アッレマンディの振り方

 「トゥーランドット」が終わった。指揮者のアントネッロ・アッレマンディは、本当はとても分かりやすく振れる人なのだが、いろいろ考えるところあって、結果として棒が分かりにくく、客席後方の監督室から赤いペンライトでフォローするのに苦労した。
 何を考えていたのかというと、柔らかく艶やかな音色と、豊かでパワフルなサウンドが欲しかったのだ。そのため、わざと打点をぼかし、まるでタコのように腕の関節をくにゃくにゃ曲げる。気持ちは分かるのだが、「何故月の出が遅い」のゆっくりな合唱などは、そのままではぐちゃぐちゃになってしまうので、
「ごめんね。」
と思いながらも、彼の棒を翻訳するように、しっかり打点を立ててフォローした。
 彼としては多少ずれても雰囲気優先と思っていただろうが、こちらはそうはいかない。特にNHKが録画しに来ていた公演では、僕はまるで指揮法の模範図形のように振った。もし誰かが僕とアッレマンディの二つの動きを見比べていたら、全く無関係な動きに見えただろう。それほど翻訳は難しかった。何カ所か先読みがはずれて、ミニマムだけどずれてしまった。まあ、タイミングは合っているんだけど、縦割り過ぎてつまらないとかとはならなかったし、アッレマンディの意図する雰囲気は壊さないように配慮していたとは思うんだが・・・・そのうち放映されるのでみんなで確かめてみよう。

 オーケストラというのは、本当に振り方一つで音色がガラッと変わる。特に弦楽器などは、彼の棒によくついていった。フレーズのラインが長く続き、随所でハッとするような艶っぽい音が出ていた。楽員達は、
「分かんねー!」
と言っていたけどね。
 楽員達にとってみると、それが遠目にどう聞こえるかなどについては、案外分からないことが多い。もしかしたらアッレマンディは、彼等にとってはただの合わせずらい指揮者だったかも知れない。ところが距離を置いて客観的に聴くと、一音一音紡ぎ出す現場とは違った面が見えてくる。こういうところが音楽の面白いところだ。
 あまりアッレマンディの棒が遠くに行き過ぎてオケが崩壊しそうになると、パッと分かりやすく振って、立て直させる事が出来るのだから、元々がきちっと振れる人だし、やることは全て意図的なのだ。だったら、最初から分かりやすく振ればいいという意見もあるが、まあ、その分からないところに味わいもあるというものだ。

 彼の指揮ぶりは僕に、バイロイト音楽祭で1999年に「パルジファル」を指揮していたシノポリを想い出させた。シノポリの「パルジファル」も、こんな艶っぽい音が出ていた。このような音を引き出す指揮者の場合、やはり打点が分かりにくくなる。だから合唱指揮者ノルベルト・バラッチとよく喧嘩していたっけ。
 シノポリは、2000年からミレニアム・リングと呼ばれたユルゲン・フリム演出の「ニーベルングの指環」公演の指揮をし始めたが、次の年にあっけなく死んでしまって、もうあの打点のないタコの足のような指揮ぶりが見れなくなってしまった。とても残念だ。でも叙事的な「リング」より、神秘的な「パルジファル」の方が、彼の指揮ぶりには合っていた。

 やり方はちょっと違うが、カラヤンも同じようなことを考えていた。カラヤンは、若い頃は、音楽作りも指揮する姿も竹を割ったような明快そのものという感じだったが、晩年になるにつれ、オーケストラから洪水のように溢れ出る艶やかな響きにこだわってきた。 最後は、もうそれだけという印象だった。チャイコフスキーやブラームスだったらともかく、モーツァルトでもみんな音がつながってしまったのには閉口した。でも、彼の亡き後、現代でベルリン・フィルからああいう音色を引き出せる人はいないなあ。って、ゆーか、もう出てこないだろうなあ・・・・。

 おっとっと、思い出話が始まってしまった。年寄りになった証拠だね。とにかく、アッレマンディの指揮は、オケもよく鳴らして彼ならではのサウンドを作り出していた。優れた指揮者だと思う。
 じゃあ僕が真似するかと言われると、うーん、やらないなあ。僕は、リズムがあるところではリズムを立てたいから、始終くにゃくにゃとは振れない。で、もし長いフレージングが欲しくなったら、僕は、アッレマンディのやり方よりも、カラヤンの腕の動かし方をパクルと思う。腕の関節ではなく、背筋を伸ばして肩からレガートを操るんだ。
 アッレマンディの方法は、オケにはいいが、舞台上で演技している合唱団などには危険すぎるんだ。僕のようにペンライトで翻訳してくれる人がいれば話は別だ。

