薔薇の騎士と僕

ノヴォちゃん時代最後の新制作
 ノヴォラツスキー芸術監督は、この夏までで任期を終える。そして特に今進行中の「薔薇の騎士」で彼の任期中の新制作作品が全て終わる。
 公演としてはまだ「ファルスタッフ」、僕が指揮する高校生のための鑑賞教室「蝶々夫人」、そして子供オペラの「スペース・トゥーランドット」が残っているが、これらはみな再演なので、もう敷かれたレールの上を与えられたスタッフ、キャストが走るだけだ。
 新制作は、演出家、指揮者を始めとして、そもそもどのようなコンセプトでプロジェクト・チームを立ち上げるかという議論から始まり、再度に渡る演出家のプレゼンや美術スタッフなどとの打ち合わせなど、準備期間が非常に大変なのだが、それもキックオフ・パーティーまでで全て終了する。もうあとは現場の人達に委ねたようなものだから、最後の新制作「薔薇の騎士」の立ち稽古が開始してしまった今となっては、実質的な意味での彼の芸術監督としての仕事はほぼ終わったと言っていい。

 新国立劇場内でノヴォラツスキー芸術監督(以下ノヴォちゃんと呼ぶ)と最も親しい人と言ったら僕以外にはいない。彼のことはシーズンが終わった時に、一度僕なりにまとめて語ってみたいと思っているが、この四年間、いやそれ以前の芸術参与の時代からずっと彼のそばで相談相手になり、音楽畑でない彼(ウィーン国立歌劇場演出部門ヘッド・コーチだった)のブレーンともなってきた僕は、今シーズンになって演目がひとつひとつ終わっていくのを見る毎に、ある種言いようのない寂しさにとらわれていた。
 ノヴォちゃん自身も、今シーズン始め頃ちょっとメランコリーな状態にあった。もうキャスティングは全て決まってしまっていたし、来シーズンのためのオーディションをする必要もない。人間というのものは現金なもので、もう未来のない芸術監督に何かを期待して新しく彼に言い寄ってくる訪問者もいない。つまり今シーズンになってみたら精神的にも実務的にもポツンと暇になってしまったのだ。
 ずっと淋しそうな日々が続いていたので、僕は用もないのになにかと小さい用を作っては彼の部屋に出掛けて行くと、
「まあ、座れよ。いろいろお話ししようよ。」
と言われてよく話し相手になってあげた。

 でも今は違う。彼の目は再び輝いている。自分の最後の新制作は、自分の故郷ウィーンを舞台にした「薔薇の騎士」と決めていたようで、先日も書いたようにウィーン訛りの指導から始まって、毎日稽古場に現れて細かいチェックをいろいろ入れている。
 彼は、新制作「薔薇の騎士」終幕の、達観して静かに去っていく元帥夫人に自分を重ね合わせたのだろうし、本公演最後の「ファルスタッフ」の終幕「人生はみな道化さ」のフーガで自分の芸術監督人生の幕を引こうとしているんだ。

 指揮者のペーター・シュナイダーとはウィーン訛りまる出しでしゃべっている。ドイツ語にはそれなりに親しんでいるつもりの僕にも、彼等の方言は半分くらいしか理解出来ない。「薔薇の騎士」の歌詞で使われている方言が分かりにくいと思っていたが、なんのなんの、オペラなのでこれでも相当遠慮して使っているそうだ。

リヒャルト・シュトラウスと僕
 僕は、リヒャルト・シュトラウスに対しては、ワーグナーほどべったりとした関係にないことをはじめに断っておこう。勿論、ワーグナーの音楽に接していても、ここは何を考えてこういう音楽を書いているのだろうと思うことはある。でもシュトラウスに比べるとずっと少ない。
 ワーグナーの転調は、それがかなり意表を突くものであっても、自分の感覚の中で納得出来るし、和音進行はほとんどが共感を持てる。しかしシュトラウスの場合、頭で考えて転調させているような箇所があり、知的には理解出来ても感覚がついていけないことが少なくない。そんな時、彼の音楽は僕の胸の中になかなか響いてこない。

 シュトラウスの作曲家としての腕前がワーグナーよりもずっと洗練されていることは周知の事実である。オーケストレーションに関しては、あらゆる作曲家の中で最も精通していると言っても差し支えないだろう。近代管弦楽法の模範がここにある。彼は、どの楽器のどの音域がどのように鳴るのか、それが他の楽器と組み合わさった時にどのようなサウンドとなって響き渡るか完全に掌握している。

 にもかかわらず、ワーグナーにある「これをどうしても表現したいのだ!」という内面からの叫びが、いつも作品にあるわけでないことがシュトラウスの弱点だ。時にはオケの響きが美しければ美しいほど内容の空虚さが浮き彫りにされてしまい、しらけてしまうこともある。

