ケートの善意と偽善

voi(あなた)とtu(君)
 オペラをただ聴くのと違って、実際に仕事として関わってみると、いろんな事に気がつく。「蝶々夫人」はピンカートンのことをtuではなく最後までvoiで呼んでいる。ピンカートンは最初から蝶々さんのことをtuで呼んでいる。voiとは相手に対する敬称。tuは反対に親しい相手に親愛の情を感じながら呼ぶ言葉だ。
 相手が自分より年上だからvoiで、年下だとtuというわけではない。家庭では子供は両親のことをtuで呼ぶし、神様に対して呼びかける時もtuで呼ぶ。要するにvoiで呼び合うかtuで呼び合うかは、両者の距離感からくるのだ。voiで呼ぶということは、
「私はあなたと距離を置きますよ。」
という意思表示なのだ。

 一方、日本では昔から、無口な夫が家に帰ると、「飯、風呂、寝る」の三つの言葉しかしゃべらないなどと言っている。妻は三歩下がって夫を敬い、夫と言い争うなどとんでもない!こうした関係は、まさに夫婦であっても、妻が夫のことをvoiで呼び、逆に夫が妻をtuで呼ぶ距離があることを物語っている。

 シャープレスは蝶々さんと二人きりになった時、
「君はまだ僕に愛していると言ってくれてないね。」
という。欧米の夫は妻に毎朝、あるいは折あるごとに何度でも言うだろう。ところが日本では、夫婦間では滅多に言わない。そして蝶々さんも、最後まで愛しているとは言わないのだ。
 第三幕でピンカートンの本妻であるケートが来た時、聴衆は本能的に、
「ああ、これはもう駄目だ。」
と思う。何故だろう。それは、ケートとピンカートンが対等にtuで呼び合っている仲であり、毎朝I love youと言っているような関係であることが一目瞭然だからだ。
 
 ピンカートンにとってみると、蝶々さんのように気を遣ってもらって最上限に敬われれば気持ちが良いには違いないだろうが、どこまでもへりくだる蝶々さんを見ている内に、彼の心の中に、どこか相手を下に見る気持ちが起きたとしても不思議ではない。欧米人は、相手をvoiで呼び続けるような女性とは決していつまで経っても本気で向かい合おうとしないだろうし、もし本気で考えたとしたら、すぐに相手にtuで呼ぶように要求するだろう。こうした、当時の日本とアメリカの文化の差について、台本はとてもよく表現している。

ケートの善意と偽善
 さて、このピンカートンの本妻であるケートという女性であるが、僕は結構思い入れがあり、初めて蝶々夫人を指揮した時から、必ずケート役の人にはケート像のあり方について注文をつけてきた。
 ピンカートンがいつ蝶々さんとのことをケートに告げたかは分からないが、ケートは聞いた時、恐らく死ぬほどショックを受けたに違いない。ピンカートンに対しても言いしれぬ不信感を持っただろう。けれど、彼女はそれを乗り越え、さらにピンカートンの現地妻である蝶々さんの子供を自ら引き取って育てようという決心までするのである。

 僕はケートはアメリカ的プロテスタントの女性だと思う。ちょっと意地悪的に言うならば、優しくて聡明で、そして慈善的な気持ちに溢れている・・・・と、自分で思っている。万人が平和であることを心から望んでいるが、自分の家の黒人の使用人には、ぞんざいで冷たく当たり、時には容赦ない仕打ちをする。そしてそのギャップに対しては、何の疑問も感じてはいない。つまり彼女は、基本的に白人の優等意識を持っているが、それに自分で気がついていない。
 蝶々さんの子供を引き取って育てようと決心したのは素晴らしいが、自分のことをなんて心の広い慈善家なのだろうとうぬぼれ、その博愛的精神に酔っている。心のどこかでは永久にピンカートンを赦してはいないが、この事件によって、ピンカートンに対して生涯に渡って絶対的優位の立場を得たことは、彼女の自尊心を大いに満足させている。

 蝶々さんの前に現れたのは、まさにそんな女性だったのだ。彼女は高所から蝶々さんを見下しながら思う。
「かわいそうな人ね。いいわ、あたしは優しいからピンカートンのことも赦したし、お子さんも自分の子供のように育てるつもり。あなたはもう何も心配しないで、安心して新しい人生を考えて下さいね。」
でも、本当はそう思っていない。そう思いたいだけ。実は、心の底ではこんなこと考えている。
「ふん、3年も便りひとつないのに、何もしないでだたひたすら待っていたなんて馬鹿な女だこと。見たところ子供みたいでセックス・アピールも全然ないし、どう考えてもあたしが脅威に感じるような女ではないわ。ま、ちょっと安心したわね。ピンカートンもピンカートンよ。こんな面倒くさい女に引っかかるなんてどうかしてるわ。それにこの女は貧乏なのね。そんな状態では子供も満足に育てられないでしょうから、あたしが育ててあげる。子供と離れるの寂しいでしょうけれど、仕方がないわよ。自業自得だし、いい気味だわ。」

