銃の闊歩する社会

 「西部の娘」でも、拳銃がアメリカという社会を象徴するアイテムとして使われている。ヒロインであるミニーの登場直前、ミニーに惚れている保安官ランスが、やはりミニーのことを想っているソノーラと喧嘩になり、ソノーラは保安官の持っている拳銃を奪おうとしてもみ合いになる。
 バーン!ピストルが天井に向かって撃たれる。その瞬間、ヒロインの登場だ。
「何やってんの、あんた達!」
いきなりみんなをののしるミニー。これがアメリカ女性というものか。桜の花のような幻想的な女声合唱に囲まれた蝶々夫人の登場とは大違いだ。

 アメリカが銃社会と呼ばれるのも、この西部開拓時代の影響が大きい。アメリカは先住民であるインディアンにこれまで決して謝罪していないけれど、インディアンの側から見たら明らかに侵略国家だ。まあ、国家という単位でそれをしたわけではないんだが、少なくとも侵略に対し一人一人が罪の意識を持っていた形跡はない。
 その代わり、アメリカに来るのがそんな人達ばかりなので、ヨーロッパの既成の国にはないある種のアナーキーな状態が、この国をずっと支配していた。彼等は広大な土地に勝手に入り込んできてインディアンを追い出し、家を建てて街を作った。彼等はどこでも好きな場所に好きなだけ大きな家を建てられた。ということは、逆を言えば、どんな自分勝手な奴が自分の隣に引っ越してくるか分からないし、自分の家にいつどんなならず者が突然侵入してこないとも限らない。あるいはインディアンが逆襲してくるかも知れない。
 そんな危険がいつも彼等につきまとっていたんだ。そしていざ何かが起こっても誰も守ってくれない。保安官だってあてにならない。自分の身は自分で守る以外にはない。だから彼等はそれぞれ銃を持ったんだ。

 しかし護身用の銃は、持ってしまったら今度はいつでも攻撃用になり得る。拳銃というものは、純粋に人を殺すためにのみ作られた道具である。キジや鹿ではない。人間が人間を殺すだけの道具なのだ。恐ろしい道具である。
 この道具を使って、昨今も米国ではバージニア工科大学銃乱射事件やNASAでの発砲事件など、悲惨な事件が頻発している。我が国でも、まるで申し合わせたように現職の長崎市長が暗殺されたり、町田でも事件が起こっている。なんという事だ。あまりの悲しさに僕は言葉を失っている。

 人はこうした暴力行為を民主主義に対する脅威だという。だが民主主義を我が国にもたらしてくれたアメリカ社会は今日でも銃社会をやめない。敬虔なキリスト教徒とも言われるブッシュ大統領が自ら銃社会を支持している。

 僕には、どう考えてもこれはどうどう巡りだと思えてならない。ならず者を恐れている故に武器を持つことで、逆に新たなならず者を無限に作り出してはいまいか?

 アメリカという現象は、世界の中でかなり特異な現象である。先進国で、このようにみんなが銃を持っている国なんてないのだ。野蛮だと思わないのかなあ。それで本当に文化国家だと思っているのかなあ。
 それにしても日本も最近は一体どうなっちゃったんだろう。世界一の治安国家だと思っていたのに、危なくて街も歩けないや。

お客様は神様です!
 プリンタが壊れた。エラー・マークが出ているので、プリンタについているディスプレイを読んでみると「ハイインクガイッパイニナリマス」と出ている。 「はい?・・・ハイ・・・インク?」なんのこっちゃと思って調べてみたら、どうやらヘッド・クリーニングなどで取り去ったインクを溜めておくタンクが「廃インク吸収体」と呼ばれていて、そこが一杯になったようなのだ。
 で、どうやって取り替えるのかなとさらに調べてみたら、なんとこれは自分では取り替えられなくて修理に出さなければいけないとのこと。大変じゃないか!

 プリンタというのは、使わない時は全然使わないが、いざ必要になった時にないととても不便なのだ。修理になんて出して何日もなかったら、その間にどんな緊急な事態が起ころうとも限らない。

 ファイルは、プリンタで印刷されて初めて実体を持つものだ。パソコンの中に入っているだけのファイルというのは便利なようでいて、パソコンを起動しないと何の役にも立たない。たったひとつの手違いで跡形もなく消えてしまったりもするしね。
 そういう意味では、存在はしていてもまるで実在感のないたましいかイデアのようだ。プリンタはね、それらのイデアをこの地上にIncarnation (肉化)させてあげる機械。

