トゥーランドット初日間近

「ノアの箱船」
 高崎線の新町駅に降り立った途端、予想よりも肌寒い風に驚いた。群馬では秋が一足先に進んでいる。東京と空の色が違う。雲の形が違う。ひっそりと静寂に沈む街。しみじみと深まっていく秋。
 8月の「愛はてしなく」公演以来、初めて訪れた郷里。「あいはて」の想い出は、真夏の呵責ない熱風と共にある。アスファルトが焼けてゆらりと陽炎(かげろう)の立つ、自宅から文化ホールまでの真っ直ぐな道を、クラリネットを担いだ杏奈と一緒に汗だくになりながら歩いて練習に通ったのが昨日のことのよう。

 新町歌劇団に行くと、なつかしい顔が僕を待っていた。「愛はてしなく」であんな大変な思いをしたのに、もう次の公演に向けての練習が始まっている。
 次の演目は「ノアの箱船」だ。かつて娘達が幼稚園生だった頃、国立さゆり幼稚園には父兄の中に何人も音楽家がいたので、何かやろうと集まって音楽会をやった。その時、僕が作詞作曲して作ったのが音楽劇「ノアの箱船」だ。題材は無論旧約聖書から。
 後に、これを一度新町歌劇団用に作り替えて上演したのだが、今回、音楽劇ではなく子供のためのミュージカルとしてリメイクした。というより、今リメイクしている最中。何が違うかというと、ナレーションが入っていたのをやめて、セリフと音楽でつないでいく。それと主役のノアの他に子役と鳩が登場する。

 舞台は現代から始まる。男の子が学校から帰ってくる。母親は働きに出ており、父親はいない。恐らく離婚している。がらんとした部屋で独りぼっちの少年は、何気なくテレビつけるが、見るわけでもない。ニュース番組は、最近の異常気象の事や、不可解な児童殺害の事件などを告げている。そこに突然、鳩が登場し、少年に話しかける。
「今の世の中は危ないわ!あの時代とそっくりよ!」
 そして、少年は鳩と共に、ある時代のある場所に時空を超えてタイムスリップする。そこには荒廃した社会の中、ノアという男が一生懸命生きていた。神様はノアに箱船を造ることを命令する。世の中は、破滅に向かってすでに秒読みを始めている。
 と、まあ、まだ構想の段階。今、投げかけなければならないメッセージをこの作品に込めようと思う。子供には重いかなあ?でも楽しい場面もいっぱいあるよ。何より、子供の親に見てもらいたいのだ。この世の中、本当にヤバイから。

 

トゥーランドット初日間近
 カラフを演じているヴァルテル・フラッカーロは素晴らしいテノールだ。ブリリアンテな美声、安定した発声。有名な「誰も寝てはならぬ」をこんな風に歌える人は、パバロッティ亡き後もうあまりいないだろう。
 一方、日本人勢も健闘。リューの浜田理恵さんは元来僕の大好きな声。知的で情感に溢れているという相反する要素を併せ持っている数少ないソプラノだ。リューの死の直前の有名なアリアもいいが、その前の独白の部分が僕は大好きだ。叙情的で長いので、子供オペラには残念ながら採用しなかったのだけれどね。

 トゥーランドット姫がリューにたずねる。
「誰がそれほどの力をお前の心に与えたのか?」
するとリューは答えるのだ。
「愛でございます、姫様!」
「愛?」
「心の内に秘められた、打ち明けられる事のない大きな愛でございます。」
この部分を彩る弦楽器の美しさはたとえようもない!

 リューというキャラクターは、ストーリー的にはどうみたって脇役で、むしろカラフとトゥーランドットの愛の成就には邪魔ともいえる存在だ。でもプッチーニは、そんなリューに異常なほどの感情移入をする。おそらく、彼の愛した使用人ドーリア・マンフレードの面影が、作曲していく内にどんどんふくらんできたのだろう。そして、リューの死の場面と、彼女を悼むティムールの絶唱や合唱のレクィエムを書き終わってからは、もう一音も書き続けることが出来なくなってしまったのだ。
  「リュー、よいひと!許しておくれ。リュー、やさしいひと!お眠り。忘れておくれ。リュー、Poesia!(こういうのは日本語に訳せないなあ、「詩よ!」というべきか、あるいは「詩情よ!」か?) 
 この最後の合唱部分には、すでに彼岸の音が響いている。この部分を絶筆としてプッチーニは世を去った。プッチーニの魂はドーリアの元に行ったのか?
ともあれプッチーニよ、ありがとう!こんな美しい合唱曲で絶筆となってくれて。

