのように淡々とビジネスに明け暮れ、同時にプライベートな生活も大切にしていくユーリーは、ある時、愛する息子がオモチャのピストルを持っているのを発見すると、そっと取り上げ、ゴミ箱に捨てる。彼は、売れない絵を描く妻を助けようと、匿名の絵画収集家を装い、彼女の絵を買い上げる。 また、自分の秘密の隠れ屋に入る鍵の暗証番号を、息子の誕生日に定める。

 観衆は、しだいに錯覚し、ユーリーに共感すら覚えていくのであるが、やはり彼は死の商人であり、世界の歴史の裏側にうごめくアウトローである。
 ソヴィエト連邦が崩壊し、冷戦が終わると、人々はこれで世界平和に一歩近づいたと信じた。しかし、その陰で恐ろしいことが起きていた。ロシア国内に眠っていた大量の武器は、不必要になるやいなや武器商人達によりタダ同然の値段で引き取られ、あるいは盗まれて、世界中の武器を必要とする国や組織に売られたのである。そのために、武器商人達は莫大な利益をあげたといわれる。これでは世界が平和になるわけがないのだ。

 ユーリーは弟を伴って大きなビジネスに出る。向かうところはアフリカだ。しかし、この武器が売られると、対立する部族が大虐殺されるという運命を知ると、悪人になり切れない弟は、武器を積んだトラックを爆破させ、護衛兵に射殺される。弟は自分の中の良心の声に抵抗出来なかったのだ。
 彼の最期は痛ましいが、観衆は不思議と一種の安堵感を覚える。それもきっと僕たちの良心の声なのだろう。

最大の武器商人とは?
 やがてユーリーは、武器密輸の罪ではなく、空港でのほんのささいな事で逮捕される。しかし彼は、ただちに釈放される。何故か?彼は自分をつけねらい、追いかけて遂に逮捕に漕ぎ着けて勝利に酔っているインター・ポール刑事のバレンタイン(イーサン・ホーク)に向かって平然と言う。
「私を逮捕したとしても、私は必ず釈放される。何故なら、私を釈放するその人は、私を必要としているからだ。その人の名は合衆国大統領。彼は世界で最大の武器商人だ。」

 武器の輸出は国家間で行われるが、相手によっては公に売買できない国や機関がある。そんな時、国家元首は自らの手を汚さずに知らんふりをしながら、プライベートの武器商人に任せるのだ。時には、自ら戦争をしかける相手国にすら武器を売る。まさに正義も何もあったものではないのである。

 こうした世界の裏側をユーリーと共に体験していくと、まさに暗澹たる思いにとらわれる。これでは世界平和なんて実現するわけはない。“平和を望んでいない人”あるいは“平和になっては困る人”が世界には多すぎるのだ。

 「ロード・オブ・ウォー」にハッピー・エンドを期待してはいけない。武器商人が、自分の生き方に疑問を持ち、天からの啓示を受け、正しい生き方に目覚めていくなんてなればいいんだろうが、世の中そんなに甘くはないし、世界を見渡してもまだまだ紛争の種はつきる様子は見えない。ユーリーは、相変わらず武器を売っていくし、戦争はこの世からなくならない。それが現実だ。

 そんなわけで、この映画に教訓的な色彩はまるでない。何を感じるかは、この映画を見た人それぞれに託される。この映画はそういう意味では一見ニヒルである。でも僕は、その向こうにメチャメチャ作り手の熱い想いを感じる。

障害にもめげず
 というよりも、僕が何よりも偉大だなあと思うのは、こうした映画が“合衆国内”で作れたことである。この映画の脚本は、イラク戦争の始まる一週間前に提出された。みんなが開戦に浮かれている真っ最中である。
 一方、この映画が本当に描こうとしているのは、世界に君臨する真の闇の武器商人、すなわち超大国合衆国の姿。闇世界の武器供給には合衆国が国家ぐるみで関わっているという事実がある。国が介入してこないわけがない。
 勿論介入と言っても、現代では制作者がただちに逮捕されるわけではない。民主主義の国アメリカだからね。もっと卑劣で確実な手段があるのだ。それは・・・・経済封鎖である。ここでも、現代のバール信仰、すなわち拝金主義が顔を出す。現代では、経済は暴力なのだ。
 まずハリウッドで作ることは不可能であった。当然と言えば当然だ。資金はとどこおり、計画は挫折するかに見えた。
 しかし、映画の趣旨に賛同し、資金を提供してくれる人達が合衆国以外の各国から現れ、さらに「華氏911」を配給したカナダのライオンズ・ゲートが配給に名乗りを上げたことで、この映画は一気に実現化に成功したのである。凄いと思わないかい?良心と勇気の勝利だ!

