ヴェルディ三昧

 今週木曜日の16日、京都で開かれる京都ヴェルディ協会主催の講演会の準備を始めている。テーマはヴェルディの「オテロ」。折しも新国立劇場では「運命の力」が佳境に入っている。だから毎日ヴェルディ漬け。ヴェルディ三昧。

 

「運命の力」とヴェルディ・アイテム
 ワーグナーの影響を受け始めた「ドン・カルロ」から後をヴェルディの後期と位置づけるならば、「運命の力」は彼の中期の最後を飾る傑作だ。ここではまだ番号付きオペラとしての形がきれいに整っていて、アリアや二重唱の後には拍手を要求する間が与えられている。
 「運命の力」は、全てのヴェルディのオペラの中でも、最もヴェルディ・アイテム満載の作品だ。たとえば、運命、復讐、決闘、賭博、占い、教会と修道士、戦争と兵士などなど。こうしたマッチョな世界がヴェルディは大好きなんだ。

人種差別とマイノリティ
 主人公ドン・アルヴァーロはインカ帝国の血を引いている。これが人種差別を生み、悲劇に向かう運命が回り始める。その「運命の力」から25年も経ってから作られた「オテロ」においても、ヴェルディは主人公のオテロがムーア人である点にシンパシーを持つ。
 考えてみるとヴェルディの主人公はみな社会的に見るとマイノリティであり、マイノリティ故にますます悲劇を自らの身に呼び込んでゆく者ばかりだ。リゴレットしかり、椿姫しかり、また「イル・トロヴァトーレ」のマンリーコとその母しかり。
 また主役ではないが、ヴェルディは怪しい女好きだ。「イル・トロヴァトーレ」のジプシー女アズチェーナ、「仮面舞踏会」の占い師ウルリカ、そして「運命の力」の戦争好きな占いジプシーのプレツィオシルラ。これらの人物は、ヴェルディのオペラ以外にはあり得ないキャラだ。
 彼女達は、主人公達と違ってマイノリティであることが悲劇を呼ぶどころか、悲劇なんてなんのその、自分のマイノリティぶりをむしろ楽しんでいるようにすら見える。って、ゆーか、はっきり言って変!

 「運命の力」第二幕で居酒屋の人達が騒いでいるところに、いきなし現れて、
「戦争万歳!」
とプレツィオシルラが叫ぶと、僕はいつも笑ってしまう。
「この女、何者?」
さらに有名なラタ・プランでは、アカペラ・コーラスを先導して第三幕の最後を盛り上げるが、別に戦争しているわけでもないのに、
「なにしてんの?」

 

格好良くない悲劇「オテロ」
 一方、ヴェルディが73歳の時に完成させたシェークスピアの悲劇を元にした「オテロ」は、ワーグナーの影響を受けて番号を取り払った後期の最高傑作だ。「運命の力」のような立派な序曲もなく、いきなりドラマの中に聴衆を引きずり込む。冒頭の嵐の場面の描写は圧巻だ。

 シェークスピアの悲劇というのは、「マクベス」でもそうだけど、およそ格好良くない悲劇だ。ささいなことをきっかけとして「壊れていく英雄」を表している。最初はほんの出来心。針の穴ほどの亀裂がだんだん広がっていって、しまいには取り返しのつかない結末に発展していく。
 「マクベス」では名誉欲が、そして「オテロ」では嫉妬が英雄を滅ぼすのである。その「オテロ」の悲劇の出発点に、彼が元来北アフリカの回教徒ムーア人だというマイノリティがあるのだが、その点に人々はあまり注意を払わない。
 オテロはヴェネツィア共和国の指揮官として活躍し、すでに回教徒からキリスト教に改宗している。そして折しも回教徒のトルコ軍との戦いに勝利を収め、自らの口から、
「よろこべ、高慢な回教徒は海に沈んだ。」
と叫んでいる。つまり分かり易く言えば、日系人がアメリカに住んでいてアメリカ人司令官として活躍し、旧日本軍と戦うようなものだと思えばいい。
 しかしイアーゴを初めとして、彼を取り巻く人達は、彼がどんなに素晴らしい働きをしようと、彼のことを、
「あのムーア人が。」
と言うのを止めない。

 オペラでは割愛されているが、シェークスピアの原作の第一幕では、イアーゴがオテロの恋人デズデーモナの父親であるブラバンショーに向かって、
「どうやらあなたはお嬢様の上にアフリカ産のバーバリ馬がおっかぶさってくれるのを待っておいでらしい。」
などという下品な言葉を浴びせて、父親の怒りを煽っている。
 このように、オテロはどこまでいっても異邦人なのである。それが身分不相応な純粋培養の生娘デズデーモナを得てしまった。勿論オテロはそれだけの活躍をこれまでにもしてきたし、デズデーモナに対し、引け目を感じるなんのいわれもないのであるが、異邦人として扱われ続けたオテロにコンプレックスがなかったはずはない。オテロの嫉妬は、そうした彼の心の狭間にスルリと入り込んだのである。

