I   WISH   you  a  Merry  Christmas !

クリオラ無事終了
 ドンドンドン!とティンパニーが鳴り渡る。フルートが、ついでオーボエがトリルのついた音型で答える。ティンパニーがロールに入り、トランペットが高らかに上行型の分散和音を吹き始めると、木管楽器と弦楽器は目にも止まらぬ速さの32分音符音階で一気に駆け降りる。ここまで主和音のみ。それから本来のテーマが始まる。
うっ、ダセえ!と思うが、この冒頭にはいつもワクワクさせられるなあ。

 昨日(23日、土曜日)、浜松カトリック教会の聖堂で、浜松バッハ研究会主催クリスマス・オラトリオ演奏会が開かれた。街からかなり離れたのどかな田園風景の真ん中にカトリック教会はポツンと建っている。でも聖堂の中に入ると素敵な木造のログハウス風。響きもまろやかでとても良かった。12月はやはりなんといってもクリオラだな。

 日本ではクリスマスというと、ずっと前からデパートなどがクリスマス商品で飾られ、街中からクリスマス・ソングが聞こえて来るけれど、それは25日までで、26日からはまるで何も存在しなかったように全て撤去される。これは、クリスマスというものが我が国では全く商業主義のみで捉えられている証拠。
 ヨーロッパでも、待降節に入るとクリスマス市が開かれ、街中にイルミネーションが飾られて雰囲気を先取りするところまでは同じだが、クリスマスというもの自体は、むしろ12月24日のイブ(正確に言うと12月25日真夜中のミサ)からはじまり、新年1月6日の顕現節(東方の三人の博士の礼拝の祝日)までの間の期間をさす。だからそれまでクリスマス・ツリーは飾られ続けるのだ。
 聖夜はドイツ語ではWeihnachtだが、「クリスマスおめでとう!」の挨拶がFrohe Weihnachten ! という複数で語られるのもそのためだ。おまけにその間に新年がやってくるものだから、新年の挨拶も一緒にやってしまうわけだね。

 さて、クリスマス・オラトリオだけれど、バッハの場合、1734年のクリスマスのために、例によって自分のそれまでの作品からパクリまくって(つまりパロディー)6つのカンタータを作曲した。12月25,26,27日に、それぞれ第一、第二、第三カンタータを上演し、翌1735年1月1日元旦の礼拝のために第四カンタータを上演。その年は1月2日が日曜日だったので第五カンタータを上演。そして1月6日の顕現節の礼拝の時に第六カンタータを上演した。こうして出来た6つの独立したカンタータは総称してWeihnachts Oratoriumクリスマス・オラトリオと名付けられた。
 だから本当はこの作品は25日以降に演奏されるべきなんだけど、我が国でやると、まるでお正月に「ジングルベール!」って歌っているようで、あまり歓迎される雰囲気ではない。

 キリストの降誕の様子に関しては、マタイ福音書とルカ福音書では全く記述が食い違っている。マタイ福音書で登場する東方の三人の博士達はルカ福音書では全く現れないし、ヘロデ王が差し向けた追っ手から逃れるためにエジプトに逃げた聖家族のあわただしい様子は、ルカ福音書では無縁だ。このマタイ福音書の博士達の記述は、顕現節に合わせて第五カンタータ以降使われる。それより前の曲では、すべてルカ福音書に基づいて進行する。

羊飼い
 マタイ福音書の博士達に代わってルカ福音書の降誕の場面を彩る存在は羊飼い達だ。特に第二、第三カンタータは、羊飼い達が主人公といっても差し支えない。
今回、浜松で演奏したのは、よくやられるように第三カンタータまでの上演だ。だからこの曲の準備をしている最中、羊飼い達のことに思いをはせることが多かった。

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
天使は言った。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
                ルカ福音書第二章第8−14節


