ぶっというんちの歌

 我が家では最近よく玄米食をする。娘達がまだ小学生の頃、一時期徹底的に菜食と玄米食になった時期があったが、あまりに素直な彼女たちが学校給食を食べられなくなってしまったので、普通食にもどしたことがある。今は玄米を買って精米器で精米して食べているので、その時に応じて玄米にしたり、三分づきにしたり、お好みの状態で食べている。
 
 愛犬タンタンは、最近はドッグ・フードではなく、妻が彼用に調理したスペシャル・メニューを与えられている。そこに試しに玄米を入れてみた。すると次の朝のお散歩のこと。いつもタンタンを抱えて登る歩道橋の手前で、タンタンは惚れ惚れするようなぶっというんちをした。
 それは、途中で切れることなく美しく一本の巨大なタラコのようで、しかも尾の部分はしだいに細くなって見事にディミヌエンド。そしてふっと途切れるようにとんがって終わっている。硬さも理想的。
「うわあ、タンタン!おりこうでちゅねえ。素晴らしいうんちだニャア!」
 僕は始末しながら、
「こんな見事なうんちは生まれてこのかた見たことがない。家に飾っておきたい。」
と思った。

 歩道橋の階段は自分で登れるくせに、タンタンはいつも僕に甘えて抱っこしてもらう。可笑しいのは、時々忘れて自分から登ってしまうのだが、途中で、
「あれえ?」
と思い出して、また僕にせびるのだ。
 その日は、あまりにお利口だったので、僕は彼を両手で大事に抱きかかえて階段を登り始めた。
「タ〜ンタ〜ンは〜、お〜りこう〜で〜、ぶっと〜いう〜んち〜が出〜まし〜たね〜。」
僕はタンタンを軽く揺すりながら陽気になって鼻歌を歌い始めた。テンポに合わせて僕は階段を登る。始めは小声で歌っていたのだが、しだいに調子に乗って声が大きくなっていった。
「ぶっと〜いう〜んち〜が出〜まし〜たね〜。ぶっと〜いう〜んち〜が・・・・。」

 その時である。登り切った歩道橋の陰からスッとおばさんが現れ、歌っている僕とすれ違って下に降りていった。ほんの一瞬の出来事だった。歌を止める間もなかった。僕は、背筋に冷たいものが走った。
「ゲッ!聞かれてしもうた。今の歌・・・・。」

チロリーン、鼻から牛乳うううううう!

まだまだベートーヴェン
 ポリーニから、しだいにアルバン・ベルク弦楽四重奏団の演奏する、ラズモフスキー以降の後期弦楽四重奏に興味が移ってきているものの、依然ベートーヴェン熱が冷めない。若い時にベートーヴェンに傾倒していたことはすでに述べたが、今初めてベートーヴェンに出会った気がして、まるで自分の心の中に再び青春が戻ってきたようなみずみずしい感動に包まれている。風邪もすっかりよくなり、再び行き帰りの京王線はi-Podでベートーヴェン漬け。

 若い時は、今よりずっと先入観に支配されていて、
「これは、素晴らしい作品だから聴くべきだ。」
という気持ちでベートーヴェンを聴いていたように思う。それに、
「偉大なる作曲家だから、ベートーヴェンの作品は、どこもかしこも崇高さに充ち満ちている。」
と思いこんでいた。それはそれでいいのだけれども、その事によってかえってベートーヴェンの本質を理解出来ないでいたように思う。

今、僕は、そうした先入観を全く捨て去って、裸でベートーヴェンに向かい合っている。

 皆さんは失望するかも知れないが、音楽というものは所詮音の遊びなのだと、僕はあえて言い切ってしまおう。ベートーヴェンの作品も、その遊びの部分を抜きにしていきなり精神性に向かうことは出来ない。だから作品というものをあまり買いかぶってはいけない。
 僕がベートーヴェンに惹かれているのは、まず音楽として“面白いから”なのだ。どの作品にも必ず「あっ!」と驚くような仕掛けが隠されていて、しかも揺るぎない作曲のテクニックがあって、音楽として独創的で才能に溢れている。まず音楽家としてのベートーヴェンの素晴らしさがあって、精神性を求めたり聖人扱いするのはそのあとなのだ。

