「マタイ受難曲」演奏会無事終了
  私は自分の罪を否みません
  しかし、あなたの恩恵と愛は
  はるかに大きいのです
  絶えず私の内に宿っている罪よりも
 指揮しながら思っていたことは、この40番コラールの言葉。つまり人類がどんな罪を犯そうとも、神はそれをすでに許しているということだ。どんな罪の深淵があろうとも、そのはるか底辺から神はとてつもない愛をもってそれを抱きとめている。そんな確信が僕の胸の中に満ちていた。
 人の親になってみれば分かるが、自分の子供がなにか悪いことをしたとしても、親はそれで子供を愛しなくなったりはしない。だが、子供の罪はそのまま見過ごすわけにはいかない。やはり子供には、自分の罪は罪として認め、親に向かって、
「ごめんなさい。」
と言ってきて欲しいのだ。それで子供が謝ってきた時には、もう親は赦しているのだ。人の親がそうなのだったら、神はもっとそうなのだ。

 礒山雅(いそやま ただし)氏は、「マタイ受難曲」のことを、バッハによる慈愛の熟成と位置づけているが、演奏している立場からすると、救世主を自らの手で葬り去るという“人類最大の愚行”を、哀しみをもって見つめ、さらにそれをも大きく包み込んでいる神の慈愛が、曲のどの瞬間からも感じられるのだ。バッハの心の中の慈愛が、神の慈愛に辿り着いたのだ。そしてそれが作品に溢れているのだ。
 僕は、この曲を演奏する度に、救世主の受難について思いをはせ、“人類の愚行”を演奏を通して見つめ、そしてまさに演奏を通して神に、
「ごめんなさい。」
と言い、神と人類との和解に少しでも役立っているような気がするのだ。演奏しながら感じているのは、自分が赦されているという確信。それどころか、会場全体が神の慈愛で包み込まれている実感だ。そうした神の慈愛のあたたかさは、まさに子供が謝った時の親のまなざしそのものなのだ。

か・・・風が譜面をめくる!
 何度も暗譜で指揮しているので、曲は覚えている。でもチェンバロを弾く時に、福音史家のレシタティーヴォやアリアを自由に楽しんで演奏出来るようにと、今回はあえて譜面を置いた。
 ところが困ったことがひとつあった。いつも使っている大型のベーレンライター版スコアは大き過ぎてチェンバロに乗らないのだ。そこで急遽、いつも勉強用に持ち歩いていたポケット・スコアを使うことにした。
 オペラシティのチェンバロは、新国立劇場所有のチェンバロと同じNagelチェンバロだが、現代のグランド・ピアノの譜面台のように譜面を乗せる角度が変えられない。本番の数日前にオペラシティに試弾に行った時、分厚いポケット・スコアのページが戻ってきてしまうのに気がついた。もっと角度が浅ければいいのだがそうもいかない。仕方ないので、スコアをめくっては体重を掛けて押さえつけ、ページが戻らないように本にくせをつけた。そのお陰でページは戻ってこなくなった。これでOKのはずだった。ところが・・・・。

 ゲネプロの時、会場のエアコンの風が舞台下手から上手に向かって流れているのを感じていた。僕が弾き振りをすると、奏者から見にくくなるので、僕のチェンバロは台の上に乗っている。だから譜面台のある位置は特に高い場所にあるので、ちょうど風の通り道になっているらしい。会場にはたぶんサーモスタットがついていて、温度が上がると調節するのだろう。ある一定の間隔でサーッと風が吹いては止んでいた。その風が僕のスコアのページを左から右へめくってしまう瞬間があった。
 ゲネプロが終わってから、これをなんとかならないものかホール側に問い合わせてみたが、エアコンなのでどうしようもないとのこと。まあ、あのくらいなら仕方がないか、後半に何度か起きただけだからとあきらめた。楽屋に戻って、ページが戻らないようにもう一度楽譜にくせをつけて、これで安心と思った。