 日本ではこんな時、誰もが及び腰になり、誰もが自らを守り、誰もが、確実に儲かるもの以外には手を出さない。御上にはさからわないのだ。すなわち、こうした問題作はあったとしても闇に葬られ、決して陽の目を見ることはないのである。
 そこが、欧米と違うなあ。欧米は、ワルの規模もハンパじゃないけれど、良心や信念を持つ人達が戦う姿をしばしば目にする。民主主義の中には、反対意見を言う自由があるが、彼等はその権利を極限まで行使する。まさにその点こそが、日本という国が民主主義においても、未だ成熟していない証なのである。

 「ロード・オブ・ウォー」は、決してお正月にふさわしい作品ではないが、現代という時代を読み解くには不可欠な映画のように思える。それにしても、僕たちの知らないところで、世界はとんでもない方向に向かっているような気がするなあ。人類に果たして未来はあるのか?


3)お正月番組

細木数子
 お正月には普段見られないような番組を見る。面白かった番組はふたつあった。まず、タイトルは忘れたけれど、細木数子の番組。この人の言うことには説得力がある。「今年の○○をズバリ予言する!」なんていうのは僕にとってはどっちでもいいことだけど、たとえば、
「このままの生き方を日本人がし続けていくならば、20年後には日本という国家は崩壊して、日本人は皆間違いなく難民になります。」
なんていうのは良かったなあ。
 現代の日本人は、みんな目先のことだけにとらわれていて、自己中心的で発想が短絡的。いろんな事件が起きていて、僕も丁度極度の危機感を持っていたところだっただけに、
「よくぞ言ってくれました。」
と、拍手喝采を送りたくなりました。

ジョー・ブラックによろしく
 次に印象的だったのは、3日の午後に放映された映画、「ジョー・ブラックによろしく」。
これは、「シティ・オブ・エンジェル」を観て衝撃を受けた僕が、またまた同じようなストーリー設定に、二番煎じだと分かりながらも劇場で泣いた作品。1998年12月に封切り。
 「シティ・オブ・エンジェル」では、人間になりたかった天使の話だったけれど、ここでは人間世界を探訪したかった死に神の話。
 おなじみブラピことブラッド・ピット主演映画だが、ここでのブラピは、異なった二人の登場人物のキャラクターを見事に描き分けていて、彼が単なる人気男優だけでない確かな実力を発揮している。まあ、ストーリー設定には無理がないわけではない。交通事故に遭った青年の肉体を借りて死に神が人間界にやってくるが、その肉体、骨折とかしてないの?また、最後にその青年は再び元の肉体に戻るんだけれど、あれ?死んだんじゃないの?・・・・とか、いろいろ考えるとつじつまが合わないけれど、ま、その辺は大目に見て、物語を楽しみましょう。
 相手役のクレア・フォラーニは、キュートでセクシーでなんともいえない魅力を持った女優だ。特に瞳を切なく見つめ合うラブシーンがいいのだが、二人が裸になって抱き合っている時に、僕のお袋が乱入してきたり、お客に来ている姪が来たりで落ち着いて見れやしない。 おまけに話がクライマックスにさしかかって来た頃、庭で猫を発見したタンタンが暴れ出した。吠えて走りまくって近所迷惑なので妻が騒いでいる。
「ちょっとこっちに来て、タンタン捕まえてよ。」
でもね、僕は二人の別れが近づいているのでウルウルしていた時なのだ。猫に狂ったタンタンなんてどーでもいいんだよう!

 そして最後のクライマックス。こらえていた涙がまさに溢れ出ようとする一瞬、あたりが突然真っ暗になった。
「な、な、なんだ、なんだ?何が起こったんだ!」
どうやら家のブレーカーが落ちたらしい。居間では親父達が電気炬燵にあたりながら別の番組を観ているし、僕はこっちで居間とは別の炬燵とテレビをつけている。そこに炊飯器をつけたから容量オーバー。ゲッ!いいとこなのによ。終わっちまうでねえのー!
 僕は走っていって速攻でブレーカーを上げた。しかし、再びテレビがついた時は、「ジョー・ブラックによろしく」は終わってCMに入ってしまっていた。 チャン・チャン!

 やっぱり、映画は映画館で観なければ駄目だね。立川シネマ・シティは音響も良いからねえ。音がぐるぐる回るけど、タンタンは庭でぐるぐる回ったりしないし、電話も鳴らなければブレーカーも落ちません。うわーん!ラスト・シーン見たかったよう。

 でも、この映画は良い作品なので、興味のある人はDVDを借りてきて観てね。かけがえのない出会いとか、生きる意味とか、人生について深く考えさせられます。
 面白いのは、数年前に観た映画なのに、すでに見方が全然違うんだ。特に父親が娘を想う気持ちには物凄く共感する。
「稲妻に打たれたような恋をしなさい。」
と父親が娘に言うんだ。情熱なくして何の人生ぞ!ってね。
 またラストシーンでは、
「何があっても動揺するんじゃない。パパは大丈夫だから。」
と言い残して、父親は死に神に身を委ね、自らの人生に幕を引く。
 アンソニー・ホプキンスの渋い演技はいいねえ。一見クールな態度の中に、溢れるような娘への愛情を隠し持っていて、ありきたりのわざとらしい愛情表現なんかよりも何倍も胸を打つ。

ということで、あっけなく正月は終わり、再び何気なく仕事が始まっております。みなさん、今年もよろしく!
合い言葉は、「高く高く飛翔し、深く深く探求し、真実に生きる」だよ。

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