 彼は、僕のことをとても信頼してくれたよ。気さくな人で、稽古期間中にいろんな話をして仲良しになった。オペラ以外ではマーラが好きだと言っていた。僕が「大地の歌」を振ったと言ったら、うらやましがっていた。やりたいけど機会がないんだって。
 僕が11月にメンデルスゾーンの「聖パウロ」をやるんだと言ったら、
「メンデルスゾーンはきれいだけど、彼がいなくても音楽史には影響ないんだ。」
と言うから、カチンときて、
「『聖パウロ』という作品をよく知ったら、そういうことは言えなくなるよ。これは音楽史上に燦然と輝く作品なんだから。」
と言ってやった。

 公演が終わって別れ際に、
「あなたの作る艶っぽい音色が好きでした。」
と言ったら、
「まさにそれを思って振っていたのさ。いやあ、分かってくれたか、嬉しいな!」
と、とても喜んでいた。

 来年の初めに二期会の「椿姫」を指揮するためにまた来日する。
「僕の娘がピアニストで入るから、よろしくね。」
「おお、それは結構。君は来ないの?」
「僕は、ここの専属だから・・・・でも、稽古はのぞきに行かせてもらいますよ。」
「そうかい、どんどんおいで。またいろいろ話そう。」

 でも・・・・志保は、棒が分かりにくくて苦労するだろうな。今頃リヨンで一生懸命譜読みをしているところだ。稽古が始まる前に、彼の棒の癖を教えてあげねば・・・・。

新製品i-Pod Nano
 新発売したばかりの第四世代i-Pod Nanoを買った。ひやあ、薄くてカッコいい!8 GBと16 GBのタイプがあって、勿論16 GBの方が高いが、迷わずそっちを買った。色はブラック。

 i-Pod Actuelleでも書いているとおり、僕はCDからインポートする時に、圧縮して音質が劣化するのが嫌なので、非圧縮のWAVEファイルで取り込む。CDは一枚につき600 MBから700 MB必要とするので、これまでの4 GBしか容量のないi-Pod Miniでは、二枚組の「聖パウロ」とか「蝶々夫人」を入れると、もう他のものがあまり入れられないのだ。
 
 尼崎のアルカイック・ホールでの「蝶々夫人」公演の勉強を始めたので、少なくとももう一種類の「蝶々夫人」を入れて交互に聴きたいと思った。でも、そうするともう他のものが入れられない。「蝶々夫人」公演のある週は、公演が終わっても東京に帰らずに、名古屋に途中下車して、「聖パウロ」のオケと合唱の集中練習をするものだから、一週間近くの小旅行になる。その間に「蝶々夫人」と「聖パウロ」しか聴くものがないというんじゃ、息が詰まる。
 そこで思い切って新製品を買ったというわけだ。これだとi-Pod Miniよりずっと軽くて小さいのに、4倍もの容量がある。それにしても薄くなったね。本のしおりにもなりそうだな。なくしてしまいそうなので、シリコンケースとストラップを買って、首からかけて聴いている。
 16 GBどころか、もっと大きい容量が欲しければi-Pod Classicというのもあって、なんと120 GBだって160 GBだって入るのだ。でもねえ、別にそんなには要らないし、あんな小さい画面で動画を見る気にもならない。それに、パソコンと同期するために、パソコンのハード・ディスクの容量も取られてしまう。第一それは、Nanoのようにスマートではなく、ドカンと重くて大きくてダサイのだ。ダサイの嫌い!
 やっぱり買うならNanoに限るよ。ちょっと高くても16 GBにするべし。なあに、たかが2万3千8百円だ。

 お店で買って驚いた。すごく小さい箱に入っていて、CD-Romもついていない。説明書を読むと、自分で勝手にインターネットでアップルのサイトにアクセスして、i-Tunesをダウンロードして、勝手に設定を行うこと、なんて書いてある。な、なんて、不親切な・・・・。
「あんた、i-Podやるくらいなんだから、そのくらいのこと自分で出来るでしょ。分からなかったら誰かにきいてね。こっちは忙しいんだから・・・・。分かった?」
って言われているようで、なんとなく尻尾が丸まりました。
 家に帰って、i-Tunesを立ち上げてから、USBからi-Podを接続すると、あれれれ・・・・自動的に設定してくれたよ。いやあ、簡単になったね。シリアル番号や製造番号を自分で入れることもないのだ。それで、すでにi-Tunesに製造番号が登録されている。

