佐藤功太郎さんのこと

 指揮者の佐藤功太郎さんが亡くなった。とても悲しい。佐藤功太郎さん(以下、いつも呼んでいたように功太郎さんと呼ぶ)といえば、オペラの世界で知らない人はいない。僕が二期会で働いていた頃は、日本人で最もオーケストラ・ピットに入る回数の多い指揮者だった。僕にとっても、ベルリン留学から帰ってきて、日本で活動し始めた時期に、副指揮者として最も一緒に仕事をさせてもらったマエストロだった。

功太郎さんとの出会い
 1984年、10月始めにベルリンを引き揚げて帰ってきた僕は、東京オペラ・プロデュースのピアニスト兼副指揮者として働き始めた。演目は「フィガロの結婚」。その指揮者が功太郎さんだった。
 僕はベルリン芸術大学指揮科において他の学生の指揮に合わせてピアノを弾くことには慣れていたが、外でマエストロに合わせて弾くのは初めてだったので、最初のマエストロ音楽稽古の時はとても緊張した。しかも初対面の功太郎さんはとても恐かった。

 功太郎さんは、テンポの変わり目など、ちょっとでもずれると恐い顔でにらんだので、僕は必死で彼の棒を見続けた。「フィガロの結婚」は、ほとんど暗譜しているので、譜面など見なくても弾けるのだ。功太郎さんの棒は明快で見やすかったので、僕はすぐに彼の棒に慣れてきた。すると彼の顔もなごんできた。
「ふうっ!これでいけるかな。」
と安心していると、ある箇所にさしかかった時、突然彼は棒を止めて、
「ここって、ヴォーカル・スコアではこうなっているけど、本当はフォルテが半拍早いんだ。君は指揮者なのにそんなことも知らないのかい?」
という。
 僕は知っていたのだが、ペータース版ではピアノが弾きやすいように直してあるのだ。まあ、ちょっとスコアとは違うが、そんなに大事なところでもないし、いいだろうと思ってそのまま弾いていたのだ。
「駄目だなあ。ピアニストというのはね、スコアと違うところをいちいちチェックしてヴォーカル・スコアに書き写しておかなければならないんだよ。」

 その言い方があまりに感じ悪かったので、僕はムッとなって、
「じゃあ、いいです。こっちで弾きます。」
とオーケストラのフル・スコアを出して、それを見て弾き始めた。しばらく進んだ後、歌手に注意するので止めた時、彼は僕の所に来て、
「本当にスコアを見て弾いているのかい?」
と言う。口調はいつの間にかさっきまでの冷たい感じとは打って変わってやさしくなっている。
 それをきっかけに僕はどうやら功太郎さんの信頼を勝ち得たようで、なにかと頼りにされるようになった。功太郎さんの練習は要領よく無駄がない。歌手達には決して変な要求はしないが、言うべき事はしっかり言う。声楽的な知識もあるし、なにより歌手達の心理をよく知っている。僕は彼の元でとても気持ちよく仕事をさせてもらった。

 やがて立ち稽古が始まり、僕が指揮をする時も多かったが、功太郎さんが来た時は進んでピアノに向かった。功太郎さんの解釈は、僕とは全然違う。でもまだ若い僕の解釈が自分の先入観や思いこみゆえの可能性もあるので、自分でない解釈の音楽に身を委ねるというのは、実は経験の浅い指揮者にとってはとても重要な事なのだ。功太郎さんの音楽は功太郎さんの音楽でつじつまが合っている。すると、
「ああ、こういうやり方もあり得るんだなあ。」
と思えて、自分の音楽に新しい発見があった。

事件勃発
 さて、立ち稽古も仕上がってきて、いよいよオーケストラ練習が始まった。だがこれが問題だった。オケはいわゆる寄せ集めオケ。練習をつけている功太郎さんがだんだん不機嫌になっていく。僕も横でハラハラしながら見ている。
 オペラはシンフォニーと違って、テンポもコロコロ変わるし、歌い手の都合でテンポが揺れたりする。よほど経験がないとなかなかついていくのが難しいのだ。特にコンサート・マスターが作品を知っていないとかなり厳しいのだ。ところがこのオケのコンサート・マスターは、テンポの変わり目ごとに功太郎さんににらまれる。僕をにらんだあの目だ。
とうとうコンマスは最後まで彼のテンポにはついてこられなかった。
 
