のだめで始まった新年

 今、この原稿を「のだめカンタービレinヨーロッパ」を見ながら書いている。妻は今夜は教会の新年会。僕は昼間の新国立劇場ニューイヤー・オペラパレスガラが終わって、府中の京王ストアで鴨肉を買い、ひとり鴨鍋。
 鴨鍋のつゆが一緒に入っていたのだけれど、化学調味料の味が嫌なので、鍋に昆布を敷き、お酒と、先日蕎麦打ちするので作った「かえし」を入れて、自力でなかなかおいしい鍋を作りました。「かえし」が効いているので、鴨南蛮蕎麦のつゆのような味がするのだけどね。残り物のご飯を入れて卵を入れて最後はだしのきいたおいしいおじや。で今は芋焼酎のソーダ割りをちびちびやりながらのだめを見ているわけ。

 「のだめカンタービレinヨーロッパ」では、なつかしいヨーロッパの街並みに胸がキューンとなった。特にパリは僕の大好きな街なので、出てくる建物や景色は、どこも僕の愛している所ばかりだ。でも胸がキューンとなるのはそれだけじゃない。冗談の羅列のようなストーリー展開の中に、思わずウーンと唸りたくなるような大切な言葉や場面が織り込まれている。僕達プロが、しばしば音楽の真っ直中で忘れてしまいそうになる事柄に気付かせてくれるのだよ。まあ、びっくりするじゃないか。

 のだめが、
「自分は何のためにピアノを弾いていて、何のためにヨーロッパに来たのだろう?」
と悩む所などは、自分がベルリンにいた時にぶつかっていた壁を思い出させた。
 こんな風に全てを大まじめにとる必要ないのかも知れないが、この番組はなかなかやるよ。あなどれないよ。綿密なリサーチに裏付けられて、実はしっかりと作ってあるのだ。
それに音楽家の希望、絶望、挫折感、意気込みや喜怒哀楽が、かなり真実味を帯びて描かれている。恥ずかしながら、ところどころウルッと来ながら見ているよ。
 最後のブラームスの交響曲第一番ハ短調は良い曲だ。ブラームスも、ベートーヴェンと違う意味で不器用だねえ。僕も番組を見ていると無性に振りたくなった。

 でもたったひとつ、間違いがあった。アヴェ・ヴェルム・コルプスの事を、
「晩年のモーツァルトが唯一完成したミサ曲」
と言っていた。モーツァルトのミサ曲は、ザルツブルク時代に沢山完成していたが、確かにウィーンに出てきてからは、ハ短調ミサ曲を未完成で放り出したし、死者のためのミサ曲であるレクィエムは本人の死で中断したので完成したものはない。
 ただアヴェ・ヴェルム・コルプスはミサ曲ではない。「まことの御体」という短い祈りの曲だ。ミサ曲というのは、少なくともキリエ、グローリアといった典礼文がないといけない。放映するまでに誰か気がついて止めてくれなかったのかなあ。残念だなあ。

年末年始と第九
 今年の年末年始は久し振りにのんびり過ごした。あんまりのんびり過ごしたので何も起きず、書くことが少ない。でも、昨年のようにノロウィルスとの奮戦記を延々書くようなシチュエーションに陥らないだけマシだ。群馬宅で元日に打った蕎麦も、今度は両親においしく食べてもらった。でも、まだまだ蕎麦打ちの修行は足りない。
 蕎麦打ちはなかなか奥が深いのだよ。お粉をこねている内に、掌の中で粉と水がよく混ざってくる感触が感じられるようになってきた。オーバーに言うと、お粉を愛するようになってきた。焼き物を作る職人が土をその手で感じる感覚も、きっとこれに似ているんだろうなあ。大事なことは、こうした現場の“手”の感触。全てに通じることだ。

 暮れは、読売日響の第九の本番が27日まで7回もあり、それから28日に東京交響楽団の第九を聴きに行った。こんなに第九ばっかり続けば飽きるかなとも思うのだが、不思議と飽きないんだよな、第九って曲は。
 第九を書いた頃、ベートーヴェンの耳はもう相当聞こえなくなっていたに違いない。というより、耳が聞こえなくなって長く経ってしまっているので、演奏された自分の曲を聴いて修正することが困難になっていたに違いない。だから、自分の内面から湧き出てくる楽想には非の付け所がないものの、実践論であるオーケストレーションに関しては、ところどころ奇妙な音がするのだ。
 管楽器の受け渡しはスムーズじゃないし、ホルン声部の書き方は行き当たりばったりだ。それに、第四楽章の冒頭の、あの奇怪きわまりない管楽器アンサンブルのサウンドは何だ!(のだめを見過ぎて千秋のようなセリフになってしまった!)ドッペル・フーガやプレスティッシモのフィナーレのように、弦楽器奏者、特に低声部にとってはほとんど演奏不可能な場所もある。指揮者にとっても演奏家にとっても、きちんとしたバランスで美しく響かそうと思ったら、こんな悩ましい曲はないのだ。
 
 でも、僕は今回初めて、第九の音に関してこれまでネガティブに捉えていた場所も肯定的に受け止めることが出来た。耳の聞こえなくなっていた作曲家が、どこまでサウンドに責任を持っていたかはさておき、逆に見ると、演奏される度に違った様々な音が聞こえるのだ。勿論偶発的かも知れない。しかしだから飽きない。森の木々が、変わらぬように見えながら、よく見ると毎日毎日違う姿をしているように、第九の演奏も毎回それぞれのバランスでそれぞれの景色を見せてくれた。

