対談講演無事終了

 講演会そのものを加藤浩子さんとの対談形式でやるという新しい試みだったが、いやあ楽しかった。なによりも加藤さんの女性らしいキャラクターがそれを可能にしたのだ。テーマは「若き日のバッハ」。バッハの生い立ちから、彼の音楽が生まれた背景、修業時代、そして就職、初めての結婚あたりまでを、写真付きで追っていった。基本的に加藤さんがしゃべり、僕が横からチャチャを入れる。

 数回に渡る打ち合わせで、講演会の冒頭を「バッハの土着性」から始めようということになっていた。これはかなり本質的なことだ。人はともするとバッハの音楽の普遍性や広がりについて語るが、加藤さんが僕に会って一番最初に言った言葉が、
「あたしはバッハにとても土着性を感じるのです。」
だった。これが僕には衝撃的だったのだ。それは何度となくバッハゆかりの地を訪ねている加藤さんだからこそ言える言葉なのだ。

 バッハは、その活動範囲をドイツ国内、それもチューリンゲン地方とザクセン地方という非常に限られた地域に限定していた。彼は生涯に渡って、おそらくドイツ国外に出たことは一度もなかったに違いない。しかも最後の就職地であるライプチヒをのぞいては、行ってみると分かるが、どこもかなりド田舎だ。

 それは、1685年すなわち、バッハと同じ年に生まれた同じドイツの巨匠ヘンデルと対比してみるとよく分かる。ヘンデルの軌跡は、バッハと対照的に華やかでインターナショナルだ。生まれ故郷のハレを出たヘンデルは、ハンブルクに行き、それからイタリアに渡った。ヴェネチアからローマ、ナポリと行って、一度ハノーファーに戻ったが、その後ロンドンに渡る。ここでおびただしい数のオペラとオラトリオを書き、最後はイギリスに帰化してイギリス人としてその生涯を終え、ロンドンのウエストミンスターに埋葬されている。
 ヘンデルは極端な例だったかも知れないが、一般に音楽家がその才能を開花させるのに必要なのは、その才能を認めてくれ、生活できる土壌、すなわち大都会を求めるのが普通だ。だからモーツァルトもベートーヴェンもその故郷を離れてウィーンに出てきたし、ポーランド生まれのショパンやリスト、ワーグナーまでもがパリを求めた。バッハくらいの才能があったなら、アルンシュタット、ミュールハウゼンやヴァイマールあたりで燻っていないで、さっさとパリでもミラノでも行ったらいいのにと思うが、そんな発想すら全く浮かばなかったのが、バッハのバッハたるゆえんなのだ。それでいて、
「自分の音楽をまわりは正当に評価してくれない。」
と嘆いたりかんしゃくを起こしたりしている。当たり前だよ。ド田舎なんだから。

 加藤さんは、それに対して二つの理由付けを行っている。ひとつは、チューリンゲン地方に代々住み着いていたおびただしい数のバッハ一族の影響。特に父親はアイゼナッハ郊外のヴァルトブルク城で楽士をしていたし、長兄はカノンで有名なパッヘルベルの弟子であったのだ。
 こうしたバッハ一族との結びつきの中で、バッハはオルガニストとして、あるいは宮廷や教会のための音楽を書き、奏でる職業に就く運命をごく当然に受け入れていた。しかもヘンデルのように、わざわざその土地を飛び出して、全然関係ないオペラ作曲家になるという必要性を感じることもなかったのだ。

 もう一つはマルチン・ルターとの結びつき。バッハが学んだアイゼナッハの聖ゲオルク教会学校は、かつてルターも学んだ学校だ。つまりバッハはルターの後輩にあたるわけだ。すぐ近くのヴァルトブルク城では、ルターは聖書をドイツ語に訳すという偉業を成し遂げている。この一帯は、昔はみんなカトリックだったが、ルターのお陰でプロテスタントに改宗した地域である。
 このようにバッハが育った地域は、まさにルターのお膝元なのだ。ケーテンの宮廷からライプチヒのトマス教会カントールに移って、そこで生涯を閉じるまで動かなかったのも、教会音楽をやりたかったからだし、ライプチヒという街は、都市の規模で言えば高崎や宇都宮くらいしかないけれど、教会音楽に限って言えば、ドイツの中では最高の地位であったからだ。

