新時代の幕を開けたコンビ、ここに再び

 ノヴォラツスキー芸術監督の任期も残り少なくなってきた。思い返してみると、2003年の芸術監督第一弾作品、すなわち演出家アンドレアス・ホモキと指揮者ウルフ・シルマーのコンビによる「フィガロの結婚」は衝撃的だったなあ。真っ白い壁に囲まれた舞台の中で、生き生きと動き回る登場人物達!シルマーの快適なテンポ感!まさに新時代の幕開けという感じだった。
 それが4年目にして「西部の娘」で同じコンビが実現した。ホモキは当時も凄かったけど、今こうしてあらためて接してみると、本当にこれこそ超一流の演出家だと確信する。

オペラの本当の面白さ
 良い歌手が出てきて高音を素晴らしく伸ばしてアリアを歌い、ブラボーのかけ声と共に喝采を浴びる。勿論これもオペラの楽しみの一つだけど、それだけをオペラだと思っている人は本当の楽しみ方を知らない人だ。なにより、関わっている僕達自身が創造的でなくつまらないのだ。 
 オペラとは、音楽とドラマとが分かち難く融合し、互いの境界線を越え合い、音楽だけでも芝居だけでも表現出来ないものを一体となって表現する総合芸術だ。そこで必要とされるものは、音楽的な芝居の出来る歌手達と彼等をまとめる演出家。それからドラマを深いところで理解出来る指揮者である。ホモキとシルマーは、まさにそうした創造的オペラに最も適した人材だ。

ホモキの練習〜真の演技を目指して
 ホモキの練習の進め方は、緊張感に富み少しの無駄もない。彼は歌手達の芝居の中にある“わざとらしさ”や“嘘”を決して見逃さず、彼等の演技がまさに演技を超えた演技にまで到達するまで容赦せずに追求する。

「なんだ、その手は!」
と合唱団員もよく怒られる。演技をするというと手を使ったり体を動かしたりして表現すると思っていた団員達には良い薬だ。大抵の演出家はその程度で、
「素晴らしい!こんなに動けるとは!」
なんて驚いてくれるのだが、ホモキの目はごまかせないのだ。
 
 演技とは、心の動きでするものであり、目でするものであり、それに体の動きが伴うものなのだ。相手がこういう言葉を発したら、それを聞いた本人は一体何を感じるのだろうか、といった内面をどんどん掘り下げていくと、次の行動へのモチベーションが見えてくる。そのモチベーションから全てが始まるものでなければいけない。時にはそのモチベーションが音楽からくる。そこがただの演劇と違うところなんだ。
 そうやってアプローチするならば、「フィガロの結婚」のモーツァルトの音楽もそうだったけれど、プッチーニの音楽も実にドラマを雄弁に物語っているのが分かる。
 ホモキは一ページ進むのに一時間もかけるのを厭わない。彼の頭の中には音楽もテキストも完璧に入っていて、どの言葉がどのように相手に向かって発せられなければならないか、それを音楽がどのように彩っているか全て理解している。もの凄い才能だ。そして歌手達に、主人公達の内面の動きが舞台にはっきり“見えるものとして”あらわれ、音楽と一体となるまで徹底的に何度でも何度でも繰り返して練習をつける。決して妥協しないしあきらめない。

シルマーのサポート
 シルマーは、そんなホモキの練習にずっと付き合っていて、ホモキの要求をどうやったら音楽的に解決出来るかを探っている。そして最もふさわしいテンポ感や、最も自然なテンポ・ルバートを探し出す。時にはホモキがフェルマータの間で何かさせたい時、
「フェルマータの間はまずいな。その前か後にしてくれる?」
と言っていろいろ試した結果、やっぱり最初のホモキの言う通りにするのが最善だと気づいて、そうしようと決断することもある。でも、その間に費やされた時間は決して無駄ではない。そうやって試行錯誤して決めていく過程がとても楽しいクリエイティブな時間なのだ。だから練習はとても楽しい。僕は、こういうことをしたいから、オペラの世界に身を投じているのだと今更ながら気がついた。

プッチーニとエキゾチシズム
 プッチーニはエキゾチック・オペラの名人だ。「蝶々夫人」の日本や「トゥーランドット」の中国は、ヨーロッパ人にとってはあこがれの未知の土地。彼は、そうした異国情緒を巧みに織り込んで作品を創り上げていくが、彼の偉大なところは、それが単なるエキゾチシズムだけに終わらず、それぞれの国や民族の真実の姿を描き出したところにある。
 
 「蝶々夫人」では、現在の日本人には忘れられてしまっている「恥の文化」が表現されている。蝶々さんの自害直前の言葉、
「誇りを持って生き遂げられない者は、誇りを持って死ぬ」
は、蝶々さんの純粋さの象徴であり、彼女の生き方そのものが、軽薄なアメリカ文化に対する勝利の凱歌となっているのだ。

 このように、「蝶々夫人」で半ば揶揄的、批判的に描かれたアメリカ文化に、プッチーニは次の「西部の娘」で真っ向から向かい合う。彼がエキゾチシズムの向こう側に描こうとしたアメリカの真実とは何か?それは“移民の孤独”だ。

