ボーッとした中で考えること

 「スペース・トゥーランドット」が終わり、何事もなかったかのように時間が過ぎていき、もう一週間経ってしまった。新国立劇場では、一日置いただけで8月1日からもう次のシーズンに突入。「ドン・カルロ」の合唱音楽練習が始まった。ガシガシ練習して今週中に暗譜直前まで仕上げたんだ。でも、練習以外ではずっとボーッとしていた。僕の中ではまだ「スペース・トゥーランドット」は終わっていないんだ。
 演出家の田尾下君も同じような内容のメールを送ってきた。
「社会復帰まで、まだしばらく時間がかかります。」

 良い本番を作るんだと全力投球をし、熱い日々を重ねて、ある日それがパッタリ終わる。こんな思いを繰り返し繰り返し、この歳になってしまった。虚脱感を感ずる間もなく次のプロジェクトに入っていく方がいいんだろうな。でないと、ヘタしたら気がゆるんだ途端に病気になってしまうかも知れない。

 今頃になって暑い夏がやって来た。まあ忙しい時に暑くなくてよかったけどね。これから20日の「おにころ」に備えてラスト・スパートが始まるし、「マーラー・プロジェクト」や東京バロック・スコラーズのロ短調ミサ曲など、秋の本番の為の練習もだんだん佳境に入ってくる。ボーッ!ともしてられないんだけどね。さあ、元気出そう!

 長女の志保は、「スペース・トゥーランドット」が終わってから「おにころ」の練習に入り大あわてだ。なにせ長さが倍以上だし、僕の曲はリズムが難しくて譜読みするのに時間がかかる。来週に入るとエレクトーンとの合わせが始まるので、
「間に合わない!」
と叫んでいる。

 くにたち市民芸術小ホールの「おにころ」は、新町と違って弦楽器が入らない。エレクトーンが二台と、シンセ・パーカッション、クラリネット(次女の杏奈)、そして長女志保が弾くピアノだ。ちょうど「ナディーヌ」の時と同じ編成だ。
手前味噌だけれど、「おにころ」はまた泣ける作品なんだ。

 おにころは妖精から自分の使命を聞かされる。そして自分の中にはまだ誰も知らない大きな力が眠っていることも知らされる。大切なことは、迷うことなく自分の信じる道を進んでいく勇気を持つこと。
 それを聞いた時、おにころは「変わる」。妖精の名はメタモルフォーゼ。その曲の名前もメタモルフォーゼだ。メタモルフォーゼとは、変わること。学術的にはさなぎが蝶になるようにその姿を変化させていくことだ。

 人が成長する時には、昨日までの価値観と全く違う価値観に突然気づくことがあるものだ。すると、その人は突然今までと全然違うことを言い始める。今まで話の合っていた仲間と気が合わなくなり、別の人達をその身に引きつけるようになる。こんな経験をしたことはないだろうか?
 「変わる」ということ。それを表現することに僕はこれまで夢中になってきたのかも知れない。「スペース・トゥーランドット」でも、お客さんが一番泣いてくれたところは、氷の女王の内面に変化が起きるところだ。

 ひとはよく「言うことがコロコロ変わる人は信用ならない。」と言う。それも一理あるが、成長している人間、進化を遂げている人間は、躊躇なく昨日を捨てているのである。
人が新しいものに目覚めたならば、過去は捨ててしまっていいのだ。我々は未来に向かって生きるべきであり、そのように神から望まれてもいるのだ。だから、キリストを迫害していた張本人であるパウロが、その後のキリスト教伝道の柱となったし、罪の女と言われたマグダラのマリアもキリストによって救われた。
 キリストは決して最初から欠点のない人間を大切にしていたのではない。むしろその逆だ。キリストが望んでいるのは、人生における「ドラマ」だ。最初から10対0で勝つのよりも、むしろ9回裏での逆転勝利である。
 人は変わり得る。そして、変わった人の内面には、常に真実のドラマがあるのだ。

 妖精によって「変わった」おにころは、もう迷わない。そして自我の狭い殻に閉じこもっている村人達の前で、もっと大きな愛を示すのである。それは、自らを犠牲にしてでも人のためにつくす無償の愛。
 そのおにころの愛を目の当たりに見た村人達は衝撃を受ける。そうして自分達のエゴイスティックな生き方に疑問を持ち始め、やがてみんな真実に目覚め始めていく。

 僕は、正直言って自分がそんな立派な人間だとは思っていない。でも、おにころのような生き方が素晴らしい生き方であり、そうした無償の愛は、現世的な価値観からは決して生まれないものであることは知っている。そして、そうしたことを訴え続けることが自分の使命であることも知っているのだ。そう、この世には、現世的な価値観だけではないものによって突き動かされることがあるんだ。

 「おにころ」は1989年から1990年の春にかけて書かれ、初演は1991年5月。今から15年も前の作品だ。しかし、「おにころ」のメッセージは、今でも僕の心を強く打つ。自分の書いた作品に自分で教えられるのだ。不思議だよね。でも、あの時、僕は感じていた。 真実は、むしろ自分の所に勝手に降りてくるのだ。僕という媒体を使って。真実は、いつもこの地上にそれを伝えたがっている。しかし、地上にはそれをキャッチする人が少ない。そして、天は何故か僕を選んだのだということだ。

 愛。この言葉が今日ほど空虚に響く時代はない。イスラエルとレバノンとの争いは止む気配を見せるどころか、ますます拡大する様相を呈しているし、世界中に不信と争いが充ち満ちている。今はもしかしたら最悪の時代だ。
 でもだからこそ、僕は訴えたい!あまりにも月並みで、あまりにも恥ずかしい言葉。すなわち「愛をとりもどせ}と。それが「おにころ」のテーマであるが、たんなるきれい事ではないのだ。僕のギリギリのところでの想いなのだ。

 芸術家が、芸術以外に自分の想いを託せるものを持たないという無力感を感じながら、それでも訴えずにはいられないと思って作品を創るときの気迫を、僕の「おにころ」に感じて欲しい。それでも何も伝わらないのなら、僕はただちに語ることをやめて、深海でひとり貝になる。
「もしこの人達が黙れば、石が叫び出す。」(ルカによる福音書19章40節)

石よ、叫べ!もし、それによって世界に平和がやってくるならば・・・・。

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