 「ナクソス島のアリアドネ」をパリのバスチーユで見た時もそう感じた。これを上演することで一体何を訴えたいのかな、という疑問。彼の音楽の響きに身を委ねているのは心地よいし、個々の場面はとても楽しめるのに・・・・。

 問題の一つは題材にある。ワーグナーの場合はそもそも題材からして、自分の思想や哲学や宗教観など、つまり内面の奥底から出てきているから必死感がただよっている。なのにシュトラウスときたら、まるでありあまる才能を何に使っていいかわからないかのようだ。一方、イタリア・オペラだったら恋人同士が出てきて、愛の行方を阻まれて、片方が死んで・・・・・要するにとても単純だけど、それはそれでシリアスで万人に訴えかけるものがある。

 その割にはリヒャルト・シュトラウスの音楽はとても難しい。いっそのこと調性のない現代音楽だったら、ダメモトみたいな気になって気が楽なのだけれど、調性はあるので間違ったら分かるからなおさら困る。
 ワーグナーは、管弦楽にライトモチーフで雄弁に心理描写をさせながら、歌手にはむしろ会話の間や語りの速さで朗誦させたが、シュトラウスはそれをもっと発展させて、ネイティブの人が普通に早口で会話する速度で朗誦させる。だからはっきり言ってネイティブでないとしゃべりきれない。そして当然のことながらしゃべるだけでなくて、自然にしゃべる感じで書かれた難しい音程関係や複雑なリズムがある。ある意味、日本人にとっては最も困難な作曲家だと思う。

 という風に長々と書いたけれど、要するに何を言いたいかというと、僕は必ずしもリヒャルト・シュトラウスの熱烈なファンではないということだ。とても惹かれる部分と、彼の仕事に懐疑的な部分、つまり反発する部分とが半々の作曲家なのだ。

だが「薔薇の騎士」は・・・
 だが「薔薇の騎士」だけは違う。僕がシュトラウスの全ての作品の中で無条件に評価する作品というのは、この「薔薇の騎士」と、そして「献呈」や「あした」、「夜」、「万霊節」などを含むいくつかの歌曲だけかも知れない。

 「薔薇の騎士」では、シュトラウスの欠点は全て長所に置き換えられている。そして元来の彼の長所は、ここでははるかに増加されて、もはやシュトラウスでなければ誰も表現し得ない境地に達しているのである。
 僕は、シュトラウスは「薔薇の騎士」を書くために生まれたと思っている。特に今回の新国立劇場のプロジェクトに参加してその観を強くした。

時の過ぎゆく音
 彼の華麗なオーケストレーションは、女声歌手の声と一緒になった時、最も輝きを増す。そして艶麗さの究極に無常観を醸し出すという離れ業をやってのけるのである。
第一幕の終わり近く、元帥夫人は時というものについて長々と語る。
「すべてが指の間から流れ落ちるの。つかんでもすべて崩れてしまい、消え去ってしまうの。霞や夢のように。時は、あたしたちの周りを、内面を流れている。人の顔の中で音もなく流れている。鏡の中で流れている。あたしのこめかみでも流れているわ。ああ、カンカン!時々聞こえるの。時の流れる音が。絶え間なく・・・・。」
 そして元帥夫人は愛人オクタヴィアンに向かって言う。決してとがめる口調ではなく、なにかを予感しているように。
「カンカン、今日か明日か、あなたは行ってしまうの。あたしを棄てて・・・他の人のために・・・。あたしよりきれいで、もっと若い誰かのもとへ・・・・。」

 第二幕。元帥夫人が恐れていたその出遭いは早くもやって来る。銀の薔薇をオックス男爵からその婚約者ゾフィーに渡す役を仰せつかった薔薇の騎士オクタヴィアンは、そこで美しく気高いゾフィーに一目惚れする。その時の音楽は、あたかもアルプスの山頂でそよ風を受けるようにすがすがしく爽やかだ。そこには第一幕で感じた愛のはかなさはなく、むしろ愛の永遠を感じさせるのだ。こうした音楽を紡ぎ出すシュトラウスの天才性!

 そして終幕。元帥夫人は、つい昨日まで自分の愛人だったオクタヴィアンが、自分よりもっと若くふさわしいゾフィーという恋人を見つけ、自分から離れていこうとするのを見つめながら、こうつぶやく。
「今日か明日か、覚悟はしていたはずだわ。しっかりした心で耐えるのだと。」
そして元帥夫人は、新しく生まれたばかりの恋人同士を見つめながら、ゆっくりと去っていくのだ。後に残った二人は子守歌のような愛の歌を歌う。

 この場面は何度見てもいいなあ。青春。愛のはかなさ。老い。諦念。無常観。それを彩る豪華すぎるほどの管弦楽。これぞシュトラウスの醍醐味!