 練習初日終了後、彼は主催者と僕を呼んでこう言った。
「こんなオケとやるんだったら、いっそのこと三澤君のピアノで公演やろうよ。」
それを聞いた僕は心臓が飛び出るかと思った。
「ええ?なんちゅうこと言い出すの?オケをクビにするなんて!」
と思って僕は胸がドキドキした。
 主催者の人は、
「いやあ、そういうわけには・・・・。なんとかなりませんか?」
「なんとかなる方法がひとつだけあるよ。コンサート・マスターを替えればだいぶ違う。」
「今から誰かいますか?」
「新星日響のSさんが空いていたらいいな。聞いてみよう。」
で、連絡してみたらSさんが空いていたので、現コンサート・マスターは降板となってしまった。僕はとにかく自分がいきなり公演でピアノを弾かせられなくなってよかったと思っていた。

 Sさんは「フィガロの結婚」という作品も佐藤氏のこともよく知っていたので、オケはSさんの統制の元、みるみる内に求心力を持ち始めた。別のオーケストラかと思えるほどだった。
「へーえ。コンマスひとりでオケってこんなに変わるものなんだ。」
それは僕にとって衝撃的な出来事だった。だって普通こんな実験出来ないもの。
当然のごとく公演は大成功の内に終わった。

 指揮者というのは自分で音が出せないから楽だ、という人がいるが、逆に自分で音が出せないからもどかしい職業でもある。ある団体とやった時にとても良い評価を受けた指揮者が、別の団体では最低の評価を受けたりする。その全てが自分のせいとは言い切れないのだ。だからよりよい演奏をするためには、よりよい決断をしなければならず、そのためには戦わなくては駄目なんだということを、僕は自分がこの世界で生きる最初の時期に功太郎さんから教わった。

裁判
 ところがそれからしばらくしてから功太郎さんから電話がかかってきた。この降板させられたコンサート・マスターが、佐藤氏を相手取って裁判を起こしたというのである。
「君に証人台に立ってもらいたいんだ。僕を助けてくれるかい。」
「勿論、僕に出来ることだったらなんでもやらせていただきます。」
僕は生まれて初めて弁護士と話をしたり、証人として裁判所で証言をした。

 僕が証言するにあたっての論点はこうだった。

あの場において、本当にコンサート・マスターを替えるということが不可欠だったのか?
それは公演をする上で本当に必要な処置だったのか?
それとも単なる指揮者の我が儘ではないのか?


 僕は、佐藤氏から教えられた様々なことを脳裏に描きながら、こう答えた。

「指揮者は、公演における音楽上の全ての責任を負っています。ある指揮者は、ある程度の演奏で満足するかも知れません。しかし指揮者の頭の中にもっと高いイメージがある場合、別の指揮者のもとでうまくやっていた演奏者でも、その指揮者の元では実現するのが困難という状況が起こり得るのです。
逆に演奏家だって指揮者がいい加減に指揮したら決して黙っていません。そうやって現場では火花が散るようなやりとりがなされます。しかしそれはいざこざや争いとは違います。
お互いプロなのですから、練習場とはよりよい演奏をするための戦いの場なのです。指揮者の主張したことが正しいかどうかは、出来上がった演奏のクオリティが証明します。そんな風にして結果は指揮者自身に全て跳ね返ってくるのです。」

指揮者と演奏者の関係
 指揮者と演奏者との最も幸福な関係とは、指揮者の目指すものを演奏者も理解でき、指揮者が強要したりしなくても自然にみんなが従っていこうとする信頼関係が築かれている場合。でも気をつけないと、指揮者も演奏者もレベルが低い場合、両者が満足しても聴衆が満足しないなどということが起こり得る。その場合は、その「良い関係」そのものが単なる自己満足だ。

 指揮者にとって辛いのは、演奏者のレベルが低いけれども、演奏者が自分でそのことに気がつかず、この程度でいいやと思ってしまっている場合。そんな時の指揮者は孤独だ。でも指揮者は演奏者に好かれるためにあるんじゃない。時には演奏者達に自分たちのレベルの低さを知らせてあげることも必要。そのために逆恨みされることも覚悟しなければならない。
 キリストはこんな言葉を言っている。
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」(マタイによる福音書第10章34節)
 この言葉は、しばしば言葉尻を捕らえられて、キリストは平和主義者じゃないんじゃないか、などと誤解されているけれど、真意は先ほどのような状況なのだ。
 よりよい演奏のために、低いところでのヌクヌクとした平和に剣を投げ込む。信念を持っている指揮者だったら誰しもが経験することだ。辛い。時には最後まで分かってもらえない事もある。でもそれが指揮者の宿命でもある。

 最後に、最も悲劇的な状態。指揮者が満足しているのに、演奏家の方がレベルが高く、物足りなく思っている時。こんな時は、その指揮者が降りるべきなのだ。ううう、なんとシビアな職業!!

