こころ

 ノロウィルスで消耗した体力を取り戻そうとしていた正月明けに、テレビで「日本人が選んだ世界の天才100人」というような番組をやっていた。その中に夏目漱石の名前があった。ちょっと興味を持ったので、彼の代表作と言われる「こころ」の文庫本(新潮文庫)を買ってきて読んでみた。

親友を裏切って恋人を得たが、親友が自殺したために罪悪感に苦しみ、自らも死を選ぶ孤独な明治の知識人の内面を描いた作品。鎌倉の海岸で出会った“先生”という主人公の不思議な魅力にとりつかれた学生の目から間接的に主人公が描かれる前半と、後半の主人公の告白体との対照が効果的で、“我執”の主題を抑制された透明な文体で展開した後期三部作の終局をなす秀作である。
(裏表紙の紹介文)


 考えてみると、夏目漱石の小説を読むのは中学校以来だ。最初に読んだのは、雑誌「中一時代」の懸賞で当たった旺文社文庫の「坊っちゃん」。
 僕は、基本的に全く運の悪い人間で、じゃんけんでは必ず負けるし、試験のヤマは必ずはずれるし、パソコンの裏側にあるUSBを当てずっぽうで挿すと必ず反対側だ。パソコン雑誌やどこかのホームページから出している懸賞に、もしかしてひょっとして当たるかもと期待して申し込むと、メルアドを聞かれ、その後、「貞淑に見える人妻の昼下がりは・・・」だの「由美子です。少しも返事をくれないのね。」だの怪しいタイトルの付いた大量のジャンク・メールが舞い込むばかりで、肝心の懸賞には一度も当たったことがない。(畜生!今や毎日多いときは20通くらいくるぜ!)
 そんな不運な自分の元へ珍しく当選して届いたのが「坊っちゃん」の本だった!(応募した者全員に当たったという話もある)だから今でも鮮烈に覚えているのだ。でも本の内容はというと、全く覚えていない。
 その後「吾輩は猫である」を読んだが、これも当時の自分にはあまりピンとこなかったのは確かだ。って、いうか、あの頃の自分って一体何が分かっていたのだろうか。とりあえず名作といわれるものは読んでみてはいたのだけどね。

なつめそうせき〜ぼっちゃん〜くさまくら
かわばたやすなり〜いずのおどりこ〜ゆきぐに
しまざきとうそん〜はかい〜よあけまえ


という社会科の丸暗記とあまり変わらない。

 こうした名作に対しては、「いつか読まなければ」という弱い強迫観念だけ引きずって歳を取り、今日に至っている。でもたまに気が向いて名作を読んでみると、かつて読んだものであっても必ずその作品と「初めての出遭い」をするのだ。 全く、何読んでたんだか。

 「こころ」は真面目な作品だ。夏目漱石も真面目な作家だ。そして特に僕が好感を持ったのは、彼が必死で自己の内面にうごめくものを見つめ、これと対峙しようとしている姿勢だ。特に日本の作家に希薄な罪の意識の問題に触れているのは貴重だ。勿論トルストイやドストエフスキーなどのように、彼等を根底から支える強烈な宗教の支配力があるわけではないから、罪の意識だけに限って言えば切り込みは甘いともいえる。

 現に、この主人公の持つ罪の意識も、本来の罪の意識の深淵にまで踏み込んでいるというよりは、自分の生き方に罪があることに気付いて、それを恐れ、その時点で思考を停止してしまっているように思える。
 友人のKが自殺したのは、自分がKを裏切って恋人に結婚を申し込んだせいだというのが事実だったとしても、では裏切らなかったらKは恋人を手に入れたのかというと、それは恋人の意志に関わる別問題であろう。しかもその恋人を妻にしてもなお、ずっと妻に自分の苦悩を隠し続け、たった一人でその問題を引き受け、悩んだ末に自殺するのは本人の勝手かも知れないが、それでは一体妻の気持ちはどうなるというのだろう?