混乱場面の描写の天才
 「薔薇の騎士」を語る時、どうしてもこうした美しい場面にばかり目がいくが、彼がオペラ作曲家としてその腕を振るっているのは、むしろオックス男爵の粗暴で破廉恥な振る舞いと、それが巻き起こすところのハチャメチャな混乱の場面だ。というか、むしろ大部分はそうした場面の連続なのだ。だからこそ美しい部分が引き立つのだ。
「自分の音楽で表現出来ないものは何もない。」
と豪語したシュトラウスだけあって、こうした場面でもシュトラウスは彼の才能をあますことなく表現し尽くしている。あらゆる表情、あらゆる状況に、まるで痒いところに全て手が届くようにきめ細かに対応するシュトラウスの音楽と管弦楽法には、他に追従を許さないものがある。
 それだけに、歌手達はその音楽に乗るだけで勝手に表情が作られてしまう。早口でしゃべるところでは拍子がめまぐるしく変わり、そこに三連符やリタルダンドやアッチェレランドがバンバン入って来るので、指揮者から目が離せなくなってしまう。つまり気をつけないと棒立ちになってしまい、音楽的には成立しても、演技的につまらないものになってしまうのだ。ここがシュトラウスの落とし穴。ここをクリアにして先に行かないといけない。
 その点、今回のキャスト達はみんな芸達者なので期待出来るよ。いつもキビッとした演技で見せてくれるエレナ・ツィトコワのオクタヴィアンも可愛いし、ペーター・ローゼのオックス男爵の嫌らしさなんか最高だ。まだ途中なので断言は出来ないけれど、予感ではかなりいい感じに仕上がるのではないかな。

創造の火花〜台本作家との書簡集
 リヒャルト・シュトラウスが台本作家のホフマンスタールと「薔薇の騎士」のリブレットについて交わした書簡集が出ている。(オペラ『薔薇の騎士』誕生の秘密 大野真監修 堀内美江訳 河出書房新社)
 それを読むと、この作品の成立に際し、二人がお互いに火花を散らすようなやり取りを手紙でしていた事実が分かって面白い。シュトラウスは、ホフマンスタールという人材を見出したことに満足しているが、ホフマンスタールの方は、知人に、
「これほど有名でなくてもいいから、僕の心に近い、僕の精神の質により親しい作曲家を得られたら、僕はたぶん、もっと幸福でいられるだろうに。」
と漏らしているように、シュトラウスとの共同作業を必ずしも全面的にエンジョイしていたとは思えない。
 だが、ホフマンスタールがもし、もっと凡庸な作曲家と仕事していたら、それでも後世に残るような傑作が生まれていたかどうか、あるいは彼自身が今日知られているように名前が残ったかを考えると、この二人の出遭いも運命的なものであったのだという結論に達する。

 この本の後半には「薔薇の騎士」第二幕の初校が載っているが、読み比べてみると、やはり現在の形の方がずっといい。二人の創作は、書簡によると、基本的にはホフマンスタールがまずたたき台を書き、それにシュトラウスが歯に衣着せぬいちゃもんをつけて書き直させるという手順を踏んでいる。ということは、ある意味シュトラウス主導で事が運んでいるのだ。そして出来上がった現行版を見る限り、シュトラウスのドラマを見る眼というものがいかに的確であるかよく理解出来るのだ。

ウィンナ・ワルツ!
 「薔薇の騎士」で、他の作品に見られなくて大きな魅力になっているもののひとつに、ワルツの使用が挙げられる。これについてはホフマンスタールがシュトラウスに宛てた最初の方の手紙の中で、
「どうか最後の幕には、甘ったるくてちょっと蓮っ葉な古めかしいウィーン・ワルツの曲を付けてください。そしてそれが幕を通してずっと鳴りつづけているようにしてください。」
と書いていることから、ホフマンスタールのアイデアなのかも知れないが、もっとよく調べてみないと詳しいことは分からない。
とにかく、このワルツの音楽が随所で光っていて、メランコリックになったり、華麗に場面を彩ったり、様々に活躍する。
 ワルツって大好きだよ。僕のミュージカル「ナディーヌ」第一幕の終わりも、お花と踊る独身中年男性のワルツだった。

今週はシュトラウスばっかりです!
 毎日新国立劇場にばかり通っていて「薔薇の騎士」浸けの毎日を送っているので、今週は他に話題がありません。シュトラウスの音楽にあまり興味がない人にとってはお気の毒です。あとは僕の場合「ジークフリートの冒険」のアレンジをしている。アレンジのこと書いても仕方ないしなあ。愛器自作パソコンWISHは絶好調!でもこれだけで毎日が過ぎていくんだ。
 言っておくけど、「薔薇の騎士」というオペラだけは、知っておいても損のない作品だよ。面白くて、ちょっといかれていて、センチメンタルで、それで最後には諸行無常なのだ。うー、よく分かんねー!まあ聴いてみるに限るだね。

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