ホリエモンのこと

 ライブドアのホリエモンこと堀江貴文氏が逮捕された。警視庁特捜部による強制捜査が行われた頃から、僕はいろんな人にどう思うか聞かれる。実は、僕を支配する感情としては残念という気持ちが一番強い。ホリエモンは、その態度やものの言い方で目上の人達から大分嫌われていたらしいけれど、僕は若者が生意気なことに関してはかなり寛容だ。若者は生意気なくらいでないといけない。僕も相当生意気だったから。

 それよりも、周りの人達の反応には正直言ってがっかりした。民主党をはじめとする野党は、ここぞとばかりに小泉政権を批判する。こんな犯罪者を応援していたのか、という論調である。またライブドアという会社がマネーゲームに走ったバブルのような会社だと言うが、そんなことは当たり前すぎて今更言うべきことでもないだろう。

 大体日本はお上は絶対だと思い過ぎる。お上のご用になったというだけで、もう自分達とは世界の違う重罪人のように扱うが、僕にはどう見てもホリエモンがそんなに大悪党のようには思えない。少なくとも強盗殺人を行ったり、小学生を殺めたような犯人とは同一には語れないだろう。

 大体ホリエモンは罪のない純粋無垢な人達からお金をだまし取ったというわけではない。株に群がる人達を多少欺いたのかも知れないが、そのことで大損した人は誰もいないのだ。むしろ彼のついた嘘は、「夢」という言葉に置き換えてもいいような嘘だ。言い方を変えると、欲にくらんだ人達に「夢」を与え、それが「希望」となって株価を上げ、利益を生み出したのだ。そんな利益はバブルに決まっているさ。でも、そもそも株式ってそんなものではないのかね。
 会社の社員が一生懸命ものを作って売って、少しずつだが確実に利益を作っている。でも、それを外側から眺めて、お金だけ出して、雰囲気だけで会社の価値を査定して一喜一憂している人達は、地道に働いている社員から見ると何なんだ。
 しかしだよ、そういう事をこの資本主義社会は認めているんだろう。それをマネーゲームと言って否定したら、生き馬の目を抜くと言われる証券取引の世界自体がまるで悪の世界のようではないか。どっちみち僕の生き方には全く関係ない世界なので、こうして客観的に言っているのだが・・・・。

 その株主達がみなそろって大損して、夢も希望も潰したのは、むしろホリエモンが逮捕された後だ、というより逮捕された故にだ。だから損得だけでものを言えば、むしろ社会を大混乱させ、多数の者達に多大なる損害を与えた張本人は他ならぬ警視庁そのものだ。警視庁を逮捕せよ!
 まあ、これは少し言い過ぎかも知れないが、僕が言いたいことは、逮捕されたことでもってホリエモンという人格に対する評価を変えるべきではないということだ。

 僕は別にホリエモンのファンでもなんでもないよ。ホリエモンにも若気の至りはある。どこから見てもそうじゃないか。「お金で買えないものはない。」と言い切ったり、年寄り的に言うところの礼儀をわきまえずに行動していたのは、ちょっと賢くなればすぐなおることだ。三木谷さんを見なさい。大分印象は違うけれど、やってることは大差ない。年寄りも単純だからね。
「なかなか謙虚で好青年だ。」
なんてコロッと騙されてしまうんだ。
 
 まあ、それだけでもない。ある意味では年寄りは真実を知っているんだ。お金では買えないものが沢山あるんだとか、人はひとりだけでは生きられないとか・・・・。
 そして長い間生きてきた中で掴んだ真実は、愚かな若者の一時の言葉くらいで揺るぐものではないのだ。僕が残念なのは、ホリエモンが自分が言ったりやったりしてきたことを、他人から逆にされたりしていく過程で、彼がひとつひとつ賢くなっていくのを端から見ることが出来なくなったことだ。

 彼は一瞬のうちに社長の座を失い、「改革者」から「犯罪者」になってしまった。そうなると世間は残酷だよな。金の切れ目が縁の切れ目っていう感じで、みんな蜘蛛の子を散らすようにホリエモンから離れていってしまった。利潤を追求する株式会社の社長だから当たり前といえば当たり前だけど、そういう意味ではオウム真理教の麻原彰晃の方がずっと幸せだな。精神的な結びつきが信者との間にあったもの。

 ホリエモンは今本当に孤独だろうな・・・・。結局、彼の周りにいる人達が誰も彼を愛してなかったということだ。愛のない人生とは寂しい。彼にとっては、今こそ「お金で買えないもの」に気づくチャンスなのではないか。まだ若いからね。何度でもやり直せるよ。

僕の33歳
 テレビの画面に堀江貴文(33)と出ていたので、ああ33歳なんだと思った。そういえば僕は33歳の頃ってどうだったのだろう。静かに記憶を辿り寄せて僕は自分の過去を振り返ってみた。

 33歳は僕にとって最悪の年だった。僕は33歳の誕生日、すなわち3月3日に、それまで「三沢」と書いていた名前を戸籍上の名前「三澤」に変えた。これでいいことがあるかなと期待していたら、身の回りに起こってくる事が全て裏目に出て、なにも努力が実ることのなかった一年だった。

 僕は当時、日本オラトリオ連盟の指揮者をしていた。この団体は、指揮者濱田徳昭氏が率いていたが、濱田氏が病気で急逝して、一時は団の存続の危機に陥った。しかしいろいろ協議を重ねた結果、新しい指揮者を迎えて再出発しようと決定し、僕の元に話が来たのである。バッハの音楽に昔から傾倒していた僕にとっては、勿論願ってもない話だった。僕は即座にOKし、千駄木の濱田邸の地下にある練習場に通う日々が始まった。

