「スターバト・マーテル」演奏会無事終了

 休憩なしで一時間半指揮し続けるのは楽ではない。おまけに舞台上は暑く、汗がだらだら出てくる。ふと見ると、テノールの小林彰英(こばやし あきひで)さんの額からも汗が流れている。第一曲目は、この曲だけで20分近くもある。重い。肉体的に大変という意味もあるが、振っていて悲痛な内容に押しつぶされそうになる。
「なんでこんなに悲しいんだ?」

 第四曲目まではずっと短調で、いろんな種類の苦悩、慟哭、悲嘆がこれでもかと表現される。ソリストの四重唱曲である第二曲目なんかは、結構うまく進んでいて、
「いいぞ、いいぞ!」
と思っているのだが、嬉しさよりもしんどさが支配している。

 第五曲目は初めての長調。僕はこれを“癒しの曲”と割り切り、ゆったりめのテンポで、暖かくやさしく表現した。中間部は短調でやや激しい曲調になるが、全体的にはこの曲で聴衆は初めて癒される感じだ。
 この曲が終わった時、僕は指揮台からいったん降り、チューニングの時間を作った。これは僕の作戦。まあ、作戦と言うほどでもないが、ちょっと聴衆をホッとさせたかったのだ。

 その後は長調の曲が続く。男声合唱を従えたテノール・ソロがかっこいい第六曲。ゆったりとした合唱曲の第七曲。痛ましさは、いつしか和らいできているように感じられる。それと共に、僕の体も不思議と楽になってきた。
 僕が一番好きなのは第八曲目。冒頭から転調を繰り返していく、明るいとも暗いともつかない陰影に富んだ和声が好きなのだ。聴いていて分かりやすいドヴォルザークの音楽であるが、時々こうした独創的な和音進行が見られる。
 第九番目は、短調なのだがそんなに悲しくはない。山下牧子さんのような力強いアルトと一緒に演奏すると、不謹慎ながら演奏していてむしろとても楽しい。

 と思ったら、もう終曲がやって来てしまった。
「え?もう終曲?もっと演奏していたい!」
不思議だね。前半は内容が重く、肉体的にはまだフレッシュなはずなのに辛い感じがするんだ。逆に、肉体的にはもっと疲れているはずの後半で、どんどん元気が出てくるのだ。それで終曲の中で最初にニ長調で、
「魂には、天国の栄光を!」
と合唱が高らかに歌う箇所に来ると、僕の元気は全開になる。
 前半で涙する人は多いだろうが、僕はここでこそ最も感動するのだ。自分で笑ってしまった。僕ってなんてノーテンキな人間だろう!悲しみの感情を表現するのは決して不得意ではないのだが、その時、自分の方からマイナス波動は出したくない。やはりどんな時でも“信仰と希望と愛”、これだけは決して手放せないのだ。僕はそういう人間なのだ。

 で、この作品。あんなに高らかにアーメンと神をたたえながら、また盛り下がっていき、最後は静かに終わるのだ。ノーテンキな自分としては、スコアを最初見た時には、ちょっと残念と思った。バシッとフォルテで決めてカッコ良く終わりたかった気がした。でも、よくよく考えてみたら、前半の内容からするとそれはないのだろうと思った。「万歳!」だけでは終れないだろう。それにきれいだから、これはこれでいいじゃないか。

 終わり近くでヴィオラが、第九の冒頭のような六連符を弾くのは、きっとドヴォルザークは意図的なんだろうな、何を考えてこの音符を書いたのだろうな、と考えていたら、終わりの和音になってしまった。
「あ、名残惜しい・・・・こんないい曲なのに、もう終わってしまう・・・・いやだ、終わりたくない!」

最後の和音を切るのが実に切なかったよ。そして沈黙・・・・嵐のような拍手。

 今、打ち上げを終えて、ほっとしてこの原稿を書いている。志木第九の会のみんなも、とても頑張ってくれた。今までで一番良いかもしれないし、この団体にこの曲が合っていたね。今晩のビールもうまかった。なんてったって、僕は打ち上げのビールのうまさがたまらないから演奏会を指揮するんだからね。あっ、ウソ、ウソ。それだけではありませんよ勿論!

