「西部の娘」経過報告〜ミニーは白雪姫?

 第三幕後半。盗賊団の首領ジョンソンが捕らえられ、採鉱夫達は一斉に、
「縛り首だ!」
と叫ぶ。この場面の興奮した群衆が作り出す異常な高揚感は比類がない。

 ジョンソンは、
「死ぬことはいとわないが、ひとつだけお願いがある。」
と言って有名なアリアを歌い出す。
「僕が死んだことは愛するミニーに伝えないでくれ。どこか遠くの地で、新しくやりなおしていると言ってくれ。」

 ミニーに横恋慕していた保安官のランスがこらえきれずジョンソンに向かって走り込み、
「厚かましいにもほどがある!」
と言って彼に平手打ちをくらわす。
みんなは非難する。ジョンソンをではなく保安官ランスに対して。

 勿論、自分たちのアイドルであるミニーの心を捕らえたジョンソンは、採鉱夫達にとってけしからぬ奴だ。でもみんなは、これまで自分たちの誰にも心を動かされなかったミニーが、ただ彼だけを「かけがえのない」相手として選んだことを知っている。そのジョンソンがアリアで、彼もまたミニーに対して真剣な想いを抱いていることを打ち明けたのだ。採鉱夫達は心を動かされる。
 しかし彼は罪人である。刑は執行されなければならない。ランスの指示で処刑が準備される。と、その時、向こうからミニーの叫び声が聞こえる。

難しい終幕
 「西部の娘」の幕切れは、なかなかドラマ的に厳しいものがある。こんな緊張感のある場面が展開するのに、その後主人公が死ぬわけでなく、いわゆるハッピーエンドで終わる。ジョンソンが「縛り首」の罪を逃れてミニーと共に旅立っていくまでの過程を描き切るのは、はっきり言って困難である。でも、ここを失敗すると、このオペラ全体のドラマは焦点がぼやけ、なんの説得力も持たないものになってしまう。まさにその点こそが、この作品を「トスカ」や「蝶々夫人」のように有名にしていない原因なのである。

 一方、この作品を書いた時、プッチーニは作曲家としてまさに円熟の極みにあり、主人公達のほんのささいな心のゆらぎや、二律背反の気持ち、とまどいまでを見事にスコアに滑り込ませている。すなわち、プッチーニはもはやオペラ作曲家としては比類の境地に到達している。その土台の上に立って、彼はあえてこの困難なドラマ展開に挑戦しているのだ。
 だからスコアをよく読み、その音楽の持つ意味を丁寧に解きほぐしていくならば、必ずや説得力のある幕切れは作れるはずなのである。ただしそのためには、演出家は類い希なドラマティカーであるとともに卓越した音楽家でなければならない。

ミニーとやさしい仲間達
 ミニーは、採鉱夫達ひとりひとりにジョンソンの命乞いを始める。もともとミニーに惚れていて彼女に特別やさしいソノーラにはじまり、ジョーやハリー、トゥリン、ハッピー、ベッロなどに向かって次々と、
「あなたがこうだった時にあたしはこうしてあげたじゃない。だから彼を助けてよ。」
と言って一生懸命説得しようと試みる。ソノーラはいち早く、
「なあ、みんな、許してやろうぜ!」
と呼びかけるが、他の連中は事態が事態だけにそう簡単には、
「うん、いいよ!」
とはならない。

 この場面を作っている時、演出家のホモキがいきなりディズニーのハイホーのメロディーを歌い始めた。僕達はピンときた。つまり、紅一点のミニーをとりまくいかつい採鉱夫達の集団が、ホモキには白雪姫と七人のこびと達に見えたんだな。
 ホモキはその瞬間、言葉では言わなかったが、一同に対して、各々がまるで白雪姫を愛するこびと達のように、ミニーを深く愛していなければならないんだと訴えていたのだ。そうでなければジョンソンの処刑を断念する彼等のモチベーションを築くことが出来ないのだ。

 こんな風に、優れた芸術家は論理でものを語らない。僕は今あえて皆さんの為にこうして言葉で語っているけど、本来説明を加えるのは野暮だし、説明されて初めて分かるようではプロとしては失格だ。演出家が突然インスピレーションで捕らえたものを、驚くことなしに、インスピレーションのキャッチボールをしてふくらませていかなければならない。それにしても、こんなクリエイティブな現場はそういつもあるわけではないことは申し添えておかなければならないね。