 ちょうどあれだよ、モーツァルトが、
「音楽はまだ出来上がっていないのかい?」
と催促されて、
「曲はね、ここにあるんだ。」
と頭を指さして答えても、実際にそこに紙に書いた楽譜がないと出来上がっていることにならないのと一緒だ。さらに、それを見ながら演奏家が演奏して初めて音楽はこの世に生を得るのだ。プリンタは、実際にこの世の中で美しい音楽を響かせる演奏家だともいえる。
 話ははずれるが、僕も最近あったなあ、
「三澤さん、もういい加減にしてくださいよ。原稿全部出揃って完全に三澤さん待ちだからね。」
と言われて、
「ごめん。もう頭の中では完全に出来ているんだけど、書く時間だけがないんだ。」
と、見え透いたいいわけをしたなあ。本当はあの時まだなんにも考えていなかった。
 という具合で、要するに何が言いたいかというと、何だっけ?あ、そうそう、プリンタがないと一日も生きられないって話。

 幸い今回のケースは、リセット・ボタンを押して騙し騙し使えば少しは持つとのこと。そうやって使いながら、僕は早速京王新線新宿駅から一番近いヨドバシ・カメラ修理センターに行って修理の様子を尋ねた。
「お客様の場合、保証期間が過ぎていますので、一万円以下ということはないですね。それに一週間から十日かかります。」
 聞いていて気が遠くなってきた。その瞬間、僕は新品のプリンタを買って即使うことを考えた。だって、十日も家にプリンタがない状態が続いて、さらに一万円も取られることを考えたら、あと一万円出せば、今使っているものよりもずっと性能が良いものが即買えるんだ。またしても僕は資本主義の餌食になりかけていた。
 でもね。その時ひとつだけ引っかかったことがあった。それは、最近インクを一セット予備用に買ったばかりなんだ。新品を買ったらそれらが全部無駄になってしまう。決して安くないあのインク達が・・・・。それに、残ったこれまでのプリンタも粗大ゴミになってしまい、引き取ってもらうにもお金がかかるし・・・・。

 僕は半ば放心状態でふらりと店を出て、新宿西口界隈を歩き始めた。行く先は、ポイントがもっと残っているビック・カメラだ。そこで新しいプリンタを物色し始めたが、ふとまた同じ事を言われるだろうなと思いながらも、修理の事をビック・カメラのお兄さんに聞いた。
 すると彼はヨドバシのお兄さんとは全然別の事を言い始めた。
「キャノンにインターネット経由で直接申し込むと安いし速いですよ。調べてあげましょうか。」
と言って、彼はそばにあったパソコンからキャノンのホームページを立ち上げ、サポートの項目から修理のところに入っていった。
 
 それによると、廃インク吸収体を取り替えるだけだったら三千円台で出来ること。宅配業者が取りに来て、修理して持ってきてくれるサービスがあり、往復で千五百円くらいの送料で出来ることが分かった。
 家に帰って即申し込んだ。すると翌々日だったが取りに来て、梱包もみんな向こうがやってくれて持って行き、なんと中一日だけおいて、二日後には再び持ってきてくれたのだ。 これには僕は心底驚いた。最近の電化商品はすぐ壊れるし、壊れた時のアフター・サービスが極端に悪いと常日頃思っていただけに、この対応には感動してしまった。
しかも、同封した書類にはこう書いてあった。
「廃インク吸収体を取り替えた他に、インク漏れが見つかったのでインク・ヘッドを取り替えました。本来ならば通常の修理代金がかかるところですが、今回は特別に廃インク吸収体交換代金だけで結構です。」
 な、なんと、今時こんな奇特な会社があるかいな。宅配の代金を合わせても五千円ちょっとで修理完了。書類に、
「このアドレスでアンケートのサイトに入って、是非アンケートにご協力ください。」
と書いてあったので、僕はアンケートで褒めちぎってやったよ。最後に自由に書く欄があったので、
「消費者のことを考えてくださってありがとうございました。これからもキャノンの製品を買います。」
と書いた。

 キャノンの対応も素晴らしかったが、元はと言えば、ヨドバシ・カメラとビック・カメラの店員の対応の違いに端を発する。たまたまその時の担当者の人間性にもよるのだが、ビック・カメラのお兄さんの場合、自分のところに商品を持ってこさせる方法を取らずに、お客に直接メーカーと交渉させる方法を教えた。これは、もしかしたらビック・カメラという会社にとっては、自分のところを通さずに、お客を他のところに振ってしまうわけだから、あまり良い社員とは言えないかもしれない。ただ彼は、その瞬間、お客の立場に立って物事を考えてくれた。
 結果はどうか?僕は今、こういう社員のいるビック・カメラにとても好意を持っている。ヨドバシが特別悪いことをしたわけではないが、僕はしばらくはパソコン関係の買い物はビック・カメラでするよ。反対から言うと、ヨドバシは一人客を減らした。

 僕は嬉しかった。このあまりに資本主義的に社会が回っている中で、なにかすがすがしい清涼剤を飲んだ気分だ。でも同時に思うんだ。むしろ、これこそが本当の資本主義なんだと。
 本当にもうかろうと思ったら、客の立場に立って客に尽くすことが、やはり商売の原点なのではないか。これを忘れた資本主義は、いずれ客から離れられてしまうような気がする。やはり「お客様は神様です。」という考えからビジネスは地道に始まらないといけないんだよ。ねえホリエモン!