「トゥーランドット」の初日は、10月1日、水曜日。新国立劇場。

飛ぶ教室
 「カラマーゾフの兄弟」を光文社古典新訳文庫で読んだ話は以前した。そのシリーズでいろんな本が出ている。ケストナーの「飛ぶ教室」もあったので買ってみた。原語で読んでいるので、どう印象が違うのか興味が湧いたということもある。短いので、行き帰りの京王線で読み切ってしまった。
 「飛ぶ教室」は、児童文学ながら前半部分は読み易くない。途中で放り出してしまう子供も少なくないだろう。それに、時代の違いをも感じる。ケストナー文学の根底に流れている「貧困」という要素も、現代の子供達にはピンとこないだろうなあと思う。
 にもかかわらず、読み進んで行くにつれてどんどん引き込まれ、半分ほど読んだところで初台に着いてしまった時は、
「ちぇ、『トゥーランドット』の練習、早く終わらないかな。続きを一刻も早く読みてえな。」
と思ってしまった。で、帰りの電車でまた半分読んだわけ。

 今回初めて分かったことがある。それは、この小説に託したケストナーの想いだ。ケストナーは、きっとやさしい人だったのだね。そして子供の心を忘れない。大人から見るとちっぽけなことでも、子供にとって命を賭けた大問題ということもある。ケストナーの筆は、そうした子供達の様々な想いに肉迫する。
 
 馬鹿にされているチビのウーリは、自分が勇敢であることを示すために、高い体操用ハシゴの上から傘を使って飛び降りてみせる。案の定、傘は壊れウーリは骨折する。でもケストナーは、ウーリの行為を「愚かな行為」と一蹴することなどしない。人間、やらなければならない時にやらなければならない事があるものだ、という感じで肯定的に描いている。
 
 成績ナンバー・ワンのマルティンの父親は失業中で、クリスマス休暇のマルティンの帰省の旅費が送れない。マルティンはひとりで寄宿舎に残らなければならない。彼は必死で「自分は男の子なんだから泣いてはいけない」と気持ちを抑える。休暇前にクラスで上演した芝居「飛ぶ教室」の演技も上の空で、食事も喉を通らない。
そんなマルティンの心に、正義さんと呼ばれるベーク先生がそっと救いの手を差し延べる・・・・・。

 この物語に出てくる大人達はみんないい人だ。きちんと生徒の心と向き合う良い先生だったり、少年時代の心を失わずに生きている素敵な人間ばかり登場し、寄宿学校の生徒達は、そんな大人達をとても尊敬し愛している。
 こんな学校あるわけねえだろ。こんな先生今どきいるわけねえだろ、と最初は思ったよ。でも、ハッと気がついた。子供達にとっては、尊敬できる大人が自分の周りにいて、大きくなったらあんな大人になりたいなと思えることこそが最も大きな幸せなのだ。ケストナーは、そう言いたくて、こんな良い大人ばかりの物語を書いたのだ!

 「飛ぶ教室」が作られた1933年は、ドイツではナチが政権を取った年。ケストナーに対する迫害の始まりの年でもある。ケストナーの本はドイツでの出版を禁止され、この年、はじめてゲシュタポに逮捕されたと年譜には書いてある。本はチューリヒから出版されるが、1942年になると今度は執筆禁止の命令を受ける。
 大人達が、尊敬できない行動をとり始め、世界が誤った方向に進み始める時に、こうした素敵な大人達とそれを尊敬する子供達の物語を書いたケストナーには、強い願いと覚悟があったに違いない。それは、現代に生きる我々にも大きなメッセージを投げかけているのだ。

 子供の世界は大人の世界の反映だ。大人達を見て深く失望している現代の子供達は悲惨だ。彼等の心の中には、“不信”という深い闇が巣くっている。子供達が見上げてまぶしいようなきちんとした大人がいて、その生き方で自然と子供達を感化することがいかに大切なことか。そのためには我々が、いかにきちんと生きなければならないか。我々大人は本気で考えなければならない。
だからみなさん!飛ぶ教室を読みなさい!
  階段のところでマティアスが言った。
「あの先生のためなら、おれ、首くくられてもいいぜ」
ウーリは、心のなかで泣いていたような顔で、言った。「ぼくだって」
ウーリへのイジメが発覚した時、クロイツカム先生が生徒達に書かせたセンテンス。
  「どんな迷惑行為も、それをやった者にだけ責任があるのではなく、それを止めなかった者にも責任がある」
 