 ところが、本番になって聴衆が入ったら大変なことになったのだよ。まだ前半はよかったのだが、後半になって聴衆の熱気が会場の温度を上げていったのだろう。風が吹きっぱなしになって、しかもゲネプロの時とは問題にならないくらい強く吹いている。お陰で、ページをめくってはめくり戻される。特に最後の二つの福音史家のレシタティーヴォの頃になると、押さえていないとどんどんページがめくれてしまう悲惨な状態になった。アリアや合唱曲は暗譜しているので問題ないが、やはりレシタティーヴォは見ないと不安だ。 アリアで譜面から離れて指揮し、戻ってくるととんでもないページが開いている。 レシタティーヴォは、常に弾いていなければいけないわけではなくて、福音史家が歌うのに合いの手を合わせるだけなので、間に休みがある。で、ずっとページを押さえていて、合いの手を弾くために押さえている手を離すと、もうめくれる。ジャンと弾いてまたページを戻し、譜面を押さえる。また次のジャンを弾こうとするとめくれる。またジャンと弾いてページを戻し譜面を押さえる。それの繰り返しだった。
 
 レシタティーヴォが全て終了すると、チェンバロを弾かない最後の二曲は暗譜しているので、
「さあ、これで受難物語はおしまい。あとはキリストへのレクィエムを奏でましょう。」という意味で、楽譜を聴衆の前で閉じてチェンバロの後ろに立ち、指揮棒を持ってその二曲を演奏しようと思っていた。ところが楽譜が閉じてくれない。風に揺れてひらひらしている。
 こういうことは本番になってみないと分からないんだ。まあ、僕もほとんどは暗譜していたのだから、どうせなら全部暗譜で弾けばよかったのかなとも思った。きっと聴衆もはらはらしたのだろうな。

頑張った、ガーデン・プレイス・クワイヤー
 で、肝心の出来上がりはどうだったのかというと・・・・・ガーデン・プレイス・クワイヤーは僕の要求に精一杯応えてくれた。本番近くなっても盛り上がってくるのが遅いし、僕がこの受難劇に感じているドラマや宗教観をなかなか理解してくれなかったので、随分練習場で厳しいことを言ったが、土壇場になって見違えるように変身してくれた。
 オーケストラもとても良い音を出してくれた。そして、僕にとっても、今回だけのかけがえのない「マタイ」が出来たと思う。福音史家の畑儀文(はた よしふみ)さんは凄い人だ。ゲネプロと合わせて二回まるまる、全く声を抜かないで全力で歌いきった。とにかく、僕に今回の演奏会の機会を与えてくれた中島良史(なかじま よしふみ)氏に、もう一度感謝を献げたい。
 
 それにしても「マタイ受難曲」は気の遠くなるような凄い作品だ。一生の内にあと何回演奏できるのだろう。まあ、何年か後には、東京バロック・スコラーズで一度は演奏しなければいけない。この作品をやらずして東京バロック・スコラーズが解散などしたら一生の後悔だからな。それまでみんな仲良く元気でいるんだよ!わかったあ?

 

二つの20世紀オペラ
 28日土曜日の午後には三つの公演が重なっていた。ひとつは僕が指揮したオペラ・シティでの「マタイ受難曲」。隣の新国立劇場では、若杉弘芸術監督によるドビュッシー作曲「ペレアスとメリザンド」。そして東京文化会館では、二期会主催公演、リヒャルト・シュトラウス作曲「ナクソス島のアリアドネ」だ。
 新国立劇場合唱団指揮者としての僕は、本当は「ペレアスとメリザンド」に関わらないといけなかったのだが、「マタイ受難曲」を依頼された方が、「ペレアス」よりずっと早かったので、今回は残念ながら「ペレアス」合唱指揮を辞退した。
 でも練習を聴きに行って、ドビュッシーのオペラに対するアプローチの仕方にあらためて驚いた。ドビュッシーは途中まではかなり熱心なワグネリアンだったが、ある時からワーグナーに見切りを付け、アンチ・ワグネリアンとなった。
 でもこうやって聴いてみると、ワーグナーがいなかったら「ペレアス」はなかったのだ。確かにワーグナーがあの色彩的な大管弦楽でドラマチックに盛り上げるところで、「ペレアス」では、むしろオケは衰退していき、
「愛してる。」
とささやくところでは、オケは完全に沈黙する。
 