 みんなお疲れ様!僕の音楽を実現してくれようと、真摯な姿勢で音楽に立ち向かってくれた東京ニューシティ管弦楽団には、特別拍手を送りたい。ソリストの皆さんも素晴らしかった。タン・ジュンボさん、第四曲目のソロ、カッコ良かったよ!黒澤明子(くろさわ あきこ)さんのスパーンと伸びる高音は、いつ聴いても気持ちが良いなあ。頭の中には、まだ音楽が鳴り響いているし、いろいろ想い出しながらも、今日の一日も無事終わる。神様、ありがとう!

i-Pod大活躍
 i-Podが仕事の行き帰りで大活躍している。特にBOSEのノイズキャンセリング・ヘッドフォンにしてから、音質が良いのと、騒音をシャット・アウトされて静かなのとで、ますますi-Podライフが快適になっている。
 それでも聴くものは限られている。例外はあるが、好んで聴くのは、バッハ、ベートーヴェン、そしてジャズだ。モーツァルトや、ほとんどのロマン派作品は聴く気が起きない。
何故かというと、それらの曲は、沈黙を必要とし、その沈黙を含めたところで雰囲気を大切にする音楽だからだ。
 たとえばシューマンの歌曲は、時として休符が多く、その休符が音符と同じくらいの重要さを持っている。前に一度だけi-Podにフィッシャーディスカウの「リーダー・クライス」を入れて聴いて以来、二度と聴く気がしないのは、その休符が作り出す沈黙を“音楽として”味わうことが出来なかったから。
 ノイズキャンセリングとはいっても、全く無音になるわけではないし、そもそもうるさいところで聴くためにノイズキャンセリングを使用するわけだから、あたりはやはりうるさい。こうした状況では、完璧な意味での鑑賞は難しいなあ。だからこんなところでは無理して聴かなければいいのだという結論になって、聴いていない。
 ロマン派といっても、勉強のために聴く「スターバト・マーテル」や「パウロ」などは勿論別だ。勉強は鑑賞とは別で、スコアを頭に入れている時は、どんなエモーショナルな曲でも、音楽を音符という記号に変換し、“論理的に”頭に入れていくのだから。音質が悪くても空間性がなくても別にいいのだ。

 一方、バッハのように、そもそも論理的にcompose(作曲、組み立て)されている音楽は、i-Podでは大歓迎だ。主題が展開していって、ひとつの構造物を形成していく。その構築性を味わうことにウエイトが置かれているから、どれを聴いても満足いく。
 抽象的になればなるほどそれは顕著で、「フーガの技法」などは、どんなうるさい環境でも音さえ聞こえていれば平気だ(笑)。平均率クラヴィーア曲集などは、ピアノよりもチェンバロ演奏の方がi-Pod向きだ。リヒテルのように、ピアノで陰影を醸し出されては、i-Pod的には迷惑なのだ(笑)。

 ベートーヴェンは、時々空間性を必要とするので、バッハほどi-Podには向かないが、ピアノ曲や弦楽四重奏曲などは、あまり極端にダイナミックが変わらないので、落ち着いて曲を味わえる。

 最もi-Podに向いているのは、なんといってもジャズだな。ジャズは徹底したポリフォニー音楽で、論理的という言葉が当てはまるかどうか分からないけれど、それぞれのパートが、その割り当てられた和声の上で、どのようなインプロヴィゼーションを構築するかに興味が集中するわけだから、ある意味、バッハのフーガと同じ楽しみ方が出来るのだ。

 ところが、ジャズでもたまに騒音を拒否するような音楽に出遭う。先日、電車の中でキャノンボール・アダレイのアルバム「サムシン・エルス」の「枯葉」を聴いていた。キャノンボールの、上手なのだが、やや饒舌で垂れ流し風のアルト・サックス・ソロの後、入ってきたマイルス・デイヴィスのソロを聴いて、ハッと思ってi-Podを止めた。
 マイルスのソロは、例によって徹底的に省エネ。最小限の音を選び取っていくのだが、その時彼が必要とするのが空間性なのだ。だからこのソロは電車の中では聴けない。府中駅で電車を降りて、バス停に向かいながらまたつけた。マイルスのソロが良くて、途中歩みが止まり、ひとり涙しそうになった。バスは一台やり過ごした。
 マイルスは、他のジャズ・プレイヤー達とは全く違うことを考えている。テクニックを駆使して自分のソロを完璧に作り上げることよりも、自分のソロがバンド全体にどんな影響力を与えるか、それによって全体がどのようなサウンドを作り出すのか、そこまで考えて一音一音を紡ぎ出す。何かの音を突いて突然止める。するとまわりのミュージシャンが動き出す。フレーズを途中で止める。すると沈黙の空間(実際にはバッキングのリズム隊は動いているが)がそれを完成させる。
 こうして作られたマイルスの隙間だらけのソロには、なんともいえない都会の孤独とか憂愁とかが漂っている。こんな演奏をされると、ノーテンキに電車の中では聴いていられなくなる。こいつもi-Pod的には迷惑なプレイヤーだよ、全く!

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