 裏表紙の解説で使われている“我執”という表現はまことに的を射ている。主人公の苦悩は宗教的に言うと、自己の“我”の中でどうどうめぐりしている出口のない苦悩でしかない。妻に対する思いやりに至らないという意味でも、徹底的にエゴイスティックな苦悩なのだ。こうした我執あるいは自分自身で作り出す孤独というものが知識人に多いわけは、頭のいい人ほど完璧主義者だからだろうな。

 完璧主義者と言って思い出すのは、東大アカデミカ・コールのある団員だ。練習後の“反省会”と呼ばれる飲み会でのこと。ひとりの団員が僕に話しかけてきた。
「先生。先生が作られた東京バロック・スコラーズという合唱団にとても興味があるんですよ。レベルの高い合唱団に入ってみたい気がするんですが、オーディションがあるんでしょう。これに自分は落ちたくないんです。」
「上手に歌えば入りますよ。」
「わたしを落とさないでくださいよ。わたしね、生まれてから試験というもので落ちたことないんですよ。それでここまで生きてきたんですが、こんな人生の最後で落ちたら自分の人生に唯一の汚点を残すじゃないですか。」
「挫折のない人生というものですね。さすが東大出だね。言うことが違うね。」
すると他の団員達が茶化しながら、
「お前、そんなこと先生に言うもんじゃない。俺なんか挫折ばっかりの人生だ。何度でも失敗して何度でもはい上がればいいのさ。」
と言った。僕も笑いながら、
「まあ、残念ながら受けてもいないのに合格しますって言うズルは出来ませんなあ。思い切って受けてみればどうですか?」
「いやあ・・・、ちょっとやめときます。」
「・・・・。」
僕は彼のことをとても気の毒に思った。やっぱり落ちた時に、
「てへへ、落ちちゃった!」
という風にはなれないのだろうなと思うとなんだか可愛くも思えてきた。

 だが「こころ」では可愛いなどと呑気なことも言っていられない。主人公もその友人Kももっと真剣で命がかかっている。彼等は自分の強い意志でこれまで自分を律して学問でも私生活の上でも完璧に生きてきた。それが恋愛という、不可抗力とも言える自己の努力ではどうにもならない感情の嵐に飲み込まれ、吹き飛ばされ、完璧主義者の自尊心が徹底的に傷ついてしまったのだ。つまりエリートの挫折だ。漱石はそこに近代人の精神の脆さを感じ、これを表現したわけである。

 そうしたネガティブな精神を描いていながら、漱石の文学には川端康成の脆弱さや太宰治の退廃はないのが不思議だ。それが逆に漱石の文学が今日まで光を放ち続けている理由であろう。
 人間を赤裸々に描くのが近代文学であると信じて日本の文壇は動いてきたが、カミュの「異邦人」に通じる太宰治の「人間失格」などでは、赤裸々に描いた人間の魂の向こう側に虚無以外の何ものをも見ることが出来ず、やりきれない想いばかりが残る。それに比べると夏目漱石の文学には、なにか向こう側に光が見える。それが漱石の善良さであり人間への揺るぎない信頼なのかも知れない。

「いもたこなんきん」を見ながら思うこと
 以前にも書いたが、ちょうど朝食の時間に当たっていることもあって、NHK朝の連続ドラマを見ている。現在放映されているのは「いもたこなんきん」。田辺聖子とその連れ合い「かもかのおっちゃん」がモデルになったストーリーで、主人公は通常の朝ドラではかなり異例な熟年の藤山直美。

 今ちょっと面白くなっている。時は大阪万博の頃。すなわち1970年くらい。70年安保やベトナム戦争反対のデモなどで学生運動が盛んだった時期だ。ドラマの中では、高校生になった長女の由利子がフォーク集会に行ったりして親を心配させている。
 僕もその頃ちょうど高校生だったのでとてもなつかしい。僕が高崎高校の学生だった時、同じクラスにも三里塚にデモに行き、捕まって停学や留年、あるいは退学になった者達がいた。彼等のことを、
「馬鹿だなあ!」
と言っていた奴もいたが、僕達の大部分はむしろ、
「やるなあ。カッコ良いなあ。でも自分たちには出来ないや。」
と、羨望とも尊敬ともいえる眼差しを彼等に向けていたのだ。
 番組では、「禁じられた恋」など当時流行っていた歌謡曲や、We shall over comeなどのフォークソングといったあの頃の空気を思い出させるものが次から次へと出てくるので、それらを聞いてるだけでもなつかしくて、なんだか胸キュンとなってしまう。

 そこでふと考えた。親の立場から見れば、確かに自分の子供が学生運動などを一生懸命やり出したらとても心配だろうが、最近学生達はおとなしくなってしまったなあ、と・・・・。
 湾岸戦争が起ころうが、9.11の後アメリカがアフガニスタンに侵攻しようが、イラク戦争が勃発しようが、大量破壊兵器が見つからなかろうが、フセインが処刑されようが、今の学生には全く関係ないのかね。なんとなく寂しい気がするのは僕だけかな?
 
