「マタイ受難曲」演奏会前夜

 「マタイ受難曲」のオーケストラ練習が始まった。ガーデン・プレイス・クワイヤー常任指揮者の中島良史(なかじま よしふみ)さんが、一流のメンバーを集めてくれたので、オーケストラは素晴らしい音がする。ソリスト達も秀逸。
 中島さんは、今回は10歳も年下の僕が客演指揮するために、あえて合唱指揮者という立場を引き受けてくれた。それなのに、僕が練習でちっとも遠慮せずに、合唱団に向かって厳しいことを言うから、彼はずいぶんヒヤヒヤしているだろうな。まあ、練習に入ってしまうと、いいたいことを我慢できない性格なので、どうか許して下さい。

 僕は国立音楽大学声楽科一年生になったばかりの時に、中島さんが都響を指揮して行ったデビュー・コンサートに、声楽科合唱団としてかり出されて歌ったことがある。曲はカール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」で、全曲暗譜させられた。あの難しい「居酒屋で」の男声合唱を一生懸命覚えたのだよ。作曲科出身で指揮デビューなんて、あの当時は、とてもまぶしく思えた。
 それから、僕の音楽人生の恩人とも言える、高崎高校の大先輩でピアノ伴奏者の塚田佳男(つかだ よしお)さんが、
「三澤が国立音大に行ったのなら、僕の親友である中島良史というのがいるから、近づくといい。ちょっと変わった奴だけど、親切ではある。」
と言ったので、その後中島さんが担当する合唱の授業のアシスタントなどをして交流を深めた。なんでも中島さんは、塚田さんと生年月日が一緒だという。
 その中島さんが指導している合唱団は、入団オーディションがあって優秀な団体だ。ただ、今回の「マタイ受難曲」のような精神性の深い大曲は、個々の曲がうまく演奏できただけでは充分ではない。
 
 オケ合わせの一日目を終わってみていろいろ感じた。全曲に行き渡らなかったのは、僕の練習時間配分のまずさの反省もあるのだが、いろいろなところにこだわると、どうしても「通り一遍に通すだけ」というわけにはいかないからなあ。
 それに、このメンバーで合唱団も併せてどういう“かけがえのないマタイ”が出来上がるのか、という課題に関しては、これからだなと思った。といっても、明日1日の全員集合のオケ合わせと、木曜日の最後の合唱練習、それと当日のゲネプロしかないんだけどね。

 僕は、CDなんかで聴いて心地良いような整った演奏なんていらないのだ。そうではなくて、その時、その場に居合わせたことを奇蹟だと聴衆が感じるような演奏をしなければならないと思っている。そうでなければ、一生に何度演奏できるか分からないこの“人類最高の世界遺産”に対して申し訳ないと思うのだ。そういう意味では、何度この曲を演奏しても果てがないのだ。

 今回も僕は、風車に向かっていくドン・キホーテのように、守りになんか入ることなく、53歳の若気の至りで、がむしゃらに突進し、無謀なあがきをして、ドロドロになりながら何かをつかみ取りたい。キリストがこの世にやって来た意味と、救世主を自らの手で葬り去った人類の愚かさと、さらにそれを超えてあまりある神の慈悲の大きさと・・・・そういった気が遠くなるような真実に少しでも迫りたい。
 オケも合唱も、そのようなチャレンジに立ち向かっていくクォリティを持っているのだが、そうした感性と感性とのぶつかり合いが、どのレベルでなし得るかということだけは、やってみないと予想が出来ませんなあ。
 どうか皆さん、怖いモノ見たさで出掛けて下さい。いっとくけど、その辺にない「マタイ」が出来ていることだけは、間違いない気がするよ。

