早くも練習三昧

 お正月ボケをしている暇もなく、新国立劇場では「ラ・ボエーム」立ち稽古が始まり、同時に「アイーダ」合唱音楽練習が連日続いた。3月の「アイーダ」公演初日の幕が開くまでには、「ラ・ボエーム」と「黒船」公演が間にある(合唱は関係ないけど「サロメ」もある)が、出来る時にやっておかないといけないので、もう「アイーダ」を練習しているのだ。

発声のバロメーター〜ヴェルディ
 「アイーダ」は、ヴェルディの中で最も俗っぽい作品のように言われている。例の凱旋行進の場面の華々しさは、確かにNHK紅白歌合戦的というか小林幸子的というかディズニーランド・パレード的だ。でもヴェルディの作るグランド・フィナーレは作品を追うごとに進化していて、大衆を楽しませながらでもドラマが流れていて、次の幕への伏線をところどころ置いている。それは、常に大衆と共に歩みながら芸術性も失わないヴェルディならではの境地だ。
 「ドン・カルロ」のグランド・フィナーレも壮大だけれど、「アイーダ」のそれは、合唱団員にとってみると、なにより歌いやすくて血湧き肉躍るという感じで楽しいのだそうだ。だから僕が、
「まだ音取り練習だから、声を抜いて歌っていいよ。」
と言ってもみんなフル・ヴォイスで歌ってしまう。
最近僕は気がついてきた。こういう曲では、
「きちんと声を出して歌って下さいね。」
と言うより、
「抜いて歌っていいよ。」
と言った方が、どうも結果的に良いことが多い。
「抜いても非難されないが、出したかったら自由に出していい。」
という心理状態で歌った方が、彼等は束縛感がないので、体の力が抜けて良い発声で歌えるようだ。

 ヴェルディは、本当に人間の声のことがよく分かっていて、良い発声で歌うほど曲が映えるように書いてある。だからヴェルディを扱う合唱指揮者は、なんといってもみんなになるべく良い発声で声を出してもらわなくてはならないのだ。
 よく勘違いされるのは、必要以上に力んで歌うのをカッコいいと思う感覚。でもこれを許してしまうと合唱は絶対にハモらない。一流の歌手というのは決して力んではいない。掘ったり押したりしていない。時としてCDなどでそう聞こえる時はあるのだが、それはテクニックを使ってキャラクター的にそう見せているだけなのだ。その惑わしに乗せられないで、本当にヴェルディの音楽が要求している発声に近づけないといけない。これは簡単ではない。

 ヴェルディのメロディーは単純そのもの。だから、たとえばフィッシャー・ディスカウのような歌の『うまい』人は、逆にもてあましてしまう。これは単純がウリなので、意図的にどこかに持って行こうとしたり、何か細工しようとしてはいけない。何もしないで、まずきれいにメロディーの線をくっきりと出そうとするだけでいい。すると、その単純なメロディーの中に全ての喜怒哀楽を表現しようとしたヴェルディの真の天才性が見えてくる。
 特に「アイーダ」のような後期の作品に、僕はすっきりとした対位法の線が見える。みんなでボテボテに声を競い合って、その線が見えなくなったら残念だ。
 「アイーダ」が立ち稽古に入るまでにはまだまだ時間がある。でもこうした作品をどのくらいのクォリティーで仕上げられるかは、そのまま今の新国立劇場合唱団の実力がどの辺にあるかということとイコールだ。ヴェルディは声楽的なバロメーターだ。ごまかしのきかない恐ろしい試金石だ。

 

粟国君のラ・ボエーム
 粟国淳君とやる「ラ・ボエーム」の練習は楽しい。第二幕はわずか20分の間にめまぐるしく舞台が進行する。プッチーニの音楽は、そのライトモチーフ的な扱いでワーグナーの音楽からの影響が感じられるが、ワーグナー的長さがよっぽど嫌いだったと見えて、ひとつの場面があっという間に終わる。
 
 たとえば、ミミが通りすがりの若者を見ていると、ロドルフォがそれをすかさず見つけて、
「誰を見ているの?」
と聞く。ミミが言い返す。
「嫉妬しているの?」
 このセリフを聞き逃したら最後、その後のロドルフォとミミの気持ちのすれ違いに聴衆は気がつかないで第二幕を終わってしまうことになる。そうすると第三幕でロドルフォがいきなりマルチェロに向かって、
「ミミと別れようと思うんだ。」
というセリフにびっくりしてしまうことになる。
 「ラ・ボエーム」はそのくらいセリフが凝縮されているので、演出家も上手に処理しないと、ただワサワサ人が動くだけで何も伝えられずに終わってしまう。
 粟国君の群衆の処理は鮮やかだ。ただ再演の場合、少ない時間の中で、メンバー・チェンジして新人もいる合唱団をさばいていくので大変だ。つまりやることが他の演出家よりもずっと多いのだ。それでいて仕上がった時には、群衆の動きが自然に見えていなければいけない。粟国君の要求は高い。でも、良い演出家の元ではみんなモチベーションが高くなり、全力で彼の要求に応えようとする。こんな時の稽古場のアクティブな雰囲気が僕は好きだ。

