ジャズ三昧

 今、僕のi-Podにはジャズばかり入っている。本番と本番の間のほんのわずかなインターバルに、僕の仕事を離れた趣味の世界が凝縮して支配する。といってもジャズも音楽には違いないので、あんまり画期的に仕事から離れたとも言いにくいけど・・・。

 ジャズは基本的にポリフォニーの音楽だ。特にそれぞれが即興演奏のジャズの場合、ポリフォニーとは「それぞれ勝手に」という言葉と同義語だ。同時進行はしているのだが、各楽器奏者は「あっち向いてホイ」で、みんな別の事を考えている。
僕は電車の中でi-Podを聴きながら、今度はベースを聴いてみようと思って、ベース・ラインを追う。これはこれで完結している。 
 ソロを取っているトランペットやサックスなどは、「このベースの上にこのメロディーを構築して」なんて考えている余裕はない。でも時々は相手の事を思う。
トランペットが、
「ベースはきっと基音を弾くだろうから、自分は代理コードで吹いてみよう。」
と見切り発車して、ちょっとコードからはずれたソロを吹く。しかしその瞬間にベースも同じ事を考えて、さらにピアノも、
「基本コードからちょっとはずれちゃおうかな。」
と遊び心を出すと、その瞬間みんなではずれちゃって、
「あららら・・・。」
というように、下手に相手の事を思いやると、かえってまずいことになる。
クラシック的に考えると、
「この瞬間は和声的に間違い。」
というのだろうが、まあ、それもいいではないか。即興なんだもん。

 ジャズメンの中には、もっと確信犯がいる。たとえばマイルス・ディビスがハービー・ハンコックなどとやっていたのは、
「みんなして基本和音からはずれたのって、結構不良っぽくってイカすじゃないか。」
という感じで、それぞれ基本和音からどれだけはずれるだろうか、なんていうことに命をかけていたのだ。それはまるで放蕩息子が故郷の両親を心配しながらも、
「いつかは帰るさ。」
と思って不良の生活に耽っているようなギリギリの行為で、こうなるともう「和声的に間違い」なんていうのは通り越して、完全にアナーキーな状態になっている。

お気楽ジャズ
 今年の上半期が超忙しかったので、今僕が好んで聴いているのは、マイルスのように頭を使わないと聴けない高級ジャズではなくて、なるべくお気楽なジャズ。
「いぶし銀のようなトランペッター」ブルー・ミッチェルや、「哀愁のトランペッター」ケニー・ドーハムなど。テナー・サックスのソニー・ロリンズも入っている。つまりテーマの後にそれぞれが和声進行に従っておりこうにアドリブを繰り広げ、またテーマに戻ってお終いという「お決まりジャズ」。放蕩息子ではなくて、親に心配かけない優等生。

 ケニー・ドーハムのUNA MASというCD(TOCJ-6533)はとても楽しい。ケニーのトランペットは正統的だが、きらめくようなハイトーンを持っている。音色は美しいと同時に言いようのない翳りがあることから「哀愁のトランペッター」と呼ばれている。
 1963年4月1日に録音されたこのアルバムの大きな特徴は、マイルス・ディビスのバンドに入る直前のトニー・ウィリアムス(ドラム)とハービー・ハンコック(ピアノ)がリズムを仕切っていることにある。第二曲目Straight Aheadを聴いてみると、この二人があまり素晴らしくて唖然としてしまう。ただここで見られるのは、先ほど言った「おりこうジャズ」なので、この二人がもっとハメをはずして誰もついて行けないような大胆プレイを成し遂げるためには、マイルスという巨人の力を必要とする。反面、型にはまっているからこそ、この二人の「純粋にプレイヤーとしての実力」のとてつもなさが浮き彫りにされているとも言える。

トニー・ウィリアムスの素晴らしさ
 トニーのドラムは、他のプレイヤーが当然の事のように入れている裏拍のハイハットを入れない。そのことをよく人から指摘されていたというが、彼は頑として変えなかった。でもそのお陰でリズムがフレキシブルになる。長いシンコペーションや3連符などで拍感を揺らしたり、とにかく自由自在にプレイ出来る。そのシンコペーションにハービーのピアノが一緒に乗っかって、ますます拍がはぐらかされるが、このアルバムではここまで。
 トニーは、このアルバムの翌月にはマイルスのバンドに入る。マイルスは自伝で弱冠17歳で彼のバンドに入ったばかりのトニーをこう評している。

  トニーがいるこのバンドじゃ、なんでも望み通りの演奏ができた。トニーがいつも、バンドのサウンドの中心だった。トニーを中心に動き回り、燃え上がった。本当にトニーは最高だった。彼ほどすばらしい演奏をオレとした奴は誰一人としていない。
マイルスも、この十代のあんちゃんに惚れていたんだねえ。