アメリカと移民
 ご存じの通り、アメリカという国は特異な歴史を持つ。この地におけるネイティブはインディアンだけで、あとは全て移民によって成り立っているのだ。つまり人種のるつぼだ。 ヨーロッパにおけるつつましい市民生活を捨てて、わざわざ新天地に出向いていく人達には、それぞれの事情があっただろう。ある者は成功への欲求や好奇心が特別強かったかも知れない。ある者は故郷では受け入れられない性格であったかも知れない。またある者は貧困から逃れようとして、ある者は追われる者として・・・・。
 保守的な社会ではアウトサイダーだった者でも、アメリカに来れば誰でも“アメリカ人”として迎えられ、過去を忘れて新しい生活に入ることが出来る。こうした人達の末裔が、今日においても他の国民と比べて際立ってユニークな国民性を持っていても不思議はない。
 たとえば“世界の警察”としてあちらこちらの紛争におせっかいに手を出していこうとする性向も、世界中にそれぞれのアメリカ人のルーツがいるからではないか。単一民族の国民は、通常他の民族の動向にはあまり興味を示さないものだ。それが自分たちの国を実際に脅かしてくる場合を除いては・・・。

黄金狂時代 
 「西部の娘」が作られた頃のアメリカは、この国の歴史の中でも特に際立った時代だ。すなわち、カリフォルニアに金が出て、一攫千金を夢見た人達がどっと西部に押し寄せたのだ。チャップリンの「黄金狂時代」でも有名なゴールド・ラッシュの時代だ。
 この時代の特徴は、特に貧しい階層の人達が故郷に家族を残したままたった一人で出稼ぎ労働者としてやって来たことだ。ところが期待したほどには儲からない。採鉱夫として働いても、自分が採鉱した金を自由に使えるわけではなしに、当然のように資本家が搾取してしまう。濡れ手に粟で帰るつもりで来たのに、いつまでたっても帰れない。その間に遠い故郷では家族の間に様々な変化が起こっている。自分の可愛がっていた犬でさえ、主人の自分のことをもうとっくに忘れてしまっているだろう。そう思うと郷愁の想いがつのる。そんな人々の孤独の姿が、このオペラでは描かれている。

移民の孤独の今日的意味
 ホモキは言う。

移民の孤独は、昔だったらアメリカ西部独特の現象だったが、現代ではむしろそれはワールド・ワイドに広がっている。だからもっとコスモポリタンな問題としてこの問題を捉えないといけない。「西部の娘」をオリジナルのように演出することも当然出来るが、それでは聴衆の関心が単に“西部劇”の方に行ってしまい、このテーマの焦点がぼけてしまう。だから今回は西部を強調することは意図的にやらない。
ロケーションは架空の場所。登場人物は世界中から集まってきた人達だ。バラライカを持つロシア人もいれば日本人も中国人もいる。コカコーラの缶を持つアメリカ人の隣にコーランを持つイラク人がいる。幕が開くと、それぞれの国の衣裳を着た人達が、スーパー・マーケットの手押し車の中に、それぞれ自分の国のアイテムを乗せて物思いに沈んでいる。みんなバラバラな方向を向いて、それぞれの孤独を噛み締めている。物語はそんな状況から始まるのだ。


 「西部の娘」は、これから三週間後の4月15日(日曜日)の初日をめざして、この黄金のコンビによって熱い練習が繰り広げられていくであろう。きっと素晴らしい舞台が出来上がるよ。また経過報告します。

ふうーっ!忙しかった
 「さまよえるオランダ人」「運命の力」「蝶々夫人」がグチャグチャに絡み合ってもの凄く忙しかった真っ直中に「西部の娘」のプロダクションが始まって、一時はどうなることかと思った。何人かの団員が過労や過労からくる風邪やインフルエンザに倒れた。僕もずっと過労気味の日々が続いた。
 でも、そうこうしている内に「さまよえるオランダ人」が終わり、今日24日(土曜日)には「運命の力」が千秋楽を迎えた。「蝶々夫人」公演は3月31日まで続くが、この合唱はそんなに量は多くないので、やっと身辺が落ち着いてきた感じ。

多忙のさなかスコアと向かい合う
 それと平行して、4月13日(金曜日)に京都で京都ヴェルディ協会主催の講演会があるので、それの資料集めに取りかかっている。今回の議題は「アイーダに見る世俗性と芸術性」だ。なかなか面白い講演になりそうだ。
 名古屋のモーツァルト200合唱団の演奏会のための勉強は、一通り曲を巡って一休みに入ったところ。これから三枝成彰作曲「天涯」と「レクィエム」のスコアの勉強にかかる。 ミサ・ロンガは、暗譜第一段階、すなわちうろ覚え状態で材料の“寝かし”に入った。グローリアとクレードのそれぞれの結尾のフーガが面白くで、これだけはきちんと暗譜して頭の中で響かせては遊んでいる。
 二、三日前に、演奏会プログラム用原稿をフーガ主題の譜例付きで送った。今回は原稿の半分くらいがミサ・ロンガのフーガのアナリーゼなので、今頃主催者は困っているだろう。長くなっちゃったからね。いつものように。

 ヴァイオリン協奏曲は、僕がピアノを弾いて東京在住のソリストと合わせをしないといけないので、久しぶりにピアノをさらっている。同時にモナコの演奏会のためにも、横山幸雄さんや中丸三千繪さんとも合わせることになっているので、恥ずかしくないように音階練習やハノンから練習を始めている。学生時代みたいだね。なにせ、しばらく真面目にピアノを弾いていなかったので、まるで他人の手だ。というより“手”と言うのをやめて、タンタンのように“前足”って言った方がふさわしい感じだよ。あははははは!

・・・・・笑っている場合じゃねえ。

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