イアーゴ像をめぐって
 言葉数の極端に多いシェークスピアは、その言葉を駆使して、オテロの嫉妬がしだいに広がってデズデーモナの殺人に至るまでの心理過程を見事に描いたわけであるが、オペラではそこまで精緻に描けない。そこでヴェルディは、イアーゴの悪に焦点を当て、イアーゴの悪人性を強調することでオテロの破滅をオペラチックに描こうと試みた。
 原作ではイアーゴが、大活躍する指揮官オテロの副官に当然自分が選ばれるだろうと思っていたところに、オテロが戦場で陣頭に立ったこともない算数の大家カッシオを選任したところから彼のオテロに対する反発が始まるところが描かれている。しかしその部分を丸ごとカットしたオペラでは、イアーゴは最初から悪人として登場する。つまりイアーゴは悪人だから悪い奴なのだ。
 だからイアーゴは悪人としてイアーゴのクレード(信仰告白)を行う。勿論これは通常の信仰告白ではなく、「悪の信仰告白」である。
 京都の講演は、このクレードのアナリーゼから始まろうと思っている。クレードの中の音楽的な新しさや、この音楽の持つデモーニッシュな力を、僕はピアノを弾きながら歌ってみんなに説明するつもりだ。同時に、このクレードこそが、シェークスピアから離れた「ヴェルディ・オテロ」の出発点であることを理解してもらおうと思っている。

オテロの破滅は運命か?
 ヴェルディは、「運命の力」や他の彼のオペラでそうだったように、「オテロ」というドラマでも、これを運命に導かれていくドラマに仕立て上げている。イアーゴがオテロにとっての運命であり、オテロはイアーゴという運命に翻弄されたのである。しかし、まさにこの点において、「ヴェルディ・オテロ」は原作と決定的に袂を分かっているのである。
 シェークスピアが描きたかったのは、「自ずから壊れていく」英雄であって、「運命によって壊されてゆく」英雄ではないのだ。どうにもならない運命ではなくて、どうとでもなったのだけれど、自分から好んで破滅に向かっていくその内面の刻々と変わる心理状態を通して、人間というものはかくも弱いものなのかという真実をあぶり出すのが目的であったのだ。
 イアーゴは言ってみれば自分の心の中に住んでささやく魔の姿であって、全ては自己の内面の物語であるのだ。

 しかしヴェルディは知っていたのだろうな。そんなデリケートな心理描写は、オペラという形式ではあらわし得ないことを。そこがオペラの限界であることを。
 オペラは対比なのだ。オテロの悪に対する無垢と、イアーゴの暗黒の欲望及び奸計の対比。第一幕最後の静かで美しい愛の二重唱(シェークスピアの原作にはこんな部分はない)と、第二幕冒頭の激しいクレードとの対比。そうした対比が作り出すダイナミズムなしでは、オペラはオペラとして成立しないのである。
 オペラの大家ヴェルディだからこそ、オペラの限界を知っていたのだ。だからこそヴェルディの「オテロ」は“オペラとして”偉大なのだとも言える。

 ここにワーグナーというのがからんでくると、また話がややこしくなる。オペラの限界を別な角度から眺めていたからこそ、ワーグナーは自分の作品をオペラと名乗ることをやめた。しかしこのことについて話し始めるとまた果てしなく長くなるので、これはまた別の機会に話そう。

原作がいいか、それとも・・・
 最近掲示板で、映画化される「ダ・ヴィンチ・コード」の原作を読むべきかどうか議論されているけれど、いつも繰り返されるテーマだ。結論を先に言うと、あらすじだけ同じで別の作品だと最初から思った方がいいな。

「原作の方がいいや!」
と思われたら原作者がハッピーだし、
「映画の方が面白いぞ!」
と言われたら映画の制作者がハッピーなだけよ。

 映像は直接的だけれどイメージを限定してしまうし、音楽は常に感情や情緒の面からドラマにアプローチする。細かい心理描写や、宗教的、哲学的、精神的事柄の表現などは、ロゴス(言葉)の持つ力にはかなわない一方で、本を読んだだけではなかなか泣けないものでも、映画やオペラでは、音楽の力と相まって時には大きな感動のうねりを呼び起こす。
 作家にしてみると映画やオペラは表現が大雑把でイージーだと思うだろうし、映画制作者は映像の持つ効果と可能性を最大限に信じている。オペラに携わる者は、オーケストラや歌というもの、あるいはそれらがビジュアルなものと一体となった時の表現力を信じている。みんなみんなそれぞれに可能性と限界とを持っている。