 でも、その方法論はワーグナーと一緒なのだ。言葉と音楽との究極的な関わりという意味では・・・・。それどころか、リアリストという意味では、むしろドビュッシーの方が上かもしれない。
 ワーグナーのライト・モチーフのように、音楽に無理矢理概念的意味づけを与えるよりも、より感覚的なドビュッシーは、むしろ朗誦風の歌唱部分を“象徴的に”彩ることにとどめている。でもそのお陰で、音楽的世界はより大きな広がりを持つ。
 だから僕はドビュッシーをアンチ・ワグネリアンだとは思わない。強いて言えば、裏ワグネリアンだ。あるいは裏継承者と言ってもいい。現にそこに表現されたものは、「トリスタンとイゾルデ」に匹敵する画期的な世界だ。それにしても美しいねえ。ドビュッシーの音の世界って・・・・。現代音楽のようには聞こえないけれど、ドビュッシーのやっている事って、とても新しいのだよ。僕は「ペレアスとメリザンド」って大好きです!

 一方、自他共にワグネリアンであることを認めているR・シュトラウスの方が、僕にはワーグナーから遠い感じがする。「ナクソス島のアリアドネ」では、前半のプロローグの部分で、作曲家の芸術性よりも興業を最優先する劇場支配人に翻弄されるキャストやスタッフ達が描かれているが、シュトラウスは、作曲家の役に、自分の置かれている立場を自虐的に重ね合わせていたのだろう。
 ワーグナーも、若い頃はそんな劇場のあり方に腹を立ててもいたが、そんな不満をオペラの中で表現するよりも、さっさと自分の作品のみを上演する劇場を自分で建ててしまった。ワーグナーは自分の芸術に酔っていて、自分の内面にとても多忙なため、世間に対しては盲目だ。シュトラウスは違う。シュトラウスは世間を見ている。とても冷徹な眼でもって・・・・。
 そうでなければ、いくらホフマンスタールの台本だといったって、悲劇の最中に喜劇役者が登場するこんな物語に作曲するわけがない。シュトラウスに対しては、僕はいつも不満に思っていた。あれほどありあまる才能がありながら、それをどう使っていいか分からない。彼の場合、最初に才能があり、それから芸術衝動がきた。

 僕の中では、シュトラウスの作品の中で、「薔薇の騎士」が何といっても一番。次に「サロメ」だった。「ナクソス島のアリアドネ」は話が馬鹿馬鹿しすぎてかなり下のランク。

 でも、今回、二期会の「アリアドネ」を観て、ちょっと考えが変わった。それは鵜山仁(うやま ひとし)さんの演出が、馬鹿馬鹿しい道化役者達の存在を、思いっきり馬鹿馬鹿しくすることによって、かえってシュトラウスならではの独創性をあぶり出してくれたからである。
 三輪車やぬいぐるみや浮き輪。それに舞台に張り出したキッチュなライト。それによって、哲学的で宗教的であまりにも真面目なワーグナーの後には、もはや道化しかないだろうという、シュトラウスのメッセージが明確になった。しかも、画一的で型にはまったプリマドンナとプリモウオーモよりも、ツェルビネッタ達の方がずっと魅力的で、しかも真実性がある。なにより道化役者達の音楽が軽妙でイカしてる。とはいえ、ヒロイン達のはてしなく続く艶やかな音の洪水も捨てがたい。

これがシュトラウスの世界なんだと思った。

 僕が見た二日目の公演では、ツェルビネッタを歌った安井陽子(やすい ようこ)さんが圧巻だった。実は、彼女はウィーンに留学する前に、八王子高校で教員として教えていて、そこに通っていた次女の杏奈が副科声楽を習っていたのだ。それに彼女のご主人の友清君は、新国立劇場合唱団のメンバーでもあった。そんなわけで以前から知っていたが、大きな成長を遂げたのを誰よりも嬉しく思っている。音楽教師をした我らが初鹿野剛(はつかの たけし)君も頑張っていたよ。こうした後進達の活躍を無条件で嬉しく思うようになったのに気づくと、自分も歳を取ったのだなあ、としみじみ思うね。
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