 蝶々さんの本当の絶望は、ピンカートンに裏切られたことが分かったからではないのだ。ある意味、楽天的な蝶々さんは、裏切られても、もし自分に会ってくれたなら、ひょっとしたらまたあの時のように自分に魅力を感じてくれて、長すぎた不在を詫びてくれるのではないか、そしてまた愛の関係が始まるのではないかと、いまだに期待していたのだ。
 だがその希望が完全に打ち砕かれるのは、ケートの姿を見て、女として決定的な敗北感を味わった時なのだ。

 ケートは蝶々さんに向かって言う。
「お子さんを渡して下さいますか?」
蝶々さんは無表情に答える。
「(あなたにではなく)あの人が引き取りに来てくれれば、(あの人に)差し上げるつもりです。」
 ここに蝶々さんのギリギリの気持ちが集約されている。このやりとりをする時のケートは、上に述べたことを本当は思っていながらも、外見的にはめちゃめちゃ優しくていい人を演じなければならない。蝶々さんに、あんたに渡すのではないからね、と言われても、表情をピクリとも変えてはいけない。
「なによ、素直じゃないわね。」
なんていう顔をしてはいけない。ケートはすでに絶対的勝利の中にいるのだから、
「こう言わなければならないほど、追い詰められているのね。なんてかわいそうな人。」
という顔をしていなければならない。

 それで、非の打ち所のないほどの慈愛に満ち溢れた表情を見ている聴衆が、その完璧な仮面の中に偽善の匂いを感じ取るようでなければいけないのだ。
「なんか変だぞ・・・こんな風に優しくいられるのか?本当か?本心か?うーん、気になるなあ。」
と思われるようでないといけない。
 ね、とても難しいでしょう。ケートを演じるということは・・・・。ラスト・シーンで泣けるかどうかは、案外このケートにかかっているのだよ。ケートはその存在そのもので、蝶々さんの希望にトドメを刺すのだからね。
 今回ケートを演じるのは、僕のお気に入り歌手山下牧子さんだ。ドボルザークの「スターバト・マーテル」での名演は記憶に新しいところ。彼女は僕の言うことを真摯に受け止めてくれて、とても良いケートになってきたよ。本番が楽しみ。

元気で乗り切ろう
 「蝶々夫人」の立ち稽古のお昼休みに、元気をつけようとオペラシティの地下のテキサスというステーキ屋に行って、サーロイン・ステーキににんにくをたっぷり塗って食べたり、お酒を控えていたりしたことが効いて、かかりそうだった風邪は、なんとか退散していった。今週は尼崎公演、次の週の日曜日は名古屋で「聖パウロ」と本番が続いているので、なんとか元気で乗り切りたい。

 特に尼崎公演はスケジュールがタイトで、月曜日のオケ合わせは二組のキャストのために、一日で二回通さなければならないし、火曜日の現地でのピアノ舞台稽古も、次の日のゲネプロも、一日に二度ずつやるのだ。一回通すだけでも結構しんどいのに二回だものな。ま、それを乗り切ると、本番はさすがに一日一回だから、とても楽に感じたりしてね。

 公演が木曜日、金曜日で、その足で名古屋に行き、土曜日、日曜日は、「聖パウロ」のオケ練習とオケ歌合わせ。それでやっと東京に帰ってくる。最近地方に連泊することがあまりないので。なんだか楽しみな感じがする。
 同行する東フィルのメンバーの中には、
「三澤さんと呑むぞう!」
と張り切っている人も(東京バロック・スコラーズにも出演している某オーボエ奏者とか)いるそうだが、二回オケ合わせした後で元気が残っているかどうか分からない。まあ、元気ならば一日目の本番が終わった後でも是非行きたいとは思っている。

淋しいことと嬉しいこと
 今一番淋しいこと。筑紫哲也(ちくし てつや)さんが亡くなったこと。三枝成彰(さえぐさ しげあき)さんの「忠臣蔵」の合唱指揮をしていた時だったっけなあ。一度インタビューを受けたことがある。いろんなことを鋭く追求していくジャーナリストとしての立場とは裏腹に、瞳の中にのぞかせるやさしさが印象的だった。

 今一番嬉しいこと。オバマ氏が大統領になったこと。僕は個人的にブッシュが嫌いだった。民主主義やキリスト教的価値観を基準に、他の民族にもそれを押しつけようとする態度が独善的で嫌だったし、何か起こると全て力で押しつぶそうとするやり方も好きではなかった。
 初の黒人大統領とは画期的だ。これでアメリカが変わっていってくれるのを期待する。強いアメリカは、もう世界中どこからも望まれていないから。ぜひ他の価値観も受け入れる寛容で優しいアメリカになって欲しい。

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