バッハ・ヒーリング
 ここのところ家でピアノを練習することが多い。でも僕がピアノに向かっていると、愛犬タンタンが僕の膝の上に乗りたがる。別に構わないのだが、彼が乗ると僕は落ちないようにあぐらをかいてあげないといけない。そうするとペダルが踏めなくなる。さらに彼は僕が手を休めている間に、腕の上に頭を乗せてくる。クッ、これがなんとも可愛いんだが、はっきし言って弾くのに邪魔!

 先日練習していた時は、タンタンは僕の右膝の上に重心をかけていた。そしたら次の日、右の腰が痛くなってしまった。不自然な格好を長時間していたからだ。こんなことが響くのだから歳を取った証拠だ。座っていて立つ時とか、重い荷物を片方で持つときとか、気をつけないとズキンとくる。このままギックリ腰にでもなったら目も当てられないと、いたわって歩くと、なんだか年寄りっぽい歩き方になってしまった。

 土曜日の朝は、東京バロック・スコラーズの練習。曲はバッハのカンタータ102番の一曲目とモテットの第六番。練習している内に、不思議と腰のあたりが温かくなり、みるみる楽になってくるのが分かった。以前にも風邪引いていた時にバッハを練習して体調が良くなった覚えがあるが、どうやらバッハの音楽というのは、体に活気を漲らせる力があるようなのだ。
 特にドイツ語で歌われる曲を演奏している時にそれは顕著だ。強弱がはっきりしていて彫りの深いドイツ語が作り出すリズムが、バッハのリズムと出会うと、その二つが互いに作用を増幅し合って、特別なパワーを出すのかも知れない。

 バッハの音楽はヘンデルやモーツァルトと違って心和む癒し系という雰囲気ではなく、もっとアクティブで時に攻撃的だが、そのエネルギーが体を内面から活性化させ、元気づけるのではないか。
 ちなみにこれはCDやi-Podなどでは感じないことなので、生演奏でないと効果ないかも知れない。また、僕の感じでは声楽、特に合唱曲において感じることから、やはり言葉とのコンビネーションに秘密が隠されているようだ。誰かこのことを本気で研究してくれない?

演奏会近し
 20日金曜日には横山幸雄(よこやま ゆきお)さんとショパンの協奏曲第二番の合わせをした。合わせといっても、ピアノが一台しかない所だったので、ほとんどひたすら横山さんの弾くピアノを聞いて、ここのテンポ・ルバートはどこで戻そうかとか、次の出だしはこちらから出すよとかいう簡単な打ち合わせをしただけ。でもこれをやっておくのとおかないのとでは全く違う。
 それにしても横山さんのテクニックは間近で聞くと物凄いな。特に第三楽章なんて、これが指が五本ある同じ人類かよと思ってしまうよ。しかもほとんどミスタッチなし。すっかりお客様になってしまって、
「おおっ!」
と聞き入ってしまい、ハッと気がついて、ええと、僕何しに来たんだっけ?

 21日土曜日の夜は、29日の名古屋モーツァルト200合唱団の演奏会でモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第五番を弾く近藤薫(こんどう かおる)君との合わせ。
 彼は僕が名古屋でいろいろお世話になった故近藤フミ子さんの甥。東京芸大を出て現在東京フィル・ハーモニー管弦楽団の第一ヴァイオリン奏者だ。今日は新国立劇場「西部の娘」公演に出ているので、公演後待ち合わせて僕のピアノと合わせた。彼もなかなかのヴィルトゥオーゾだ。繊細さもある。演奏会がだんだん楽しみになってきたよ。
 ピアニストのようには上手に弾けないけれど、こうした音楽合わせは、自分でピアノを弾くに限る。細かいニュアンスまで肌で感じられるからだ。だからタンタンを膝に乗せて腰を痛めながらピアノをさらっていたんだ。24日火曜日には中丸三千繪さんのアリアも自分が伴奏して合わせる。

 モーツァルト200の演奏会は、もう今週末に迫っている。この昼間の演奏会後、僕はそのまま名古屋から新幹線に乗り、東京駅で乗り換えて成田空港まで行って、エール・フランスの夜の便に乗り、モナコに行く。モナコでは次の朝の十時半からオケ合わせ。
 モナコでの演奏会は5月3日と5日だから、これから二週間ばかり「今日この頃」をお休みします。その代わり、帰ってきたら、また昨年のイタリア旅行の後のようにたっぷり写真や記事の詰まった総集編をお送りします。みなさんごめんね。ではよいゴールデン・ウィークを!!

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