よき指導者
 それにしても、こうした若い天才を生かすマイルスの指導者としての才能はたいしたものだ。僕も指揮者として生きてきて、マイルスから教わる事がとても多いのだ。トニーだって、マイルスに見出されなかったら、どこまでその天才性を発揮出来たか分からない。

 よい部下を育てるために最も必要な事は、まず自分自身がそれらの才能を受け止めるだけの才能を持たなくてはならないということだ。その才能は部下の才能と同じ才能でなくてもいい。つまり指導者が持つべき才能は、アビリティabilityではなくてキャパシティcapacityなのだ。
 これがないとね、指導者が部下の才能に嫉妬してしまったり、部下の才能をもてあましてしまってどう扱っていいか分からなくなってしまう。その内、業を煮やした部下が指導者に何か言い始める。すると指導者は部下を拒否する発言をする。その結果、才能のある部下からその人の元を去って行ってしまう。これが部下を使えない指導者のお決まりのコースだ。
 指導者はアビリティでは部下に負けてもいいんだ。だからマイルスは、トニーのドラムに対してあそこまで賛辞出来るのだ。マイルスは、とても傲慢な人間のように思われているけど、とんでもない!日常生活は知らないが、芸術家としては、彼ほど謙虚な人間はいないのだ。

 次に必要なのは人格だ。でも芸術家の場合、普通の人のように「良い人」である必要はない。でも部下が、
「この人についていこう。」
と思える“何か”が必要なのだ。

 その両方をマイルスは持っているんだ。そしてその部下の才能を「最大限に」引き出す術を知っている。その意味で、指導者として彼ほど偉大な人物を僕は知らない。一番僕が凄いと思うのは、自分の元で才能を花開かせた者が自分の元を離れていく時に、きちんと送り出してあげられる度量の大きさだ。

 おお、気がついてみたら、やっぱりまたマイルスの話になってしまった。マイルスは僕が芸術家として最も尊敬している人のひとりだからね。つい話がそっちに行ってしまうぜ。

「どんど晴れ」最終回
 どうして最終回って、あんな風に番組の最初からみんな笑顔で、全ての問題がスルスルと解決して、登場人物がみんな幸せになってしまうのだろうね。NHKの朝の連続ドラマ「どんど晴れ」の最終回を見てつくづく思ったよ。こんなこと人生では決してあり得ないので、その嘘っぽさにあきれてしまうよ。
 直前まで加賀美屋旅館は、外資の大手リゾート開発会社に乗っ取られそうになっていたが、これも「まごころ」や「おもてなしの心」でもってあっという間に解決。
「ウッソー!」
と思ったが、まあ、
「朝ドラというものはそういうものなのだ。」
というのであれば、僕ごときが何をか言わん、というところだ。

 その中で、唯一いいなあと思ったのは、アキという女性カメラマンが、イーハトーブの店長のことを好きなのだけど、結局番組の中では結ばれなくて、彼の事を想いながら、世界中を写真撮りに回っているというエピソード。こういうのがいいなあ。
「いずれ結ばれるのかなあ?どうなのかなあ?」
と余韻が残るじゃないか。

ちょうど朝ドラの時間が三澤家の朝食の時間なので、僕はこれからもきっと惰性で朝ドラを見続けるのだ。さて、次はどんな物語だい?

 

NOという合唱指揮者
 指揮者のオーギャン氏がオーケストラ付舞台稽古で突然言う。
「『聖なるエリーザベト我のために祈り給え』と言うタンホイザーのセリフがまだ終わらない内に女性が登場するのが目障りだ。次の音楽が始まってからに出来ないかな。」
 そして演出家を呼ぶ。演出家のレーマン氏がオケ・ピットに到着する直前に、僕は舞台上からオーギャン氏に向かって叫ぶ。
「それは出来ません!マエストロ!それをやったら確実に女声合唱がズレます。」
「これは音楽上必要なことだよ。」
「気持ちは分かりますが、駄目です!絶対に駄目です!」

 以前この欄でも触れた事のある、最終景の若き巡礼者達の合唱の話である。ここの場面では、ただでさえ合わせるのが難しいところにもってきて、女性が全速力で走り込んできながら歌うのだ。
 普通の合唱指揮者だったら、演出家がそういった要求をする時点で、
「出来ません。」
というところだが、この場面がうまくいったら最終景が感動的なものになることが分かった僕は、あれから演出家とも相談していろいろ解決策を探していたのだ。
 そしてようやく解決したと思ったら、指揮者から女性の登場のタイミングを遅らすような指示が出たので、僕は拒絶したのだ。