 下野竜也君は、なかなか才能がある。でも若いから元気溌剌で、僕のようなおじさんにとっては、彼の第九はドイツの森を突っ走るICE(超特急)のように感じられる。ところどころ木々の間の鳥のささやきが聴きたいと思った。音楽の鳴っているところもそうだけど、音楽と音楽の間がちょっとだけ足りないのが窮屈。
 そこへいくと、我らが秋山和慶マエストロのテンポはどっしりしていて、間の取り方も良い。この辺が年輪というものかな。お酒と同じで、時間が経つと角が取れてまろやかになってくるのだ。

リバイバル読書
 第九に通う電車の中や、待ち時間はいつも読書の時。最近は、昔読んだ本を読み返している。夏目漱石の「吾輩は猫である」は、中学生の頃に読んでチンプンカンプンだった小説だ。この歳になっていろいろ人生経験を積んだのだから、あの頃とはずいぶん違うだろうと期待して読み始めたのだが、印象は全く同じだった。
 苦沙弥先生という英語教師の家に拾われた猫の目を通して人間社会を様々に風刺する小説だ。それだけにドラマチックなストーリー展開は望むべくもない。予想の通り物語はヤマがあるわけでもなくダラダラと果てしなく続いていく。途中でやめようかなとも思ったが、こちらも惰性でダラダラ読んだ。まあ、読んでいくとつまらなくはない。
 今回気がついたのは、話のもって行き方や語り口が落語的だということ。しかもオチがなかったりするのでガクッとくることも少なくない。解説を読むといくつかの話には古典落語のパロディが見られるという。だったら古典落語を聞いた方がいいかも知れない。

 夏目漱石の使う単語には当て字と思うような漢字がついていたり、今はあまり使わない言い回しがあったりして、そちらの方が興味があった。たとえば、「やめた」と言うのを「よした」と言ったり、「大いに弱った」という言い方は、僕のお袋がよく言っていたので、群馬の方言かと思っていた。
 文体は丁寧で読みやすい。確かに日本語を味わうのならば、日本文学の方がいい。でも日本文学は、なんていうか精神的深みというものに欠けるよな。特に「我が輩は猫である」は向こう三軒両隣の世界観で、古き良き時代ののんびりした風情が読者をほっとさせるけれど、それだけ?日本人ってそれだけで生きてるの?って、思わず意地悪に突っつきたくなるのは僕だけかな。

 そこにいくと、今読んでいる最中のロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」は、まさにドラマチックで精神的で、僕の望んでいる通りの小説の中の小説!これも高校時代の時の印象と全く同じ。さらに今この歳になって読むと、かつて分からなかった様々なことが理解出来て実に面白い。

 「ジャン・クリストフ」は、ベートーヴェンをモデルにした音楽家の生涯を描いた小説だが、舞台はこの小説が書かれた20世紀初頭に移し替えられていて、ワーグナーの音楽やヴェリズモ・オペラまでが登場する。だから勿論ベートーヴェンの伝記ではないのだが、ベートーヴェン的人間像というものがうまく描かれていて、その精神の偉大さと行動の陳腐さとが綿密にアナリーゼされている。

 ライン川流域の小都市に生まれたジャン・クリストフは、成長し、やがてドイツを去ってパリに行く。そこでゲルマン的精神はラテン的精神に出遭う。まさにこの点こそ、かつては分からなかったが、現在の僕が最も興味をそそる話題だ。ベルリンで学び、パリを愛している僕。ドイツ語を学び、それからフランス語に傾倒していった僕。今、僕の中にはゲルマンとラテンが同居している。バッハやワーグナーを演奏する時はゲルマンが前面に出、ヴェルディやプッチーニはラテンというように。この二つの要素は、あるところでは混じり合うものの、根本では決して融合することなく対立している。
 
 分かり易く説明しよう。ゲルマン的精神から眺めると、フランスの芸術には深い哲学的精神が欠けているように思われる。目標や論理がなく刹那的で根無し草で、芸術も恋愛やファッションの一部であるかのように扱われているのだ。しかしラテン的精神から眺めれば、ドイツの芸術は鈍重で暗く、センスや色彩感に欠けている。永遠を見つめてはいるが今を呼吸していない。結局は両方の要素が必要なのだが、ヨーロッパが一枚岩でないことは分かっておいた方がいい。

 今回分かったことは、フランス人であるロマン・ロランは、ドイツ生まれのジャンをフランスに来させて、ベートーヴェン的人間をゲルマンの側だけに置いておかずに、異文化との遭遇を意図的にさせたのだ。その上で、その場を借りて当時のヨーロッパの文化について大いに語ったというわけだ。ロマン・ロランは、この作品でノーベル文学賞を受賞した。僕が読んだ様々な小説の中で最も長いが、登場人物の心理描写が素晴らしいので、どんどん読める。

平行して充電
 偉大な文学に接していると、自分の魂が磨かれていくのを感じる。やはり本は自分の生活に欠かせない。本を読めなくなるほど忙しくならないというのを今年のモットーにしようかなあ。なんだか消極的なモットーだなあ。
 でも僕くらいの歳になると、がむしゃらに燃焼するのではなく、静かに熱く知性を持って青白く燃えることが必要なんだ。そして「当たらぬ鉄砲も数打ちゃ当たる」ではなくて、ひとつひとつを確実に当てる。無駄な動きはしない。それには蓄積した経験と確かな職人の業が必要。そんな風になりたいなあ。
 そのためにも、仕事して消耗する量の倍くらいの量の充電を平行して行わなければならない。その充電に必要なのは、実生活では何の役にも立たないけれど、精神が食べる糧。

そうして、
「あの人はたまにホームランを打つ。」
と言われるよりも、
「あの人の仕事は常に丁寧で確実。」
と言われるように今年も頑張ります。

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