キーワードは、福音史家のテノール畑儀文(はた よしふみ)さんだな。

早くもワイワイな夏
 18日水曜日には杏奈が帰ってきて、家の中が人で一杯になった。娘達が子供の頃は、これが日常だったわけだが、今やこの状態は夏にしかあり得ないので、体が思い出すまで時間がかかる。タンタンは興奮して落ち着かないし、毎日がお祭りみたいでなんだか疲れる。
 一週間くらいすると慣れてきて平気になるんだけどね。すると今度は、夏が終わって杏奈が帰って行くと体にぽっかり穴があいたようになるんだ。これもまた、一週間くらいすると慣れてきて平気になるんだ。

 志保が高校一年で国立音大附属高校を中退してパリに渡った2000年からしばらくは、夏といっても4人は揃わなかった。何故なら、僕は夏にはバイロイトに行っていたからだ。7月上旬の練習期間に、志保はよく電車で一日かけてバイロイトに遊びに来た。その時はヨーロッパと日本で2対2。
 志保が日本に帰ると入れ違いに妻が来た。みんなが一度に来ないのはタンタンの面倒を見るため。妻が帰ると僕は、電話の向こうでいつも3人の声を聞いていた。音楽祭が終わって日本に帰ってくると、今度は入れ違いに志保がパリに帰って行った。こんなわけで超すれ違い家族だったのだ。
 やがて新国立劇場が忙しくなって、僕が夏にバイロイトに行かなくなると、今度は杏奈がパリに留学するようになった。その頃から夏に国立の芸小ホールで自作ミュージカルの公演をするようになって、志保と杏奈は演奏でかり出されるようになり、夏はにぎやかになったが、逆に夏以外は妻と二人だけの閑散とした生活になったのだ。
 志保は昨年の夏で、パリ国立地方音楽院のピアノ科と伴奏科を卒業し、パリでの生活を終えて帰国、日本でぼちぼち仕事を始めたから、それ以来、現在まで基本的には我が家は3人暮らしである。

 今年は杏奈の帰国がいつもより早い。というのは、今年は例年のような学期の間の夏休みではないのだ。帰国直前に、彼女の通っていたリュエイル・マルメゾン国立地方音楽院で卒業試験があり、杏奈はそこでプリミエ・プリ(一等賞)を取って卒業した。受かっても受からなくても、もう3年目なので、この学校は追い出されることが分かっていたため、試験直後に航空券を予約していたというわけだ。でも、まだパリでの勉強を続けたいので、別の学校に入り直すという。まだまだ彼女は僕のすねをかじり続けるつもりらしい。

 それにしてもパリの音楽大学は非情だな。基本は2年で、長く居られて3年。それでプリミエ・プリを取らないと、卒業とみなされなくて、つまりはただ追い出されるだけとなる。でも、2年間なんてあっという間で、とても落ち着いて勉強出来る年月ではない。音楽は、成熟までに時間がかかるんだ。日本の音大だって4年で、さらに勉強の足りない人は大学院とか行くだろう。ドイツなんて、僕が留学していた頃は、卒業試験さえ受けなければ、何年いたってよかった。こっちの方がはるかに人間的だ。

 彼女が帰ってきて、また家の中からあのうるさいクラリネットが聞こえるようになった。志保のピアノ、杏奈のクラリネットにはさまれて、妻は大変だ。僕はというと、ヘッドフォンをしてクラビノーバを弾いたり、パソコンでスコアを書いたりしているので、一番静かな音楽家。僕は、別に演奏家というわけではないので、音を確認したり、鍵盤上で考えたり、つまりクラビノーバで充分なのだ。

 でも、なんとなく聞こえてくる杏奈の音が少し変わった。プリの試験に向けてかなり頑張っていたようだからね。音が飛ぶようになったので、ますますうるさくなった。ブログのPas a Pasを始めたのも、心境の変化があったのだろう。だいぶ考え方もしっかりしてきたようだ。
 8月になると、自作ミュージカル「愛はてしなく」で、またエレクトーン奏者達と一緒に2人は共演する。「ナディーヌ」「おにころ」と続いて共演するごとに、少しずつ成長していく彼女たちを見ていくのは楽しい。今年はどんな仕上がりになるだろうと、今から楽しみにしている。おっと、その前に、オーケストレーションだ!早く仕上げなくっちゃ!