 「蝶々夫人」や「聖パウロ」を入れても、まだまだ余っているので、最近のマイ・ブームのCDをみんなインポートした。シフも小野リサもマイルスも勢揃いだい!でも、いつも常駐しているんじゃ、i-Pod Actuelleという言葉も、だんだん合わなくなってくるな。困ったな・・・・。

CDを買いに
 「蝶々夫人」は、トゥリオ・セラフィン指揮ローマ聖チェチリア音楽院管弦楽団で、テバルディの蝶々夫人とベルゴツィのピンカートンの版と、サー・ジョン・バルビローリ指揮ローマ歌劇場管弦楽団で、レナータ・スコットの蝶々夫人と、やはりベルゴンツィのピンカートンの版の二種類が入っている。
 しかし、なんだね。イタリアのオケというのは、スカラ座は別として、アンサンブルが全くなってないね。聴いていてイライラしてきたので、もっとオケのちゃんとしている演奏を買いたいと思った。

 新国立劇場での練習後、新宿駅で降りて、タワー・レコードに向かう途中、先日結婚したばかりのバリトン団員K君に会った。CDを買いに行くと言ったら、
「そういえば三澤さんは小野リサ好きだってホーム・ページに書いてありましたね。イタリア語でカンツォーネを歌ってるCDって、とてもいいですよ。」
と言うので、「蝶々夫人」と一緒に、またまた小野リサを買ってしまったではねえの。クラシックとジャズとボサノバが同じ階にあるのがいけないんだな、新宿タワー・レコードは。
 
 Questa Bossa Mia(TOCT-26548 EMI)というアルバムは、確かにK君の言う通りアレンジがしゃれていて、しかもオー・ソレ・ミオなんかは、大声張り上げる歌い方に慣れているだけに、「ケ・ベッラ・コーザ」なんて、あのハスキー・ボイスでささやかれると、とても新鮮だ。チャオ・チャオ・バンビーナやヴォラーレも、通常のギターをジャラジャラ鳴らして賑やかにやるのと違って、都会的でいい。
 小野リサの魅力は、あのちょっと太めの声だ。ヴァイオリンではなくヴィオラという感じ。さりげなく歌っているように見えて、実はとても細かく表情をつけている。ブラジル生まれの彼女の得意とする言語はポルトガル語だが、イタリア語の表現もなかなかのものだ。
 イタリア語は、ローマ字読みで日本語と似ているから簡単だなんてとんでもない!僕が新国立劇場合唱団で、イタリア語の発音だけではなくイタリア語的表現にどれだけ気を遣っているか、知っているかい?発音だけ正しくても駄目なんだよ。小野リサが、あそこまでイタリア語的表現が出来るためには、とても努力したのではないかな。いや、もしかしたら天性の勘で、一瞬にして出来ちゃったということなのかも知れないけどね。
 とにかく、小野リサはただものではないです。先日、ノラ・ジョーンズのCD買ってきたけど、一本調子ですぐ飽きちゃった。そばにあるだけで気分悪い。誰かにあげたい。僕は、女性歌手には評価が厳しいのだ。

 結局「蝶々夫人」は、カラヤン版を買った。カラスとの旧盤ではなくて、フレーニが蝶々夫人を歌っている新盤。ウィーン・フィルがダントツにうまいねえ。ベルリン・フィルはオペラに慣れていないけれど、ウィーン・フィルは母体がウィーン国立歌劇場だから、ニュアンスもある。

 オケのスコアを目で読むのと、実際に出てくる音のバランスや色を耳で聞くのとでは、いろいろ違いがあるのだ。それを確認するためには、良い演奏を聴くことは不可欠なのだ・・・・といいながら、もう僕は新国立劇場で12回も「蝶々夫人」を指揮しちゃっているので、今までの取り組みってどうよ、って感じだけどね。

 CDの聴き方も、趣味で聴くのと、こうして目的があって聴くのとでは大違いだね。歌手に集中して聴いている時は、オケは邪魔しなければいいという感じだけれど、自分が指揮する立場で聴くと、
「ゲッ、こんな風に勝手に歌われると困るな。」
とか、
「おお、この楽器をこういう風に出すと、こういう風にオケ全体の印象は変わるのか。」
など、いろいろ思うのだ。

僕の三種類の「蝶々夫人」は、これから11月中旬まで、新i-Podの中で大活躍するというわけだ。

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