 勿論、加藤さんの主張する土着性とは、バッハの行動原理においてであって、その作品の中に込められた音楽の世界という意味では、土着どころか、時代や地域性を超えて燦然たる普遍性を獲得しているものである。でもバッハに土着性から入っていくことは、我々に新しいバッハ像を呈示してくれたと言える。

 加藤さんとの対談講演は、その後バッハの修業時代の話から最初の就職の話と続き、それから僕にバトンタッチとなって、バッハ初期の作風とカンタータ第106番「神の時はいと良き時なり」の簡単なアナリーゼとなった。
 休憩をはさんで後半はおなじみ爆弾対談と質疑応答になったが、前半でかなり時間オーバーしていたので、併せて35分ほど。それでもお客様が爆笑する場面も何度か見られる楽しい会になった。

 加藤さんとの対談講演は楽しかった。これはシリーズになるな。次は「ヴァイマールのバッハ」、その次には「ケーテンのバッハ」と続けていこうかなと僕は考えた。って、ゆーか、一人で勝手に考えて、まだ誰にも了解取っていないんだけど・・・・。

 

「魔弾の射手」出足快調
 森のようにも山のようにも見える舞台後方の壁が蛇腹のようになっていて、いろんな形に自由自在に変わる。ところが演奏者からすると、その度に残響に違いが出て、舞台上におけるオケや自分たちの声の聞こえ方が変わり、とても大変だった。
 たとえば「狩人の合唱」の一番は、すぐ後ろに壁が一直線に迫っていたので何の問題もなかったのだが、二番に入った途端に合唱が遅れ、さらに内部でもずれが出た。なんだなんだ、と思ってよく見ると、壁が後方に移動し、合唱団員達もそれにつれて舞台全体に広がり始めている。そうして前面にいる人と背後にいる人とで聞こえ方が全く違い、面白いようにずれるのだ。ではどうするかというと、僕がいいというまで、後方の人は意図的に早く歌い始めるとかして、修正していく。こうした過程を経て、オペラでは初めて本番が迎えられるのだ。

 僕は音楽練習の時にみんなにこう言った。
「僕のドイツ語の指導はかなり極端かも知れない。もしかしたらダン・エッティンガーをはじめとする外人達がやってきて、そこまでやらなくてもいいんじゃないかと言うかも知れない。確かに一般のドイツの劇場でも、ここまで徹底して語尾の子音を揃えたりやっていないんだ。でもバイロイトではやっている。そしてドイツ語における合唱のあり方のひとつの規範を示している。バイロイトでも、初めてやって来た合唱団員達は、最初笑うんだ。そこまでやるかってね。でもすぐに納得する。ディクション(発音をはじめとする言葉の扱い方)を揃えることが、いかに音楽的なことに影響を与えるのか、みんな理解するのだよ。いい発声であるほど、自分たちの母音で語尾の子音を覆い尽くしてしまう。だから語尾の子音をオニのように揃えて出すのだ。それからホールの響きが良いところほど、音をマルカート気味に切って歌う。これを守って欲しい。」

 ところが、ダン・エッティンガーの練習が始まると、ダンは僕に向かって即座に、
「発音も音程も素晴らしいじゃないか。ようし、もっと徹底的にやって世界に模範を示そうぜ!」
と言ってくれて、やり過ぎと笑うどころか、僕のあとを継いでさらに磨きをかけてくれた。お陰で、これまでのドイツ語作品の出来上がりにも増して、素晴らしいものに仕上がった。
 
