神秘的な宇宙植物〜竹〜

立川断層と竹林
 僕の家の近くには立川断層が走っていて、隆起したのか沈下したのか知らないが、数メートルの高さに及ぶ切り立った崖がある。その崖は、西側は谷保天満宮や城山公園を巻き込んで立川あたりまで続き、東側は鎌倉街道の向こうまで続いて府中に伸びている。
 その長い断層の中でも、おそらく僕の家のあたりが一番直角に近くしかも高い。で、僕の家はその高台の方にあるのだが、崖のすぐ上の道はとても見晴らしが良い。多摩川の河川敷の向こう側には聖蹟桜ヶ丘の街並みが見え、遠く広がる山脈の真ん中には、霊峰富士がその気高い姿をたたえている。天気さえ良ければ、僕は毎朝愛犬タンタンの散歩で富士山を拝んでいるんだ。これだけでもとても贅沢な気分だよ。
 
 大体30分に及ぶ散歩コースのフィニッシュは、この断層をS字に登る急な坂だ。これが結構きつい。この坂は竹林になっていて、昼間でもなんとなく暗く、僕の家の近くの立川断層をS字状に登る竹林の坂
「決してひとりで遊ばないでください」
という看板が出ている。時々変なおじさんがうろついているという話だし(僕じゃないからね。タンタンとうろついているのは事実だけど・・・)、切り立った崖の斜面から生えている木が、時々台風の後なんかに倒れているから、危ないということなんだろう。
 でも僕はこの竹林を通るのが好きだ。竹林というのは普通の林と違って、なんかこう清潔で神聖で凛とした雰囲気を持っている。
 この竹林を抜けて朝の散歩を終えると、一日が本当に始まる。僕は午前中に集中してスコアの勉強や様々な仕事をするから、散歩は目覚ましに最適だ。

宇宙植物?
 竹って不思議だ。「若竹のように」と言うけれど、本当に何ものをも恐れずに天に向かって真っ直ぐに伸びているのが爽やか。葉もきりっとしていて触れなば切れんという感じ。実際切れるし。それに竹が生えているところは地面に余計な雑草が生えていないのですっきりしている。
 竹はどことなく神秘的で、かぐや姫の伝説もさもありなんと思わせる。かぐや姫は、杉や松やけやきから生まれたんではいけない。やはり竹でなくては。竹だから月という地球外の天体とコンタクトを持てるんだ。かぐや姫は月に帰っていった。なにも月でなくてもいい。竹のふるさとの惑星だ。僕には竹がどうしても地球上の植物だとは思えず、宇宙のどこかの星からやってきたような気がしてならないんだ。

竹って稲科!
 インターネットで調べてみて驚いた。竹って稲科なんだって。全然違うじゃねえかと思うんだけど、学者は表面的な共通点ではなく、もっと本質的なところを見ているんだろう。
 稲は春に種を蒔き、夏の終わりに花が咲いて秋に実を結ぶ。今この原稿を群馬の実家で書いているが、稲の花なんて見たことないよとお袋に言ったら、
「百姓じゃねえとそんなことも分かんねえんだねえ。」
と言われた。まあ、それは置いといて。
 竹は稲に比べて花が咲くまでの間が長いそうだ。どのくらい長いかというと稲の比じゃない。な、な、なんと、モウソウチクという種類で67年、マダケは120年だとよ。なんだそりゃ。

開花そして自己消滅!
 竹は地下茎がどんどん伸びてあたり一面に群生し、竹林を形成する。タケノコもどんどん伸びてたちまち若竹となる。まわりを圧倒し、一大ファミリーを作り出す。
 しかし60年〜120年に一度だけ花を咲かせ、稲穂に似た実を結ぶと、驚くべきことにその竹林全部がある日枯れるんだ!自分で自分の一族に幕を引く。まるでノアの箱船。
 だから昔の人は竹の花を見るとわざわいが起こるという迷信を信じ、これに怯えたという。
 とにかく他の植物と全く違った生態系を持つ竹!なんという変わった植物!やっぱり宇宙から来たんだ。そうとしか考えられない!ね、そう思うだろう、タンタン!
 でもタンタンは、今日もそんなことには全くお構いなしに、片足上げて神聖な宇宙植物におしっこ引っかける。あのなあ、動物だったら動物的勘というやつで、人間のキャッチできない竹の宇宙波動とかテレパシーとかキャッチしなさいよ!


