くさや、くさっ!

 木曜日には、あるプロジェクトの編曲が仕上がった。1,2月は新国立劇場の公演の準備だけでも忙しいのに、平行してずっと編曲していたものだから、体が慢性疲労の状態に陥ってしまっていた。先週の風邪も過労が原因だったのは分かっているんだ。

 風邪が直ってからも、しばらくはお酒を飲まない日々が続いた。僕にしては珍しい事である。あえて禁酒という感じでもないのだけれど、飲んでしまうと仕事が終わって帰ってきた後、夜中にかけて編曲する気力が失せてしまうからだ。

 これまで、三つの大きなミュージカルを作曲していた時もいつもそうだったけど、仕上がりそうになってくると、頭の中は昼も夜もそのことで一杯になる。まるで臨月を迎えた妊婦の心境だ。あまりにしんどいのでやめたくなるが、後戻りは出来ないし、とにかく出るものを出してしまわないことには、どうにも落ち着かないのである。普通の人が言うような「自由時間」というものは、この時期一瞬たりとも存在しない。
 こんな時は、本当は一週間くらい山にこもってそのことだけに集中してやればすぐ仕上がるんだけどな。編曲と言っても、限りなく作曲に近い今回のプロジェクトのようなものでは、30分時間があるからといって30分の仕事が出来るというものではない。大抵、最初の時間はノー・アイデアで、「う〜ん・・・」と気持ちを集中していると、ふとアイデアが湧き上がってくるものだ。あるいは「誘い水」をあげるように、つまらないと思えるものでも取りかかっていると、もっと良いアイデアが近づいてきて、もっと取りかかっていると、いよいよ本命がやってくるのだ。

 僕の場合、よく素晴らしいアイデアは明け方やってくる。半分夢の中からだ。そのアイデアを絞り出しているのは自分であって自分でない。
 ここで引き合いに出すことさえおこがましいが、かのワーグナーは「トリスタンとイゾルデ」を作曲している時に、自分の作品が自分の想像をはるかに超えて素晴らしいものになっていくのに驚き、思わず、
「リヒャルト、お前は悪魔の申し子だ!」
と叫んだという。
 こうしたことはクリエイティブなことをやっている人だったら分かってもらえると思うが、アイデアとは「自分のもの」ではないのだ。だから時には、自分が肉体的に忙しいかどうかなんていうのはお構いなしに、アイデアの方から押しかけてくる。そうなると悲惨だ。
「待ってくれ〜!これから仕事に行かなくちゃならないんだよう。」
こんな時は仕事をしていても、
「早く家に帰ってあれを書き留めておかなければ。」
と気が気でない。
 そんな訳で、中断中断で時間ばかりがいたずらにかかってしまった。

 しかしとうとう完成した!その晩、僕は久し振りにお酒を解禁した。遅くまで営業している府中の京王ストアで、何種類ものビールと共に、瓶詰めの「くさや」を見つけたので試しに買ってみた。

 くさやといえば、昔、神津島に仕事で行った帰りにお土産で買ってきたことがあった。真空パックのとそうでないのがあったのでお店の人に、
「どっちがいいですか?」
と聞いたら、
「そりゃ、真空パックなんかじゃない方がおいしいに決まってるでしょう。」
と冷たく言われた。
 この人、自分で真空パックも売ってるくせに、真空パックを憎んでるね。全く商売ヘタだね。でも、それだけ生の味にこだわっている職人なんだ。ヘタに調子良い人より信用できるな。
 という感じで、真空パックでないものを買ってきたのだが、これが道中臭って臭ってとても困った。
 大型汽船で竹芝桟橋に着いてから、中央線に乗り換えたとき網棚に置いたのだが、あまりに臭いので、みんなが網棚をチラチラ見る。
 僕はずっとくさやを網棚に置きっぱなしにしながら、それとは無関係という顔をして、時々他の乗客と同じように網棚の方を向いて顔をしかめたりしていた。しかし国立がだんだん近づいてくる。
「ど、どうしよう。今まで知らんふりしていたけれど、これを取って降りなければならない。その時、ああ、お前が犯人だったんだなあ、と分かってしまうなあ。嫌だなあ・・・・。」
 結局、国立駅を降りる寸前に網棚のくさやを素早く取り、誰も見ないようにしながら一心不乱に走って降りた。
「ヤッター!」
と喜んだのもつかの間。家に帰るやいなや今度は妻が騒ぎ出した。
「うわ!何、この臭い!あなた臭いわよ。」
「あの・・・、くさやを買ってきたんだ。」
まだ小学生だった娘達が面白がって騒いでいた。
「うっ、くさ!」
「だからくさやって言うんだよ。」
「へええ!」

 あの時の思い出が蘇ってきた。
「う、何よ!臭ーい!」
今回も妻は騒ぎ出した。面白がってくれる娘達もいないので、戦いは一対一だ。僕は、
「今日は作品完成の記念すべき日で自分を誉めてあげるんだから、ちょっと我慢してよ。」
と強引にストーブの上に網を置き、その上にくさやを置いた。
「うぐぐぐぐ〜!」
妻は声にならない声を出している。網の上で炙っていると、肥だめのような臭いが家中に漂い始めた。
「ねえ、これってはっきし言って近所迷惑じゃない?」
「そんな、家の外まで届くわけないじゃない。」
でも、そういう僕でもこの強烈な臭いには当惑してしまった。もしかしたら本当に国立中の住民から苦情が殺到するかも知れない。
「なんでこんな臭いものを食べるのよ?」
「じ、自分でも食べられるかどうか自信がない!」

 しかし、目をつむって一度食べてみたら、これが・・・・うまいんだ。なんだろうな。アミノ酸の味なんだろうか?新島の丸五商店というところが出しているアジのくさやは、普通の干物にはない、えもいわれぬデリケートで複雑な味。久し振りのビールの味と相まって、僕はたまらなく幸福な気持ちになった。
 僕の他に喜んでくれたのはタンタンだった。人間には近所迷惑かと思うような臭いでも、動物には親近感があるみたい。切れ端をそっとあげると、よほどおいしいと見えてペロッとたいらげた。ということは、僕も動物的ということか?