 テレビを見ていても、僕には長女の由利子の言っていることは間違ってはいないと思えるのだ。あの頃の学生達は純粋だった。自分のことではなく、世の中のことを考え、みんなが住む世界をよりよい世界にするべく無私の気持ちで活動していた。その趣旨は美しいと思うし、もし今の学生達がそうしたことへの興味を全く失ってしまって、ただ自分の利益と便利さと快楽のみを追求する毎日を送っているとすれば実に寂しい限りだ。

 学生運動がなくなったのは、社会主義、共産主義の国が行き詰まり、崩壊して、それらのイデオロギーにみんなが失望したせいだという学者もいる。でも社会の不正に立ち向っていたのが共産主義だけだったとしたら、これも悲しいね。僕達は、本当はイデオロギーになんかに振り回されないで、常に澄んだ目で中立的に世の中を見て、何が正しくて何が問題なのか気をつけていなければならない。それが社会に生きる僕達の義務だと思う。

 最近、おかしな事件ばかり続いて、若者達の犯行が目立つのも気になる。「今の若い者が」と年寄りじみて言う気もないけれど、彼等を見ていると昔よりもずっと視野が狭くなって、短気かつエゴイスティックになってキレ易くなっていることは間違いない。

わたしが来たのは(人に)仕えられるためではなく、むしろ仕えるためである。
                                                                                (キリストの言葉)


 僕は、学生達がやることがなくって退屈していたり、人生の目標が見つからなくて悩んでいたりするのだったら、むしろ海外ボランティアとかに行くのがいいと思う。自分の利益以外のことに目を向けて活動する人間は美しい。そうした価値観に気がついたら人生観変わるんだけどな。あるいは勉強して資格とって「国境なき医師団」とかそういうものに加わる生き方も素晴らしいと思う。僕は、この活動にはとても賛同していて、ささやかだけど資金援助だけはしているんだよ。

 芸大に教えに行っていた時、最も優れた音楽学生達の集まるこの学校では、他の学校に比べてとても上昇志向が強い学生が多かったが、それではそうやって上り詰めて、さて一体どういう音楽を人に提供して、何を聴衆に与えたいのか、あるいはそもそもどのような音楽家になりたいのかと問うた時、それに答えられるようなものを自己の内面に持っている学生の少なさに驚いた。
 コンクールに入賞して人から賞賛を受けるだけが音楽家の人生ではない。その向こう側まで考えておかないと、やがて人々に忘れ去られる音楽家となってしまう。与えるもの、語るものを持っていない芸術家は空しい。音楽家も、その本質は他人とかけがえのない関わりを持つことであり、いわば精神的な意味でのボランティアなのだから。

 人は、最も偉大なところに上り詰めようとするならば、むしろ人に何を与えられるかを自らに問わなければならない。最も高みに上り詰めたいならば、むしろ最も自らを低くしなければならない。こんな大切なことを、今の若者はきっと誰からも教わってこなかったのかも知れない。それは人間として最大の悲劇であり、その責任は僕達親の世代にある。

 朝から「いもたこなんきん」を見ながら、僕はいろんなことを考える。それからタンタンを連れて散歩に出て、まだあちこちに自然の残る谷保村を歩き回りながら深呼吸をし、青空の下で人間のちっぽけさを感じ、天上の世界に思いをはせる。
それにしても、神様は気長だなあ。こんな愚かな人間の存続を未だに許しているのだから。

今週末
 今週の中頃に娘達が帰ってくる。28日には次女杏奈の演奏会。長女の志保が伴奏する。皆様のお陰でチケットがよく売れました。ノルマの40枚を売り切って追加注文したら、気を良くした主催者の方から、
「ソロ・リサイタルしませんか?マネージメントしますよ。」
という手紙がチケットと一緒に入ってきた。まあ、こういう演奏会では、ノルマ分だってさばけずに、みんなにばらまいて自分で料金をかぶるのが普通だろう。追加注文する人なんて相当珍しいようだ。親馬鹿で押し売りして済みません。それに見合う演奏を彼女たちがやってくれるといいんだけどね。

 演奏会の後は久し振りのオフ会だ。オフ会でもサービスで二人は演奏するんだ。でも、残念ながらもう定員に達してしまったので申し込みは閉め切ってます。
 
 僕が娘達に望むことはたったひとつ。彼女たちにも、内面から何かを語れる演奏家になって欲しいということだ。有名にならなくても、お金がいっぱいもらえる音楽家にならなくても(ちっとはもらえて自分で生活できる音楽家にはなってくれると助かるけれど・・・)、
「あの人の演奏には何かがある。」
と言われるような音楽を紡ぎ出して欲しい。それだけが親として娘達に望むことだ。

まあ、これが一番難しいことなんだけど・・・・。

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