 手前味噌というそしりを受けることを覚悟して言うけど、現在新国立劇場合唱団が「魔弾の射手」で歌っているドイツ語歌唱は、我が国における合唱のドイツ語歌唱の手本となるべきレベルに達していると思う。これに匹敵するものは少なくとも我が国では存在しない。
 ダンや演出のマティアス・フォン・シュテークマンは、
「演技力も含めると間違いなく世界一の合唱団だ!」
と褒めてくれているけれど、多少のお世辞が入っているとしても、今回の合唱団の仕上がりは、ちょっと胸を張ってもいいかなという感じだ。

それにしてもダンは見る度に進化している。こいつは将来結構いい線いくかも・・・・。

我が家の近況
 春になって、我が家の猫の額ほどの庭にある花壇が色とりどり賑やかになってきた。特にチューリップというのは可愛い花だね。お花ってどうしてあんなきれいなんだろう。人間をなごませるため?神様のお遊び?
 
 妻は3月から介護士の資格を取るために学校に通い、4週間の講義期間を終えて、今はあと何回かの実習が残っている。それが終わると晴れてヘルパーだ。講習期間中は、朝9時から始まる講義に備えて、8時過ぎに家を出る生活が続いた。我が家の花壇
 妻は保育士の免許を持っていて、僕と結婚した当時は保育園に勤めていたし、彼女の母親はずっと老人の施設でヘルパーをしていた。妻は僕よりずっと熱心なクリスチャンということもあって、元来福祉関係にとても関心があるのだ。今回の学校もよく通いとおしたよ。褒めてあげよう。

 長女志保は、ピアノ練習の傍ら早朝に家の近くのマクドナルドでアルバイトしていた。
「オペラのピアノ弾く時に、指揮者見たり歌手を聞いたり、演出家が直して次にどこから曲を返すか判断したり、いろいろ気を遣うでしょう。それから比べるとマックは楽だわ。それでね、店長に異常に飲み込みが早いねと言われた。」
という感じで喜んで通っていた。朝早起きして仕事してから、帰ってきてピアノをさらうと一日が活動的で充実するのだそうだ。
 そのマックで稼いだお金に国立ミュージカル・ワークショップの伴奏で貰ったわずかながらのギャラを足して、彼女は10日間くらいフランスに遊びに行った。帰ってくると、そろそろ二期会の「ナクソス島のアリアドネ」のプロジェクトが始まる。

 行く時に僕のVAIO君を持って行かせた。パリに居る次女の杏奈が、ジュースをこぼして自分のパソコンを壊してしまったからだ。志保がパリに到着するやいなや、早速中断していた杏奈のブログが再開した。
「パパのパソコンってさあ、ハードディスクめちゃめちゃ容量ないね。画像入れたらすぐいっぱいになっちゃう。」
「つべこべ言うな。これでも、買った当時の2000年のはじめには、12GBといえば多い方だったんだよ。夢のVAIOだったんだ。少したまったらDVDに焼きなさい。おっと、DVDドライブは入ってないんだ。CDだ、CDだよ。CDに焼いてハードディスクはなるべくお掃除して節約して使うんだよ。わかった?」
「チェッ、だせっ!」

 志保が留学し、杏奈も向こうに行くようになって、ずっと妻と二人だけの生活が続いていたけれど、昨年の夏から志保が帰ってきて、三人の生活に慣れてしまうと、今度は志保がつかの間でもいなくなるとなんとなく淋しい。志保が出て行った朝は、心の中にぽっかり穴があいたようだった。
 まあ、でも女の子なんていうのは、いずれ親なんか見棄てて家を出て行く運命にあるんだから、そんなこと言っていてはいけないな。親っていうのは、基本的に一種の片思い恋愛を永久に続けているような、報われないものなんだよね。そういう運命なのだから、ここは、
「エイヤーッ!」
と割り切るべきなのだ。

それより、そろそろ“孫”っていうものが欲しくなってきたな。
「じいじ!」
って呼ばれたいな。
・・・・・・いやいや、まだまだその兆しはないんだよ。ただ僕が思っているだけ。でも、僕もそんなこと思うようになってきたのは年取ってきた証拠だな。

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