 僕達がこれまでにした解決策とはこうである。最初に登場する10人の女性達は、ギリギリ歌う直前で舞台中央に到着する。彼女たちだけが(息は切れているかもしれないが少なくとも)最初のフレーズを「静止して」歌えるのである。他の全員はHeil, Heil !と歌う瞬間は全速力で走っている。
 最初僕は舞台稽古でこの10人だけで歌い始めさせたが、やはりそれでは少なすぎてサウンドとして成り立たない。そこで、この10人を核として、他の女性達は舞台横で副指揮者の振る赤ランプを頼りに10人に合わせて歌いながら走るようにと指示を出して、やっとなんとか解決した。
 でも、もしこの最初の10人のタイミングが少しでも遅れてしまったら、アインザッツの瞬間に彼女たちはまだ走っているわけで、誰も確実な人がいなくなってしまう。だからマエストロの指示に従えないのだ。もしそれでもどうしてもとなったら、むしろ演出を根本から変えるしか方法はないのだ。
 
 演出家のレーマン氏がマエストロと言い合っていたかと思ったら、すぐに舞台に上がってきた。なんと、最初の女性達の登場を当初よりももっと早めたのだ。つまりレーマン氏は僕達を守ってくれた。これで二対一になって合唱のアインザッツは守られた。オーギャン氏はしぶしぶ従った。

 合唱指揮者はこうやって時には指揮者にNOと言う。だが、これをもって「うまくいっていない」とか「いさかい」とか思ったら、その人は現場というものが何なのかを知らない。現場は、最もよいものを作り出すための戦いの場である。そのためには妥協してはいけない。みんなで遠慮して中途半端に仲良くして、その結果最良のものが作れないよりは、みんなでとことん主張して議論してよりよいものを築いていく方がどれだけよいことか。
 オーギャン氏はとても良い指揮者だ。そして彼がその瞬間に感じた事は僕にも理解出来る。指揮者としては音楽の変わり目に新しい動きに移りたいのだ。

 この話には後日談がある。次の日、同じ処を衣裳付で通した。すると女声合唱が見事にずれてしまった。オーギャン氏はとてもうろたえて、
「ここの場面をもう一回繰り返す!」
と言い、それから僕を呼んだ。
「一体何が起こったのかね?」
「別に何も。昨日も言ったではないですか。ここはそれだけ難しい場所だという事です。これまで合っていたのがむしろ偶然で、いつこうなってもおかしくなかったのです。今日は衣裳を着けてかぶりものもしているし、周りの音が聞こえにくくなっているのだと思います。」
「ではどうしたらいいのかね?」
「簡単です。もう一度繰り返していただければ、利口な彼女たちのこと、何の心配もなく合うと思います。」

 こんな時、もし僕が合唱団員達に、
「なにやってるんだ!」
なんてどなってしまったら、それこそ野暮だ。みんなプロだから、ずれたのは分かっているので、次は集中してやってくれるに違いない。
 予想した通り、二度目にはぴったり合った。さすが新国立劇場合唱団の可愛い女性達。オーギャン氏はその時になって、僕が前の日に主張していた事の意味を理解してくれた。彼が前日に行った事は、そのまま指揮者である彼の身にも降りかかってくる事だったのである。

 西洋人との信頼関係は、ある意味、対立の中で培われるものだと思う。指揮者のオーギャン氏も演出家のレーマン氏も素晴らしい芸術家で尊敬しているが、僕は合唱指揮者として主張するべき時は自分の意見を言う。でもそのことで、彼等は逆に僕という人間が何を考えているか分かり、僕や合唱団の事をとても尊重してくれるのだ。だから議論から逃げてはいけないのだ。

「タンホイザー」のプロジェクトは初日まであと少し。ツォンベック氏の舞台美術にも照明が当たってとてもきれいになってきた。楽しみ、楽しみ!

フリードリヒ
「ヒロ、明日オフなんだけど、会えない?」
「ごめん、明日は一日浜松に行ってるんだ。またあらためてこちらから連絡するよ。」
 なかなかお互いのスケジュールが詰まっていて会えない。いやいや、隠れた愛人との会話ではない。ベルリン国立歌劇場合唱指揮者であって、現在のバイロイト音楽祭の合唱指揮者でもあるエバハルト・フリードリヒとのやり取りだ。

 2003年以来、僕は一度もバイロイトに行っていない。毎年フリードリヒから依頼はくるのだが、新国立劇場から離れられないので、彼ともそれ以来会っていないのだ。
 現在、ベルリン国立歌劇場は日本に演奏旅行に来ている。先日は、僕の愛知芸大の教え子で長い間国立歌劇場の合唱団員として歌っている木下夫妻を新国立劇場に案内して、「タンホイザー」のオケ付舞台稽古を見せた。
 その時フリードリヒも呼んだのだが、
「ごめん、明日は妻と箱根に行くんだ。」
「まあ、そっちの方が大事だね。」
「タンホイザーは知ってるけど、箱根はまだ知らないのでね。」
「あはははは。」
ということでなかなか会えないのだ。

フリードリヒは言う。
「モーセとアロンの練習、見においでよ。」
「うん、必ず行くよ。」
これも楽しみのひとつ。
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