 ベートーヴェンを聴く時は、あまり構えて聴かないで、まずは所詮遊びなのだからと思うべし。音の流れに身を任せ、その音達の発展、変奏、展開していく様を追いながら、それを楽しむ事に徹する。でも、そうするとね、その中に隠された本当の価値に目覚めてくるのだ。
 つまり、ベートーヴェンは音を使って遊んでいるのは事実だし、誰よりも立派に遊んでいるのだけれど、遊びだけじゃないんだな。遊びの中に、遊びを超えたものを表現したいと思っているわけ。深い精神性はあるのだが、音楽以外にはなくて、あくまで音楽そのものの中にあるということを僕は言いたいのだ。

 ベートーヴェンの響きが哲学的になったり宗教的になったりするのはいつもではない。むしろ、そういう作品の方が少ない。でも注意して欲しい。名前も特についていない普通の作品の中に表現された様々な感情よ!こっちのベートーヴェンこそ本当は素顔の等身大のベートーヴェンであり、ある意味、全ての感情がベートーヴェンの音楽の中で浄化され神聖なものとなるのだ。
 人間ベートーヴェンは、あまりユーモアも解せなかった人間らしいが、作品の中は案外ユーモアに充ち満ちている。作品から感じられるベートーヴェン像は、かなり魅力的な人間なのだ。

 まだベートーヴェンの音楽は僕の生活から離れそうもないな。この際だから徹底的にベートーヴェンに浸かりきってしまえば、そのショックで自分の内部から別の自分が生まれ出てくるような気がしているよ。

芥川賞に気が抜ける
 いやだよう、こんな小説!豊胸手術を受けるために東京に出てきた母親と、その母親とうまく意思の疎通が出来ないでいる初潮を迎えたばかりの小学生の娘の物語。読み終わってがっくり肩を落とした。
 第百三十八回芥川賞受賞作は、川上未映子(かわかみ みえこ)の乳と卵(ちちとらん)。

  直前の腰の重みも鈍痛も知らんうちになくなっていて、周期を乱して突然に生理がやってくること、わたしは赤黒く痕のついた下着の股の部分をなんとなくぼんやりした頭で見ながら放尿し、それは寝ぼけたなりにも驚くほど長い放尿で、その音を聴きながら股の部分についた血をぼんやり見ていれば、それはなんだか日本地図に見えないこともなく、大阪がこのあたり、んで行ったこともない青森が、とか思いながら、ああ汚したの、めんどい、洗濯の準備、めんどいなあ、風呂場に持って行って水に浸けるの、めんどい、なのでパンツの輪から足を抜いて、抗生物質を定期的に飲んでると体臭がなくなるという話はほんまかいな、を思い出してなんとなく臭いを嗅いでみた。

 普通だったら数個の文章に分かれるところを、丸ではなく点で果てしなくつないでいく恐ろしく長い文章の羅列は、関西弁の表情と相まって独特のリズムを持ち、まあ独創的とは言えるのだろう。
 これは徹底的に“おんな”の視点から書いた“女の小説”で、それ故に選考委員の一人である山田詠美さんをして、
「饒舌に語りながら、無駄口は叩いていない。容れ物としての女性の体の中に調合された感情を描いて、滑稽にして哀切。受賞作にと、即決した。」
と絶賛せしめるほどの“女性の共感”を呼び起こすのだろうが、そのために男性読者は完全に蚊帳の外に置かれてしまうなあ。ちょうど、女性ばっかりの三澤家で娘達が妻と下着の話なんかしていて、僕が横から、
「うん、それいいね。」
などと言おうものなら、
「パパ、エッチ!黙っててよ。」
と言われるような居心地の悪さと似ている。
 第一僕は女の愚痴というものが最も苦手だ。だから全編だらだらと愚痴のように語られるこの文体に、もうついて行けない。物語の構成は、最後のドラマチックな展開など、いろいろな仕掛けがあって決してつまらなくはないのだけれどね。
 石原慎太郎氏は、この作品に否定的で、
「どこでもあり得る豊胸手術をわざわざ東京までうけにくる女にとっての、乳房のメタファとしての意味が伝わってこない。」
と書いているが、僕には“おとこ代表”としての石原氏の意見がよく理解出来る。女が女のために書く徹底的に女の小説ならば、容れ物としての女の体の近視眼的描写と、そこからくる感情を描いて女性の共感を勝ち得ていればいいのかも知れないが、男を説得しようと思ったら、
「豊胸手術は何のため?誰のため?」
という部分をもっと追求して、“おんな”というものの持つ闇の部分に踏み込んで欲しいと思うわけよ。つまり性を超えた“人間の”普遍的なテーマに踏み込んで欲しいのだ。
 女性でも小川洋子さんは同じようなことを考えているようで、この作者の日本語の描写力を褒めた後で、こうも語っている。
「読み終えた時、もしこれが母娘の関係を描くのではなく、(豊胸手術を受けようとする)巻子さんの狂気にのみ焦点を絞った小説だったら・・・・・と想像してしまった。」