 しかしはっきりしていることは、いろんなジャンルをたらい回しにされても、名作は残るのである。これは編曲にも言えることで、平原綾香が歌う「Jupiter」がいいのは、原曲のホルスト作曲「惑星」の「木星」がやはり“良く出来ている”からである。

井上道義さんのこと
 井上道義さんほど面白い指揮者は見たことがない。「運命の力」の稽古が始まった頃から、新国立劇場楽屋口付近の駐車場に変な車が駐車し始めた。
「なんだこりゃあ?変な車だなあ。」
ってみんな言ってる。
 ある日、昼と夜の稽古の休み時間に、井上さんが副指揮者とピアニストを呼び止めて、
「たまにはみんなで軽く食べながらお話しようよ。」
と言うので、みんなで楽屋口を出た。
「ねえ、見てみて、変な車がある!」
とピアニストの小埜寺さんが言うと、
「これ、俺んだよ。」
と井上さんが言う。
「へ?」
みんなで近くに寄ってみると、車の外側に隙間なく黄土色のレンガが張り付いている。つまりレンガの車。まあ、本当のレンガじゃなくて発泡スチロールのような素材だけれど。
「どうやったの?これ?」
「一個一個ガムテープで貼ったんだよ。めちゃめちゃ時間かかったよ。扉の取っ手のところとガソリンタンクのところだけはどうしても下の色が見えるよな。でもここに貼っちゃうと困るから仕方ない。」
「・・・・・。」
一同言葉を失ってしまった。

 そう言えば昔、当時の二期会の事務所がある代々木駅の近くの道路を歩いていたら、後ろからいきなり放送で呼ばれた。
「三澤、三澤、そこどきなさい!」
パトカーに怒られたのかと思って僕はびっくりして振り返った。でもどうして僕の名前知ってるんだ?僕の後ろには普通の乗用車があって中では井上さんがニヤニヤ笑っている。
「乗れよ。」
僕は車に乗り込んだ。
「びっくりするじゃありませんか。何ですかコレ?」
「へへへ、通信販売で買ったんだ。いいだろう。」
「・・・・・。」

 その時も確か「運命の力」だったな。昔、第三幕の戦場の混声合唱がとても速かった思い出があるので、今回最初の練習の時に僕は予防線を張って、
「井上さん、あんまし速くしないでね。」
と言うと、
「おう、昔のテープ聞き返したけどよ、あれは馬鹿だ。馬鹿、馬鹿。何にも知らなかったんだねえ。若気の至り。今度は遅くやるよ。」
で、練習が始まった。
「井上さん、もうちっと速くってもいいよ。合唱団のみんな時間余っちゃってる。」
「何だよ、人がせっかく親切で遅くしてやってんのに。そゆこと言うと、まためちゃめちゃ速くするぜえ!」
「そ、そんなあ・・・・。」
万事こんな感じ。でも井上さんの練習は楽しいし、出来上がりも結構良いよ。
「運命の力」は3月15日が初日。30日までの間に6回公演。

くにたち芸術小ホールへいらっしゃい!
 次の日曜日19日はスタジオ・コンサートがある。タイトルは「母の愛〜宇宙の愛」で、副題は、「ミュージカル『おにころ〜愛を取りもどせ』の世界と究極の愛についての考察」という長ったらしいものだ。場所は、100人も入らない、くにたち市民芸術小ホール地下のスタジオで行う小規模なコンサートだけれど、結構楽しめるものに仕上がりそうだ。

 出演者は、一昨年ナディーヌ役をやった佐藤泰子(ソプラノ)さんを初めとして、内田もと海さん(ソプラノ)、初谷敬史さん(テノール)、そしてピアニストの木住野睦子さんと桜井英津子さんの二人。僕がお話をしながら進めていく。

 プログラムは、メンデルスゾーンの「歌の翼に」とか、ドヴォルザークの「我が母の教え給いし歌」、「蝶々夫人」のアリアなどを混ぜながら、最初は母の愛について語り、だんだんテーマが大きくなっていって宇宙の愛にまで話が広がっていく。ミュージカル「おにころ」のナンバーも、アリアや合唱曲を紹介しながら進む。ラスト・ナンバー「宇宙の川」は、自分で言うのもなんだけど感動的ですよ。

 おととい語りの台本が完成して、月曜日に合唱を歌うミュージカル・ワークショップのみなさんにお配りするが、コンサートが終わったら、京都ヴェルディ協会講演の原稿共々、このホーム・ページに台本の原稿をアップする予定だ。

 でも原稿読んだだけじゃ分からないからね。生のコンサートに来た方がいいよ。まだ空席があるみたいなので、19日の14:00には是非みなさん国立にお出掛けください。決して後悔しない楽しいコンサートになること請け合いです。
 前売り入場券\1,000、当日券\1,200なので、前売りの方が得です。余ったお金でマックのハンバーガーが二つ食えます。

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