 しかし、ことはそう簡単ではなかった。今だからもう時効なので白状しよう。オラトリオ連盟の練習に通う日々は辛かった。団員達の心の中では、現役のまま急逝した濱田氏はまるで神様のように偶像化されていた。若い僕の入り込む隙もなかったのである。
 僕があるテンポでやろうとすると、
「濱田先生はそうはやりませんでした。」
と言われ、レガートで演奏しようとすると、
「そこはスタッカートで演奏してました。」
と言われた。
 濱田さんは大変厳しい方で、団員達と距離を置き、よく怒ったというが、僕はそういうのは嫌いなので、なるべく団員達と親しく接しようとすると、
「そんなに団員と馴れ馴れしくしてもらっては困ります。指揮者はもっと威厳を保ってください。」
と言われた。

 僕は現在でも自分がカリスマのように持ち上げられるのが大嫌いで、なるべく等身大でみんなと接しようとする。この歳になると、それはそれでひとつのスタイルになり、外観も白髪交じりになってくれば、軽んじて見る人も少ない。けれども当時の団員達から見たら、きっと軽くて頼りなく見えたのであろう。
 結局僕は、1988年すなわち33歳の11月、東京カテドラルでのモーツァルト・レクィエムを最後にこの団体をクビになった。

 しかし運命とは不思議なものだ。話は不思議な展開をしていく。僕は、日本オラトリオ連盟のもうひとつの要の団体である北九州聖楽研究会にも通っていたのだが、この団体が、どうしても僕に一度「マタイ受難曲」を指揮してもらわないうちは止めさせることは出来ない。と言ってくれたのだ。
 一方、日本オラトリオ連盟が僕を追い出しにかかったのを聞いた若者達が約二十名くらいごそっと僕と一緒に連盟をやめた。みんなは集まって新しい合唱団を僕と作ろうと相談した。そうして出来たのが東京バロック・スコーリアである。そして1989年11月に北九州まで「マタイ受難曲」を歌いに行くと共に、自分たちでも独自で「マタイ受難曲」演奏会を開くべく活動を始めたのである。

 北九州聖楽研究会の演奏会では、イエスに多田羅迪夫氏、エヴァンゲリストには、なんとエルンスト・ヘフリガー氏を呼ぶことになった。ヘフリガー氏とは東京で合わせをした。レコードでしか聴いたことのない本物のエヴァンゲリストが目の前にいた。しかし僕は臆することなく自分の受難に対する考えを述べ、個々の場面の歌い方を指摘した、最初は面倒くさがっていたヘフリガー氏も、しだいに僕の解釈に興味を示してくれ、最後にはかなり意気投合した。

 その北九州聖楽研究会「マタイ受難曲」演奏会のメンバーに混じって、わざわざ浜松から偵察がてら歌いに来ていた人がいた。それが他ならぬ浜松バッハ研究会の河野周平氏である。河野氏は、演奏会が終わった打ち上げの席で僕に、
「浜松に指導に来ていただけないでしょうか?」
と聞いてきた。まさに「捨てる神あれば拾う神あり」である。
 そうして僕は浜松に通うようになったが、その浜松の練習に今度は名古屋から偵察に来ていた人がいた。名古屋バッハ・アンサンブル・コールの高原慎一氏である。
 このようにして僕のバッハ演奏の本当の歴史は始まった・・・・。

 そんなわけで33歳の僕は失敗の日々だった。それでも元来のオプティミストだから「ま、いっか。」と思って明るく生きていたけどね。
 1988年には、もうひとつ国際的なミュージカルのプロジェクトに関わっており、今でも僕は間違ったことはしていなかったと信じているが、練習のやり方に口出しし過ぎて制作者に疎まれてクビになった。また東京バロック・スコーリアは、合唱団の雰囲気が自分のめざしているものと離れていくのに耐え兼ね、短期間で解散してしまった。

 しかし、こうした失敗のただ中に、後から考えると次の時代の軌跡を築く基礎が隠れていたことが分かる。僕は、失敗を通して自分がなにをやりたいのか、どういうことを大切にしたいのか、探っていったのである。

 今でも僕は、ミュージカルを作り、同時にバッハを演奏するという変わった活動をしている。普通は鈴木雅明氏がミュージカルを踊りながら指揮するなんて考えられないだろうし、宮本亜門がバッハを演奏するというのも考えられないだろう。片方やる人はもう片方はやらないんだよ。でも僕はやる。二つの世界は、一般的にはとても離れているように見えながら、僕の中では何の違和感もなくつながっているんだ。
 そして・・・、ここが大事なところなんだけど、僕の年齢とキャリアが、そうした特殊性を周りの人達に認知してもらうことを容易にしているのだ。
 若い内は自分の中にエネルギーがあるから、何でも自分一人で出来ると思いがちであるが、周囲の理解というのは、思いの外影響力が大きいのだよ。

 33歳は、世代的に見ると二十代のペーペーの時期から、社会の中核に入ってくる時期にさしかかっており、周りから見てやや扱いづらい年齢である。尊敬する存在としてはまだ早く、軽く扱うには歳を取りすぎている。人生の中で最も大変な時期なのかも知れない。でも現在の僕は、あの頃の失敗がむしろ有り難い。
  人よ、33歳になったら、失敗を恐れず、
その中から次のステップへのヒントを掴むべし!
ホリエモンもね。ガンバってね。このままつぶれてしまわないように。「お金で買えないもの」、それは愛だよ。
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