まだまだ尾を引く「ダ・ヴィンチ・コード」

レンヌ・ル・シャトーの謎
 先週この欄で、「ダ・ヴィンチ・コード」のお話は嘘だから信じないでね、と書いた僕だが、こう書くと、今度はその全てが嘘と言い切ってしまっているようで、なんとなく後味が悪かった。
 凝り性の僕は、どこまでが真実、あるいは真実の可能性があって、どこからが嘘なのか突き止めたくて、「ダ・ヴィンチ・コード」の資料的なルーツとなっていると言われる「レンヌ・ル・シャトーの謎〜イエスの血脈と聖杯伝説」(マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著、柏書房)を買ってきて読んだ。
 消費税を合わせると五千円を超える安くない本だった。さらに本文だけで五百ページにも及ぶ長さは、決して読みやすいとは言えなかった。まあ、かつてギャラの代わりにもらった五千円分の図書券を使ったから、損した感じはないのだけれど。

謎の村
 第一章「謎の村」が一番面白かった。フランスの小さな村レンヌ・ル・シャトーに新しい教区司祭がやって来た。ベランジュ・ソニエールという名の司祭は、ある時村の荒れ果てたマグダラのマリア教会の修復を思い立つが、中が空洞になっているある柱の中から不思議な古文書を発見する。それから突然ソニエール司祭の身辺には変化が起き、突然の卒中で亡くなるまで、謎の行動に満たされるという。

 ソニエール司祭は、まずその羊皮紙をその筋の権威者、すなわちパリの聖シュルピス神学校の校長ビエイユ神父と、ビエイユの甥のエミール・オッフェに見せに行った。このオッフェというのが言語学、暗号学、古文書学の分野ではかなり評価されていた人物で、かつパリの様々なオカルト団体、秘密結社に通じていたという。親交を持っていた文化人としては、マラルメ、メーテルリンク、ドビュッシーなどがいた。

 ソニエール司祭はそれから人が変わったようになる。国内外を問わず沢山の得体の知れない人達と文通を始め、来客を迎え、銀行を相手に取引を始めたという。膨大なお金が湯水のように消費されるのを見て、彼は教会から訴えられたが、彼自身がバチカンに逆に訴え、地位の復帰を勝ち得ている。
 彼が卒中で亡くなった日は、聖シュルピス宗派の祭日で、亡くなる五日前、まだ元気な姿を教区の人に目撃されているのに、家政婦兼召使いがすでに棺を注文していたことが領収書から明らかになっている。

 こう聞いただけで、すでに推理小説風の面白さを感じる人は少なくないに違いない。実際、僕もこの書き出しにはワクワクした。しかし、本当に面白かったのはここまで。気をつけないと、その語り口によって読者はこの共著者達の論理にうまく巻かれてしまい、彼らが導き出した結論を全面的に信じることになってしまう。そうは問屋が・・・・。

 カタリ派異端とアルビ十字軍の話やメロヴィング家の歴史、さらにテンプル騎士団の事など、資料を頼りに歴史を紐解くのは楽しかった。だが本文の三分の二を過ぎた頃、話がマグダラのマリアに絞られてくるあたりから、論理には飛躍が見られ、仮説と憶測が事実に巧みに混ぜられるようになってくる。そして出てきた結論は・・・・。

 マグダラのマリアがイエスの妻だったというだけでは飽きたらず、イエスは本当は十字架上では死んでいなかったって言うんだぜ。ダメダメ、「ダ・ヴィンチ・コード」のような小説だったらいざ知らず、このように論理を積み重ねていく論文においては、ひとつでも「嘘だあ」と思わせる結論を書いたら、読者は引いてしまうんだ。

もうこれで終わりだからね
 さて、僕なりの結論を言おう。これで僕は「ダ・ヴィンチ・コード」における真偽論争に僕なりにひとまず幕を引くのだ。

イエスがマグダラのマリアと結婚、ないしはそれに相当する特別な関係にあったことは、ほぼ事実であると信じる。

イエスが最初の奇蹟を行ったとされるガリラヤのカナにおける結婚式とは「イエス自身の婚姻であった」ということについては、聖書の文脈から判断する限り、可能性はかなり高いと思う。