 彼等採鉱夫達は、国を遠く離れた出稼ぎ人としての孤独な生活の中に、ミニーという唯一の希望の華を見出し、彼女を心の拠り所として過ごしてきた。だからこそミニーを自分たちの集団から失いたくないのだが、同時にだからこそ、ミニーが今しあわせをつかみかけている時に、それを邪魔するべきではないとも感じている。
 それぞれがミニーから自分が得たものやミニーと過ごした時間の貴さを想い葛藤している。その葛藤が強ければ強いほど、その後で彼等が出す結論、つまり・・・・ジョンソンとミニーを一緒にさせてあげようという最終決心が光ってくるのだ。
 
 滅多にないことだが、僕は第三幕後半の通し練習で、感動してこみ上げてくる涙と秘かに戦った。ひとりひとりの採鉱夫達の真実の姿が胸を打ったのだ。みんなみんないい奴なんだと思ったら、ウッときてしまった。多分誰も気付かなかったと思うけど。

 プッチーニは、その前の作品「蝶々夫人」で、アメリカ人の軽薄さと裏切りを描いた。でも、ここに表現されたアメリカ人達(本当は純粋アメリカ人ではないが、逆にそういう人達こそがアメリカ人と呼ばれているんだ)は、とっても素敵な人達なんだ。「蝶々夫人」でシビアに描き過ぎたことへの罪滅ぼしの気持ちも入っているのかな?

 そうして罪を許されたジョンソンは、ミニーと連れだってこの地を離れていく。採鉱夫達は、自分の買い物カゴを取り、それぞれの国のアイテムと共に各々物思いにふける。すなわち、このオペラの冒頭と全く同じだ。ミニーを失った分だけ、彼等の孤独はもっと深くなっている。そして静かに幕が降りる。

 うーん!ホモキったら、やるなあ!お陰でここのところずっとこの作品に惹きつけられっぱなしだよ。まだ初日まで半月もあるんだけどね、この密度の高いドラマがどこまで煮詰まっていくのか興味は尽きない。

あっけなく桜咲く!
 今年は、桜の花がだんだん開花していくのを楽しみに眺めて・・・なんていう余裕もないまま、あれよあれよというまに満開になられてしまった。なんでだろう?自分が忙しかったこともあるけれど、不順な天候が続いて、暖かいと思うと風が異常に強かったり、急にまた寒くなったり、雨が降ったりで、落ち着く暇がなかった。その間を見計らって、桜たちは一斉にまるでクーデターの準備か夜逃げのように咲きやがった。
 
 28日の水曜日。仕事は夜の「蝶々夫人」公演だけだったので、午後一番で国立駅前の美容院FEELにカットに行った。気温は高かったが風が強かった。美容院に入る前に眺めた駅前の桜の花が、カットを終えて出てきた時に、はっきりそれと分かるほどさらに開いているのに驚いた。その後僕は中央線のガードを越えて北口に廻り、国立楽器の音楽の森に行って楽譜を見たりして戻って来てみたら、またまた木が白っぽくなっていた。すなわち開花がさらに進んでいたのだ。
 一日の内に、いや、わずか1,2時間の内に、桜の開花は目に見える形で進むのだ。その時に思ったね。植物とは緩慢な動物なんだってね。勿論、根も張っているのでどこでも歩いていくわけではないし、枝もその形をどんどん変えるわけではないが、フィルムを早回ししてみるならば、ある限られた部分の動きは、まるで動物の動きと一緒だ。
 しかも、しかもだよ、脳みそもないのに一体誰がどのように判断してこのような動きをうながすのだ。
「いや、彼等はプログラミングされた通りに動くのだ!」
とか、
「DNAの指令だ。」
と言うのは簡単だよ。では、それをプログラミングしたのは誰なのだ。
 さらに、桜は開花することで快感を味わっているのか?つまり、何らかの主体が、彼等を取り巻く環境に対し、快、不快の感覚を享受しているのか?考えれば考えるほど夜も眠れなくなる、というのは嘘だけど、生物の世界は不可思議だなあ。

 んなこと言っているうちに今年の桜もピークを過ぎていく。
気がついてみたらもう四月に入ったんだね。
次の更新の頃は道路をピンク色に染めて秋でもないのにハラハラと散っているか、それも終わってすっかり葉桜になっているのか。

いずれにしても、なんとはかないものよ。桜も、僕達の人生も・・・。

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