  夕べの祈りが終わってから正義さんが、生徒みんなの前で短い演説をした。「さあ、心から感謝しよう」と、正義さんが言った。「チビのウーリがどうしてもやらなくちゃと思っていた実験が、ちょっとした事故にとどまって、惨事にならなかったからだ。もっとひどい結果になる可能性もあった。ここにいるみんなには念のため、きびしく言っておきたい。この種の勇気を流行になんかにしないように。勇敢であることも、勇敢でないことも、できるだけひっそりやってもらいたい。(以下略)」 

いろいろマイ・ブーム続く
 i-Podの中身がめまぐるしく替わっている。小野リサの歌はいいなあ。中古CD屋さんで買ったRomance Latino vol.2があまりに良かったので、vol.3もどうしても欲しくなり、また中古屋さんに行くけど売ってない。そこで、タワー・レコードで新品を買ってきた。
 CDは中古屋さんでもOKなのだが、これが欲しいと思って行くと大抵ないなあ。「たまたま出回っているものしかない」というのは中古屋さんの宿命だから仕方ない。
vol.3も良かったが、僕はやはりバラード中心のvol.2が一番好きだ。あの、耳元で息をハアーッって吹きかけられるような、セクシー・ヴォイスがたまらない。とは言っても、小野リサの歌には、にじみ出る人の良さというのか明るさがあって、不健康でないのがいい。

 ある、妻のいない午後の昼下がり。愛犬タンタンと一緒にソファでくつろぎながらvol.2を聴く。タンタンは僕に体をぴったりくっつけている。僕はタンタンの首筋をゆっくりと撫でている。BOSEのスピーカーから流れ出る小野リサの歌は、部屋全体をゆったりと幸せな気分で満たす。悲しくもないのに、何故か涙がひとすじ頬を流れた・・・・。
 後で妻に言ったら、
「そういうのって、女の子が言う言葉よ。」
と馬鹿にされてしまった。

 アンドラーシュ・シフの弾くバッハに魅せられている僕は、ピアノ協奏曲集やゴールドベルク変奏曲だけでは飽きたらずに、平均率ピアノ曲集のCDを買ってきた。これもかなり良い。ただ第一巻のト短調フーガなどは、もっと重厚な演奏を期待していたが、全体的にあっさりな感じはするね。相変わらずノンレガートな演奏は小気味良い。シフのマイ・ブームは、まだまだ僕の元を去りそうにない。

 i-pod Actuelleにマイルス・デイヴィス・コーナーを新設したら、
「やっぱり世紀の名盤と言われるKind of Blueを載せないと始まらないだろう。」
と思って、Kind of Blue を聴き直している。先日この欄で、整っているけど他にもっと好きな演奏があると言ったばかりなのにね。でも名盤は名盤!
 マイルスのCDは沢山出ているが、必ずしも初心者向けでないアルバムも多いので、僕の文章を読んで当てずっぽうにCDを買った読者が幻滅し、マイルスを嫌いになったりしたら残念。みんなにマイルスの真価を理解してもらいたいから、道先案内人を引き受けたい。

 そのマイルス最大の“駄作”という評判のQuiet Nightsというアルバムを買ってきた。どう駄作なのか知りたかったからだ。それがね、そんなに駄作でもない。いや、それどころか結構良い。ボサノバの流行にあやかって、ギル・エヴァンスの編曲でボサノバCDを作ったが、全然売れなかったという。当然だ。だって、このアルバム、全然ボサノバではない。
 坂本龍一は、旅行に行く時に必ずこのアルバムを持って行くそうだ。確かに、他のアルバムにはないおしゃれな音がしている。ボサノバさえ期待しなければ、これはこれで悪くない。マイルスのトランペットの音がいつになく明るいのが笑える。でも強烈なコンセプトと凝縮力を持つ「スケッチ・オブ・スペイン」を聴いた後では、なんとなく色褪せるなあ。買って損した感じはしないけれど、みんな、別に買わなくてもいっこうに差し支えないからね。

 あと、マハビシュヌ・オーケストラの「火の鳥」がi-Podには入っている。この言葉にピンとくる人は、年齢がバレるし、しかもかなりのオタッキー。マイルスがロックをやり始めた頃に採用したジョン・マクラフリンという超絶技巧のスーパー・ギタリストが作ったグループ。なかなかいいんだ。これもレコードで持っていたものをCDで買い直した。
 「希望」「サンクチュアリィ(聖域)」「決意」など、思わせぶりなタイトルが続き、インド音楽への傾倒も見られるが、その宗教性は、コルトレーンの晩年と同じように眉唾物。でも、何かを求めているエネルギーには心打たれるものがある。この時代にはみんな真面目に生きていたんだ!

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