男のロマン?
 どういうわけか、
「『ラ・ボエーム』大好き!」
と言う男性が多いのと同じくらい、
「そうかしら。」
と思う女性も少なくない。
 男性は、このオペラに容易に感情移入出来るようだ。僕にとっても、若い時は「ラ・ボエーム」こそはあこがれのオペラだった。それだけ男性は自分のロマンに酔い、周りがみえなくなるんだろうな。作曲家プッチーニ自身も、
「ミミ、ミミ!」
と泣きながらスコアを書いていたという。ミミという女性像は、全ての男性にとってあこがれの的となり得る存在なのかも知れない。

 一方、女性はというと、あまりに男性にとって都合の良いミミという女性像と、彼女を取り巻くストーリー展開に、反対に冷めてしまっているのかも知れない。
 第一幕後半で、暗闇の中で出遭ったばかりのロドルフォとミミが鍵を探す。そしてロドルフォがミミの手に触れて、ミミが、
「あっ!」
と声を出す。
 ああしたシチュエーションは、男性をワクワクさせるけれど、それは意地悪く言うと、女性が仕掛けた罠に男性がまんまとハマっているということだ。最後に行動を起こすのは男性だけれど、その行動をギリギリまで導くのは、実は女性だ。男性は馬鹿だからその仕掛けが見えない。あるいは見えたとしても、それが自分に向けられている限りは、その仕掛け自体が自分にとって好ましい。
 ところが仕掛ける側の女性からすると、ミミの仕掛けが丸見えで嫌だし、仕掛けられて喜ぶ男が馬鹿馬鹿しく感じられる。また、仕掛けたくても仕掛けることの出来ない内気な女性からすると、ミミが巧みに手練手管を使いながら可愛い子ブリッ子してみせることが嫌らしく感じられるのではないだろうか。だから、このオペラは、あまり女性からは人気がないのではないだろうか。

 「明日を夢見る詩人の卵とお針子の物語」というと、とてもロマンチックなんだけど、ある本によると、当時のお針子(オートクチュールの下請け)は、個人差もあるけれど、金持ちのパトロンと契約愛人のようなことをしていた女性が多かったという。第三幕と第四幕の間で、ロドルフォと別れていた時も、ミミは愛人の所に身を寄せていたとも言われているが、そうなるととても夢が壊れて嫌だな。
 やっぱり、あまりいろいろ詮索をしないで、僕は僕の好きなミミだけ見ていたい。もう、本当のことはどうでもいいんだよ。男はロマンチストなんだい!純愛がいいよ。文句あるか!

純愛とエロチシズムとの狭間で
 1月12日(土)は午前中に東京バロック・スコラーズの初練習。みんな新年からやる気満々。8声のモテットを8人ずつで練習。その後幹事会を近くのイタリア料理屋で行う。超アルデンテのスパゲッティ(って、ゆーより、ほとんど生。おーい、煮えてねえぞ!)を食べながら今後の戦略的な会談をしてから群馬に来て、新町歌劇団と一緒に、ミュージカル「愛はてしなく」の練習。
 振り付け師の佐藤ひろみさんが来て、「青空娼婦」などの振り付け。え?娼婦?なんだそりゃ?と思うでしょう。そうです。このミュージカルには娼婦が出てくるのです。国立芸術小ホールでもやってます。その娼婦役の女性達が腰をクネクネさせて、
  おいで、おいでよ
あたしのとこへ
悩み苦しみ
全て忘れ

甘くせつない
ひとときに
身も心も
とろけよう
と踊るのです。ヤバイっす!皆さんの知ってるあの人もあの人もエロカワいい娼婦になってます。本番は8月ですが待ちきれないですね。このミュージカルのことはまたどこかで詳しく書くからね。

 というわけで明日13日(日)も10時から「愛はてしなく」練習。午後までやって、湘南新宿ラインで都内に出てきて、18時から新国立劇場で再び「ラ・ボエーム」の立ち稽古。

純愛とエロチシズムの間を行ったり来たりしている今日この頃です。
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