国家の品格

藤原正彦氏
 最近、評論家という肩書きを持った人以外の本が面白い。ある日曜日の朝、竹村健一が出ている政治討論の番組で、ひとり変わった意見を言う人がいたので、心に留めておいた。それから何日かして本屋でふと「国家の品格」という本を見かけた。著者は先日テレビに出ていた藤原正彦という人だ。早速買って読んでみた。

 この人数学者なんだ。論理の世界に生きている人のくせに論理の限界などを語っていて情緒を復活させるべしなんて主張している。さらに現代の日本で当たり前のようにまかり通っている常識をことごとく覆すようなことを言っている。たとえばこの本の最初の3章の目次だけ見ても、いかに挑戦的かが分かるだろう。
  第一章 近代的合理精神の限界
第二章 「論理」だけでは世界が破綻する
第三章 自由、平等、民主主義を疑う
 そしてそれ以後の章では著者独自の考えを展開させていく。日本民族の持つ希有な特性、「もののあわれ」を感じ、情緒や形を重んじるような日本的要素こそが、これからの世界を動かしていくのだと藤原氏は主張する。そしてそれには「武士道精神」を復活させることが必要なのだと説いていくのである。

 前半の部分には共感する点が多かった。アメリカを筆頭として、全ての先進国で社会の荒廃が進行しているのは事実だし、民主主義という言葉の前には何人たりとも沈黙してしまうが、果たして民主主義とはそんなに素晴らしいものなのかという疑問はずっと持っていた。
 民主主義だけでなく、おそらく社会主義や共産主義も、「国民が真に成熟していて健全な判断力を持っている場合」には機能するものだと思う。この大前提なくしては、何主義とて正常には機能しないのだ。

 一般的に国民の大半はいわゆる凡人である。人間は崇高で理想のためには命をも投げ出すという考えは美しいが、リアリストの見解ではない。現実には人間とは怠惰であり、欲深いものであり、見返りのない努力はしないきわめてエゴイスティックな存在である。
 だからどんなに努力して頑張っても、頑張らない人と貧富の差がない共産主義は、何十年か経ってみたら、みんなして頑張らない国民総貧乏の国家になってしまった。当たり前のことである。共産主義は理論としては完璧であった。しかし人間存在に対する洞察に欠けていた。

 民主主義はどうなのだろう。主権が国民にあるという考え方は立派だが、9.11以後のアメリカを見るがいい。みんなが「やっつけちゃえ!」って雰囲気になったからこそ、アフガニスタン侵攻やイラク戦争が可能になった。こうやってすぐ過剰な反応をするのも国民であり、そうした国民のその瞬間瞬間の意見を元に政策を決定するとしたら、時に民主主義は世界で最も危険な政治形態となる。

武士道精神でなにもかもいけるか?
 そういう意味では藤原氏の主張は正しい。しかしだからといって、日本的感性がなにもかもいいと主張し始める後半になると、反対に僕はどこか居心地が悪くなるのを感じる。

 「武士道精神」の復活には反対はしない。僕がいつかこのホームページで言った、標準搭載の素朴な信仰心にも通ずる考え方だし、西洋人の持っていない沢山のものを日本人が持っているのも事実だと思う。しかし、僕が居心地が悪いのは日本人と日本人的感性を誉めすぎだというところにある。

日本文化って・・・・。
 昔ある合唱団でメサイアの練習をしていた。僕は終曲で「ほふられた子羊は」という冒頭の歌詞の説明をしていたが、書いてある通り「ほふられた」と読んでいた。すると休憩時間にある上品な教養のありそうなご婦人が僕の所にツカツカとやってきて、
「先生は何もご存じないのですわね。あれはほふられたではなくて、ほうられた子羊と読むのですわ。指揮者ならばもっと勉強してくださいね。」
と言った。
 僕はこんな時、こうしたややこしい日本語の文化って非合理的だし、あんな風に言ってくる人の優越感や劣等感も変だと思った。こんなことで教養の有無を計るのはおかしい。第一これは本当の教養とは何の関係もないだろうと思った。というか、教養のピントがはずれているだろうと思うんだ。

 それだったら僕はアルファベットの26文字の方がずっと親しみやすい。特にドイツ語やフランス語は読み方にほとんど例外がないので、法則さえ学べばすぐにどんな文章でも読めるようになる。こういうのが合理的でいいと思う。僕は藤原氏と違って合理的大賛成だからね。そこから思考が始まり論理が始まるのだから。だから、こんなところに曰く言い難しの境地を持ち込もうとする日本人は繊細かも知れないが、僕には精神的鎖国だと感じられてしまうのだ。

 日本人は高等学校の終わりまでずっと漢字のテストをさせられている。読み書くだけのことにこんなにも労力を払わなければならないことに文句を言っても始まらないのであるが、日本人があれだけ英語教育をしても一向に英語を「しゃべれる」ようにならないのは、あきらかにこうした文字中心の文化のせいだ。
 小学校の教室に行ってみるがいい。国語の授業で教科書を読ませられている児童の表情のなさ。つまり漢字が分かって文章が読めるかどうかが分かればもういいのである。英語も同じだ。難しい文章を訳すことばかりに意識が集中しているのは、読み書き中心の文化ゆえ。
 でもたとえばフランスなどでは、文字の読み方はすぐ出来るのであるから、あとは美しい発音と朗読にかなり労力が費やされるという。
 口でしゃべるその表現にウエイトを置くということは、より芸術的なアプローチを要求されると言うことだ。こういう社会は、日本より表出性の高い社会なのである。
 そういう社会よりも「飯、風呂、寝る」や「武士は食わねど高楊枝」の文化がいいとも僕は思わないのだ。