「愛はてしなく」キャスト集合してテンション上昇
 その「愛はてしなく」では、16日の月曜日にメイン・キャストがくにたち市民芸術小ホールに集合して、音楽稽古と立ち稽古を行った。その後18日の水曜日にも立ち稽古。今回のキャストは、かなり良いぞ。このミュージカルの理想的キャストと言ってしまってもいい。
 その中でも、大森一英(おおもり かずひで)さんという歌手は、新国立劇場合唱団に置いておくのはもったいない人材だが、新国立劇場でもなくてはならない人材なので、いてもらわないと困る。彼は“チョイ悪”の役がピッタリだな。前回の「おにころ」の庄屋も適役だったが、今回のローマの司令官アリウスに、大森さんほどの適役はいない。

 時はパックス・ロマーナ、すなわち古代ローマ帝国の最も平和な時期。ところが選民思想を持つユダヤの地だけは飼い慣らすことが出来ず、謀反と暴動が絶えない。この地は、ローマ帝国の唯一の悩みの種。そんな時、新任の司令官としてユダヤの地にやって来たアリウスは、前任のトラキウスが、娼婦を買うという名目で、高級娼婦であるマリアから熱心党の情報を得ていたことを聞く。
 謀反人を捕らえ、ローマの平和を維持する命を受けて赴任したアリウスにとって、現代のアルカイダのような組織、熱心党の情報を握っておくことは必要不可欠なことだが、アリウスはマリアを人目見るなり、その美しさに圧倒される。そして、情報を得ただけで実際にはマリアに手を出さなかったトラキウスをあざ笑う。アリウスはマリアが油断している間に、彼女を無理矢理抱きしめ、唇を奪う。そしてささやく。
「私はトラキウスとは違う。さあ、隣の部屋へ・・・。」

 次に2人が登場する場面は、情交を終えたばかりのベッド・シーン。(おお、ヤベー!行政の施設でやっていいのか、こんな場面!でもちなみに裸にはなりませんからね。)そこでアリウスはマリアにプロポーズするが、熱心党の首領ノアムを恋人に持つマリアは即答を避ける。その横顔を見つめ、疑惑の心を持つアリウス。
 やがてマリアは、ノアムの所に会いに行く時に後をつけられ、逢い引きの後でノアムは逮捕され、処刑場に送られる。アリウスは、マリアに、ノアムの命を助けて欲しければ、自分のものになるよう強要する。マリアは、アリウスを刺して逃走。絶望の中で死を決意する。

 こんなヤバイ役。誰にでも出来るものではない。大森さんのワルぶりを見に来るだけでも、この公演は必見ですぞ。最後にイエスに逢って改心し、彼もイイモノになるのだけれどね。僕の場合、ワルモノだけで最後まで突き放しておいておくことは出来ないのだ。
 それから、アリウスと熱心党首領のノアムという二人の男を手玉に取る悪女マリアを、國光ともこさんがどう演じるかは見物だ。

 またマリアが、盲目の少女アンナと出逢い、やがては母のような存在になろうと決心するが、その2人の心の交流のシーンなど、各場面にすでにウルッとくる箇所あり。早くもこれは、かなり良い公演になりそうな予感がしてきた。みんなおいでよ。

 って、ゆーか、ローマ兵の役があと二人足りないんだけど、誰か演じに来てくれない?出てきて、ただ捕まえるだけなんだけど、誰もやる人がいなくて、このままでは上演できません。男声で、強そうで・・・・いやいや・・・・贅沢は言いません。弱そうでもいいです。本当に、ただ出てきて捕まえるだけなんだけど・・・・。衣裳はあります。

 本人でなくてもいいから、近くにローマ兵が出来そうな顔をしている人がいて、その顔にピンときたら、即刻僕に通報して下さい。ただちに捕獲します。

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