 第二カンタータ冒頭のシンフォニアは、天使が現れる前ののどかな田園風景をよく表現している。8分の12拍子という3拍子系の中に付点音符で奏されるモチーフは、パストラーレというよりは、バルカローレ(舟歌)のように聞こえるが、静かに眠る幼子の揺りかごともとれる(もっとも、幼子の場合は飼い葉桶なので揺れないが・・・)。
 そんな静けさの中にいきなし天使が現れれば、普通怖がりますよ。いきなし現れないでくださいよ。まず夢に現れてアポとってからにしてくださいよ。こっちだって心構えというものがあるんだから。
 しかも、救い主が御降誕なされたことを告げた後で天の大軍だろ。これはもう、羊飼い達を驚かすためとしか言いようがないね。もし僕が天使ガブリエルだったら、こんな感じだ。

「いいかい、みんな、僕が合図するまで隠れていろよ。まず僕がひとりで行ってちょっと脅かしてから、彼等の腰が抜けるように一斉に出てくるんだ。歌う曲は例の『いと高きところの』だからね。なるべくバシッと盛大に決めてくれよ。なにせこの先数千年の間、どう聖書に書いてもらうかの瀬戸際なんだからね。」

 ということで羊飼い達は、ルカ福音書に記述してもらうためのオカズとしてまんまと使われたというわけだ。でもね、僕は思うんだけど、聖母の出現を見たベルナデッタなんかもそうだけど、神様のオカズとして使われるってもの凄いことなんだよ。その場合、社会的地位が高い人とか、一般にあがめられている人のところにはまず来ないんだな。

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」
と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨゼフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
            ルカ福音書第二章15−17節


 ここで大切なことがひとつある。忙しい人は、天使が何かを知らせても、
「ちょっとまって!この仕事を片づけてからいくからね。」
といって後回しにしがちだ。その間にチャンスは逃げてしまう。いや、神様というのはそれもお見通しで、そもそもそういう人のところには来ないのだ。
 羊飼いの素晴らしいところは、何もこだわりがないものだから、天使が、
「行きなさい!」
と言ったら、
「はい!」
と即座に行ったところだ。そして歴史に名をとどめた。まあ、名前はないんだけどね。

 考えてみると、羊飼いだって躊躇する理由はなかったわけではない。きっと彼等は羊たちを置きっぱなしで行ったと思う。それまで夜通し番をしていた大切な羊を。泥棒が来るかも知れないし、狼がいたかどうか知らないけれど、自分たちの羊にもしものことがあったら大変だ。
 でも彼等は、それでも天使の言葉を第一に考え、それに従った。立派なことを語ったわけでも、偉大なことを行ったわけでもないけれど、ただ信じて従っただけなのだ。そういう人のところに天使は現れる。

聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
            ルカ福音書第二章18−20節


 これをよく読んで僕は、「あれっ?」と思った。「聞いた者は皆」って、マリアとヨセフのことだろ。その中でマリアは、(他の人達とは別に)心に納めて思い巡らしたとしたら、あと残るのはヨセフだけか。というより、この文章を何の先入観もなしに読めば、もっと多くの人物が厩にいたような気がするでしょう。ということは、ルカ福音書では書いてはいないけれど、やはり東方の三人の博士など複数の人間がいたのかも知れない。

 それにしても、この記述の中では、聖母マリアの性格がよく表れている。慎み深く思慮深く、そして信仰深い女性だったのだろう。

 人間というものは、とどのつまり正直なものだ。こうした宗教的なものは後生どんな風にでも神格化出来るものだけれど、やっぱり元の存在がどうだったかというのは正直に伝わるものなのだ。
 聖母マリアという女性は特別な霊性を持っていた人なのだと思う。だからあれほどの聖母信仰が生まれたのだ。こうした何気ない記述の中に、そうしたことは正直に現れるものなのだ。

 浜松カトリック教会の庭には、岩山とルルドの聖母の像があった。この希有なる女性マリアの姿が、静かなアルトのアリア「わが心よ、この至福なる奇跡を心にとめよ」を振る僕の脳裏にずっと浮かび上がっていた。

 さて、年末年始は一週間更新をお休みします。次の更新は1月7日となります。みなさん良いお年を!

I WISH you a Merry Christmas and a Happy New Year !

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