 裁判は功太郎さんが勝訴した。こんな風に彼は音楽では厳しい面があったが、人間的にはとてもやさしい面があり、僕は長い間かなり良い感じでお付き合いさせてもらった。

僕以外みんな功太郎さんの弟子
 「フィガロの結婚」に出ていた高丈二さんが僕を評価して下さり、僕はまもなく二期会に出入りするようになった。僕が二期会に入った頃、一番活躍していた副指揮者は、現在佐藤しのぶさんのご主人になっている現田茂夫君だった。その後すぐに現在新国立劇場音楽ヘッド・コーチの岡本和之君などが入ってきた。ずっと遅れて城谷正博君も入ってきた。
 みんなみんな芸大指揮科出のエリートで、佐藤功太郎門下だった。当の功太郎さんも二期会でどんどん指揮していたから、彼等門下生はレッスンをしてもらったら即実地練習が出来るわけで、とてもうらやましかった。

家族のような日々
 1990年夏。二期会は三谷礼二演出の「蝶々夫人」と、三木稔作曲「春琴抄」のふたつのオペラを持ってフィンランドのサヴォンリンナ音楽祭に参加した。 「蝶々夫人」の指揮者は大野和士。「春琴抄」の指揮者が功太郎さんだった。
 サヴォンリンナのホテルは、自炊が出来るコンドミニアムで、僕は岡本和之君と同室だったが、隣の功太郎さんのシングル部屋とは、バス、トイレ、キッチンが共有。つまりひとつの家の部屋が違うだけという状態だった。ここに稽古ピアニストの篠原明子さんと大藤玲子さんの二人が食事を作りに来てくれて、僕達は毎晩宴会状態だった。

「春琴抄」の練習が休みで、「蝶々夫人」の練習だけあった時は、僕達副指揮者は両公演兼ねているから練習場に出掛けていった。「春琴抄」だけの功太郎さんは、こんな時は休日。ゴルフに行ったり、部屋でぶらぶらしていた。
 夕方になって僕たちは、
「みんなでスーパに買い出しに行こうね。今晩何にしようか?」
などと話しながら部屋に戻ってみると、なにやらおいしそうな匂いがする。
「お帰り。ご飯出来てるよ。」

 功太郎さんが全部作っていて僕達を待っていてくれたのだ。しかもその料理たるや、かなりおいしかったので僕達みんなで驚いた。
「時々、気が向くと料理をするんだ。」
フィンランドには3週間もいた。いまだに大藤さんや岡本君達が集まると話題に上るほど楽しい思い出だ。その輪の真ん中に功太郎さんはいたんだ。

忙しい土曜日
 今日(17日、土曜日)、上野の寛永寺に行ってきた。新国立劇場「こうもり」公演が6時までかかって、お通夜も6時からだったので、城谷君とどうやって行こうかと話し合っていたら、ドイツ・レクィエムでもソロをやってくれた河野克典さんが車で乗せていってくれた。
 お花に囲まれていた功太郎さんは元気な頃の姿で微笑んでいた。大勢の弔問客が訪れていたのが彼の功績を物語っている。明日の葬儀にはもっと来るだろう。
 その後、急いでシェーンベルク作曲「グレの歌」のオケ合わせに川崎ミューザまで駆けつけた。本当は「こうもり」の後、そのまま東京交響楽団の練習場である川崎に行くことになっていたんだ。でも、どうしても今日功太郎さんのところに行っておかないと後で後悔すると思い、東響コーラスには無理を行ってお通夜に行ったのだ。
しかし川崎に着いた時はちょうどオケ合わせが終わったところだった。残念。

「こうもり」快調
 先週この欄で述べた「こうもり」は聴衆がよく笑ってくれて、出だし快調。僕が触れたエレナ・ツィトコワが凄い人気。彼女は発声も伸びている。凄そうに見えないけど、かなり凄い歌手に成長するかも。
 彼女は初日パーティーに今一番売れている若手ソプラノ・ナンバー・ワンのアンナ・ネトレプコを連れてきた。同じロシア人で仲が良いらしい。ネトレプコは、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場と共に来日していて、リサイタルもやる。合唱団の連中がキャアキャア騒いでいた。
 明日(18日、日曜日)は、6時に家を出る。朝から名古屋で「マーラー・プロジェクト」のオケ練。その後帰ってきてクロアチア戦を見る。がんばれニッポン!この間のような負け方だけはするなよ!

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