 「京都のぶぶ漬け」も一緒だ。他人を思んばかるというと聞こえはよいが、人にそれを強要して粋だとか野暮だとか判断するのもやめてもらいたい。一を言って相手に十を知ることを望むなんて無理だ、というか可哀想だ。みんな育ってきた環境も違うのだから、同じに物事を感じられるわけがない。だからきちっと言葉で分かるように説明し合う社会を僕は作りたい。ましてや、そうやって自分の心を読み取ってくれないといって相手を非難したり、あるいは他人の前で、
「あの人は鈍感なのよ。」
と告げ口することが、日本人の陰湿なイジメの始まりとも言える。

 藤原氏が日本人の感性と日本文化を誉めるのは良いが、日本人の美徳も日本人の欠点と表裏一体なんだ。だからあまり日本人の感性などを誉めるとますます恥ずかしい。

卑怯を教える!
 その中で、僕が「その通り!」と思う記述があった。それは「卑怯を教える」ということだ。藤原氏の父親が彼にたたき込んでくれたことに「卑怯者になるな」ということがあった。

「弱い者いじめの現場を見たら、自分の身を挺してでも、弱い者を助けろ。」
「弱い者を救う時には力を用いてもよい。ただし五つの禁じ手がある。一つ、大きい者が小さい者をぶん殴っちゃいかん。二つ、大勢で一人をやっつけちゃいかん。三つ、男が女をぶん殴っちゃいかん。四つ、武器を手にしてはいかん。五つ、相手が泣いたり謝ったりしたら、すぐにやめなくてはいかん。この五つは絶対に守れ。」
 これは素晴らしい教育だと思う。でも僕は、これが日本の武士道だけの専売特許ではないと思う。実際これと同じようなことを感じたのはドイツでだった。

 ドイツ人は、今の日本人よりもずっと「真っ直ぐであること」をモットーに生きている国民だと思う。ehrlich(誠実な、正直な、まっすぐな)という単語はドイツにおいては人に向ける最高の讃辞だ。それと反対なのはFeigling(臆病者)。 こんな事件があった。
 ベルリンのクーダム通りは、一番の目抜き通り。ここでのストリート・ミュージシャンはみんなレベルが高い。ある時女の子がヴァイオリンを弾いていた。そこは最も場所の良いところ。そこへ意地悪そうなあんちゃんがやって来て、女の子を無理矢理どかして演奏を始めた。僕は妻と一緒だった。
「ひどいなあ、なんて奴だ。」
と二人で言い合ったが、どうすることも出来なかった。
 すると、通行人達がそれを見つけて、ひとりまたひとりとあんちゃんのところに寄ってきて、
「お前、なんて卑怯なことをするんだ。女の子に場所を戻してやれ。」
「そうだそうだ!」
といつのまにか黒山の人だかりとなった。あんちゃんはみんなにどかされて退散、ついで遠ざけられた女の子が再び連れてこられ、
「はい、もう心配しないで演奏していいわよ。」
とみんなに言われ、女の子は再び演奏を始めた。通行人達は何事もなかったかのように方々に散っていった。

 ほんの一瞬の間にこうした感動的なドラマを作り出すドイツ国民を僕は凄いと思った。こういう人達が集まった時、真の民主主義国家が出来上がるのか、とも思った。一方、僕は自分の臆病を恥じた。そして、このようなドラマは日本では決して起こらないであろうと思って、僕は自分が日本人であることが悲しくなった。

 「見て見ぬふり」「無関係」が今の日本のモットーだろう。自分があの時何故行動できなかったのかと問うとき、自分の中にあった躊躇、あるいは躊躇すらしないで通り過ぎようとした自分の無責任さは、自分の育った日本という社会の雰囲気と無関係ではない。藤原氏だったらこんな時、武士道が失われたからだと言うだろうが、本当にそうなのかな?日本人って元々藤原氏が買いかぶるよりずっと駄目な国民なのではないだろうか。

結論を急いではいけない
 この問題にこれ以上深入りすると、どこまで書いても果てがないような気がする。結論なんてとてもとても出ない。僕は藤原氏の意見に反対ではないんだが、彼のように爽やかに結論を出して、「はい、おしまい!」とされると抵抗あるとだけ言いたいのである。
 僕はね、日本人が古来どうであったかよりも、これからどうすればいいのかを考えるべきだと思うんだ。もう鎖国はしていないんだし、多様な価値観が交錯している世界の中で、我々は好むと好まざるとにかかわらず、国際人であることを求められていく。
 大切なことは、いつもその場しのぎで問題を処理せずに、時間がかかっても面倒でも、本質的に考え本質的に行動すべきだと思う。そのために必要なのは、やはり宗教だな。あ、またこれは次の機会に・・・・。

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