マグダラのマリアがイエスの子供をもうけ、ガリア(現在のフランス)に逃れ、そこで暮らした可能性については高いと信ずる。何故ならばフランスにおけるマグダラのマリア信仰に特別なものがあることを肌で感じてきたから。
この本で触れられていた事の中で特筆すべき事がある。それは、フランスを中心に見られる黒い聖母というのが聖母マリアではなくマグダラのマリアだという説だ。これはすでにカトリック教会の中でも何度か耳にしていたことだ。
黒い聖母の母子像が聖母マリアと幼子イエスではなく、マグダラのマリアとイエスの子供であるという説は自分にとっては新しい。うーん、あり得ることかも知れない。
さらに、この本では、フランスにおいてはノートル・ダム(直訳は我らの女性)も聖母ではなくマグダラのマリアのことだというが、これもあり得ることだと思う。ただここまでどんどん来ると理性がついていけない。ちょ、ちょっと待ってって感じ。

メロヴィング家がイエスの血脈の直系であるという説に関しては、仮にそうだったとしても現代には何の影響力もないと思う。何故なら、この本は自分でそれを証明してしまっているのだが、メロヴィング家はとても入り組んでいて、誰がどこで誰とどのようにつながっているのかも分からないくらい複雑なのだ。
系図というのは、まっすぐにつながって初めて効力を発揮するものなので、今ここに「わたしがイエスの直系の子孫です。」という人が現れてきても、もはやそれを証明する何の手だてもないのである。
仮にそれが事実だったとしても、その人に現在のローマ教皇が行っているような仕事が出来るのだろうか?その人をみんなが賛美したり拝んだりするのだろうか?あるいは民主主義のフランスで今更王制を復活させ、なにを統治させるというのだろうか?
どんでん返しをばらしてしまって申し訳ないが、映画の中のソフィー・ヌヴーがキリストの末裔だったとして、あんな小娘に一体何が出来るの。誰がどうついて来て、これから何を起こせるっていうの?
それを知っているからこそ、現代ではバチカンがあわてていないのだろうな。映画では、ある意味感動的な結末だったかも知れないが、あそこでまさにストーリーは終わったのだ。というかストーリーが行き詰まったのだ。
つまり、メロヴィング家がイエスの直系です。ああ、そうですか。チャンチャン!

新たな興味〜ワーグナー
 それより困ったことがある。この忙しい時にね、この本を読んで新たな興味が湧いてしまった。それはワーグナーと聖杯伝説との関わりなのだ。すでにもう一昨年秋にこの「ダ・ヴィンチ・コード」の小説を読んだときから、このページでも書いたし、興味を持っていたことなのだが、ワーグナーと聖杯伝説との接点は、単に「ローエングリン」と「パルジファル」だけにとどまらず、もしかしたら彼の全ての作品になんらかしらの形で関わっているのかも知れないと思うようになったのだ。
 これから僕はその視点で新たにワーグナーの作品の研究を始めようと思い始めてしまった。こんなことを書いて何物かにねらわれないようにしなければ・・・・。

 まず、ワーグナーは「パルジファル」を書くにあたって謎の村レンヌ・ル・シャトーを訪れているという。すくなくとも聖杯伝説への彼の興味が通り一遍のものでないことはこれだけでも分かる。
 それから、この本(レンヌ・ル・シャトーの謎)では聖杯伝説の流布に関して重要な人物として中世の詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの名が挙げられている。ヴォルフラムといえば、タンホイザーの友人として歌合戦に登場するあのヴォルフラムである。
 考えてみると、ワーグナーはタンホイザーにヴェーヌスを賛美させている。ヴォルフラムにさえ「夕星の歌」で宵の明星すなわち金星(ヴェーヌス)讃歌を歌わせている。もしかしてヴェーヌスをマグダラのマリアになぞらえたりしたら無謀だろうか?

 ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの最も有名な作品は「パルツィヴァール」である。エッシェンバッハの詩によると、ローエングリンはパルツィヴァールの息子で、最高の聖杯の騎士であり、その神秘的な地位を守るために何人にもその素性を明かさないのである。

 エッシェンバッハから一度離れるが、ニーベルンゲンはメロヴィング家のドイツ人家系に実在した人物であり、ジーグムント、ジークフリート、シーグリント、ブリュンヒルトなどはみなメロヴィング家の名前だとこの本では主張している。だとすれば、ワーグナーの長大な楽劇の創作のモチベーションは、我々の想像を超えたところから現れた可能性が高い。これはメロヴィング家の物語であり、その象徴である指輪とは、もしかしたら形を変えた聖杯であり、この物語自体が聖杯をめぐる暗躍の歴史を物語っているのかも知れない。
 
 ワーグナーの最も神秘的でない「ニュルンベルクのマイスタージンガー」にだって、ワーグナーの聖杯伝説が流れ込んでないとは言えない。主人公のヴァルター・フォン・シュトルツィングは、見知らぬ若い騎士だ。聖杯の騎士かも知れない。エヴァの世話係の名はマグダレーネすなわちマグダラだ。
 
 彼の最後の作品「パルジファル」に至ってはそのものズバリ聖杯伝説の話だからね。エッシェンバッハによると聖杯の騎士達はテンプル騎士団であるという。
 一度このページでも書いたが、清き愚か者であるパルジファルは、グルネマンツに向かって全く素朴に、
Wer ist der Gral ? 「聖杯って誰のこと?」
と尋ねるのだ。
 しかし、それに対するグルネマンツの答えは、
「馬鹿だなお前は。聖杯は人じゃないの!」
と答えるどころか、
Das sagt sich nicht. 「それは言えないな。(高木卓 訳)」
となっているのだ。

 このドイツ語は実は不思議で、直訳すると「それは自らは語らない。」なのだ。さらにグルネマンツの続く言葉は不可解だ。
Doch bist du selbst zu ihm erkoren,
bleibt dir die Kunde unverloren.
「だが、お前の身が、聖杯に仕えるように選ばれているのなら、聖杯の消息も、お前の身を離れないことになろう。(高木卓 訳)」

 この文を読み返して、僕は、
「あっ!」
と思った。何故気がつかなかったのだろう。高木氏の訳は、常識的な意味では勿論非の打ち所もないのだが、この訳は実は全然違うのだ。

 仮にパルジファルが聖杯そのもの(すなわちイエスの直系)であるとすると、最初の文章は、
「お前はまだ自分でそれを理解していない。」
という意味になるし、ふたつ目の文章は次のような意味に取れる。
「もしお前が聖杯として(zuihmは、聖杯に仕えるのではなく、聖杯そのものとして)選ばれている者であるならば、それについての情報(知識)はお前から決して失われずに留まっているであろう。」
ね、パルジファルのテキストは、もっともっと念入りに調べられるべきだと思うでしょう。

ワーグナーは、フリーメーソンに入会を申込み、二度も断られている。一度目は人妻との道ならぬ愛人関係によって。二度目はバイエルン国王ルートヴィヒ二世との男色を疑われて。まったくしょうもない奴だ。でも、こうした秘密結社には、生涯を通じて興味があったのだね。もっと品行が良かったら、シオン修道会の総長に名を連ねたかもしれないのに。

 そんなわけで、この忙しいのに今週はこんなことに考えをめぐらせながら過ごしたってわけです。ワーグナーの全ての作品の全ての場所について聖杯伝説と結びつけることは無理があるけれど、もし「リング」にさえ聖杯伝説の陰が見いだされるとしたら、僕にとって見ると、それは「ダ・ヴィンチ・コード」どころの騒ぎではないんだ。これは一生かけて研究すべきテーマになってしまうよ。

 おっと、こうしちゃいられない。この文章を書いて一段落したから、引き続き「スペース・トゥーランドット」のスコア制作にかかろうっと!

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