 妻は我慢の限界を超えてしまった。
「お願いだから、あたしのいるところでは食べないで!」
あらら、女主人様に嫌われてしまったね、新島のアジ君。

 一方、作品は出来上がったとは言っても、譜面作成ソフトのFinaleで急いで作った楽譜には、まだいろいろ不完全なところがあって、金曜日の晩も僕は遅くまで見直しをしていた。
 真夜中になって疲れ果ててふとあたりを見ると、妻はもう寝てしまっている。
「しめしめ。またくさやを肴にお酒を飲もう。」
 僕は階下に降りていき、久し振りに残っていたウィスキーを取り出した。普段あまりウィスキーは飲まないのだが、時々無性に飲んでみたくなることがある。大体は真夜中で、ジャズを聴きながら黄昏れたい時だ。
 ジョン・コルトレーンを聴きながら、ウィスキー・グラスを傾けると、氷がカランと音を立てた。酒にだけでなく、僕はすっかり自分に酔っている。真夜中に聴くコルトレーンは胸に染み入る。こんな時はやっぱりどうしてもマイルスかコルトレーンだね。マイルスが彼を呼んだように、僕もトレーンと呼ばせてもらうよ。で、ストーブの網の上には、再びくさや。うしししし。

 突然、タンタンが大声でなき始めた。この臭いに我慢が出来なくなったらしい。早くくれと言っている。
「し、し、コラ!黙れ!ママが起きてまうでねえか!」
仕方がないから一切れあげた。しかし彼はそれを一瞬でたいらげ、またもや催促する。
「ワン!ワン!」
「しっ、しっ黙れったら!」
しかしタンタンはなき止まない。
「もっともっとワンワン!」
こうなったらもうコルトレーンのバラードどころじゃない。

 とうとう眠っていた妻が目を覚ましてしまった。階段を降りてくる。足音が怒っている。
「なによ、タンタンもCDもうるさいわね。こんな夜中に近所迷惑よ。うわっ!またくさや!お願いだからもういい加減にして!」
で、またくさやが食べづらくなってしまった。くさやを炙ってもタンタンを刺激しない方法ってないかなあ。くさやとコルトレーンとウィスキーの三点セットを真夜中に静かに味わうのは見果てぬ夢なのかな?

 

「愛怨」千秋楽
 音楽ってはかないな。作曲家の三木稔さんがこの作品を作るのに一体どれほどの労力が必要だったか。それなのに公演の三日間はあっと言う間に過ぎ、今日はもう千秋楽。
 階下の稽古場では「運命の力」の立ち稽古が先週中頃から始まっている。合唱団は明日の月曜日一日休むだけで、あさってから「運命の力」の立ち稽古に突入する。そうやって「愛怨」も他の作品と同じようにしだいに忘れ去られていってしまうのだろうか?
 というより、このように去るものを惜しむ気持ちになるのも久し振りだな。それだけこの作品に思い入れがあったってことだな。

 ご高齢のところ病をおして、作品が完成しないのではないかという不安と戦いながら、何年もかけてどうして作曲家はこんな大作をわざわざ作るのだろうと、僕は作品に感動しながらも、驚きを通り越してあきれ果てていた。
 それに、どんなに素晴らしい作品だって、絵画や彫刻と違って、音が消えれば跡形もなく消えてしまう。そして時と共に人々の記憶から薄れていってしまう。音源や映像は残っても生の臨場感には遠く及ばない。音楽作品というのは、本当に諸行無常の代名詞のようだ。それでも作曲家は作品を作るのだ。空中に絵を描くように。あるいは、波が来ればさらわれてしまうことが分かっている砂浜に砂で城郭を築くように・・・・。

 でもね、それだからこそ音楽は強いとも言える。消えていってしまうものだからこそ、音楽は聴く者の魂に強烈な印象を刻印する。舞台上の動きを伴う劇場作品の場合はなおさらだ。
 演奏会用の作品で人を泣かせるのは容易ではないが、劇場作品では「泣ける」作品に出遭うことは希ではない。その時、人々に与えるカタルシスの強さは、とうてい他の芸術には追従出来ないものがある。

 愛怨の練習中、阿倍仲麻呂に扮する田中誠君が歌う「あまのはら、ふりさけ見れば」の望郷の歌にうるうるして涙目になっていたのをうっかり三木さんに見られてしまった。三木さんは僕の方に寄ってきて、
「この場面、よく仕上がってきましたね。」
とおっしゃるので、
「いやあ、結構ジーンときますね。」
と言った。
 こんなところを見られてしまってとても恥ずかしかったが、そんな風に作品に共感していた僕を見て、三木さんは特別喜んで下さったようだった。三木さんは、いろいろ作品成立の苦労話や裏話をしてくれた。台本の瀬戸内寂聴さんはもとより、三木さんもかなり奈良時代あるいは唐の時代の資料を調べまくったそうだ。それを作品の随所に織り込んで、ファンタジーも混ぜながら作品が出来てきたということだ。これだけ努力すれば、どう作ったって悪い作品に仕上がるわけはないよね。

 この作品をもって「日本史オペラ8連作」完成か。よくまあ作ったね。本当に頭が下がります。

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