 それよりも力が抜けるのは、これが、芥川賞に値する作品っつーわけ?という失望感だな。まあ、芥川賞というものにどれだけ夢を持ち、期待するかということは別の話題として、今の若い世代の人達の周りを支配している世界観やリアリティというのがこの程度だから、この程度の題材や内容を持つ小説しか現れないのだろう。
 今更「ジャン・クリストフ」のような全人格的作品を書けと要求するつもりもないのだが、もうちょっと文学というものに、あるいは小説というものに夢が持てないのかな。文学というものはさ、なんとはない日常の中になんとなく起こったことをなんとなく書いて満足している身勝手で自己中な日記みたいなものではなくて、時には読者の人生観を180度変えるような啓示的な力を持ったものなのではないかと僕は信じたい。音楽にも文学にも、かつてはあらゆる芸術にそうした力が宿っていると信じられていたのではないか。だから人間は芸術をしてきたのではないか。
 芸術がそうした力強いものでないと、不景気になると真っ先にいらないものとして淘汰されてしまうわけよ。芸術の存在性なんて希薄なものなんだ。食べ物がないと人は飢えるし、家がないと人は冬にこごえてしまう。でも芸術はなくても誰も困らない。新国立劇場だって予算が削られている。オペラがなくなったら困ると本気で思っている大臣が我が国に一体何人いるか。
 だからこそ僕達芸術家は戦わないといけない。芸術が人間の精神にとって必要なものなのだということを主張しなければいけない。でも、どうやって?それには良い芸術を産み出していくしか方法がないのではないか。芸術家達よ、頑張ろうよ!

 おお、話が急に大げさになってしまった。でも芸術家は、常に自らの存在の基盤に対する危機感を持ち続けていかなければならないのだ。若い芸術家は、自分が認められたいという気持ちが強い。勿論それなくしては切磋琢磨もないし、優れたものも生まれない。でも、認められたら・・・・賞を取ったら・・・・今度は一般の民衆を相手に何を語り得るのかが問われるのだ。川上未映子さんの今後に期待しよう。って、ゆーか、男が共感出来るような小説を書いてくれえ。生理の描写はもういいから。

国を想う心
 「黒船−夜明け」で、アメリカ領事ハリスの命をつけねらっていた尊皇攘夷の吉田は、今こそ領事を刺し殺そうとした矢先、朝廷からの知らせを受け取る。その御沙汰書には、いかなることあろうとも、この異国人を撃ってはならぬとあった。観念した吉田は切腹を図る。上着を脱げば、そこには白無垢の死の装束が現れる。つまり吉田は、いつも自らを死の間際に置いていたのだ。
 領事はそれを見て言う。
「ああ、死なすに惜しきサムライよ。我を狙いしその心も、元はといえば国のため。国を愛するまごころは、御身も我も変わりはなきに。」

 幕末の時代、明治維新のために活躍した人達の大半は十代後半から二十代だった。尊皇攘夷で外国人を排除しようとした者達も、坂本龍馬のように開国に向かって奔走した者達も、新撰組になって彼等を阻止しようとした者達も、みんなみんな日本の国を愛し、国のために命を捧げる覚悟であった。

「嘆くまじ、喜びて我行かん。大君に捧ぐるこの命。」
こうした吉田のセリフを批判するのは簡単だ。でも、この現代に、こうした信念に代わる精神の支えがあるのだろうか。
吉田の切腹直前のセリフは感動的だ。
「新しき国と国との交わりに、開け行く平和の夜明け、今ぞあれ。」
自分を乗り越えていって、素晴らしい国となってくれという吉田の願いは、その頃の幕末の志士たち全ての想いだったのだろう。彼等の純粋な情熱がまぶしい。

山田耕筰「黒船−夜明け」は今週末公演。

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