ヨハネの仕上がりが見えたぞ!
 2月7日は、東京バロック・スコラーズにとっては、とても大切な一日だった。14:00から福音史家の畑儀文(はた よしふみ)さんとチェロの田崎瑞博(たさき みずひろ)さん、それに本番でチェンバロを弾く僕、さらにイエス役の大森一英(おおもり かずひで)さんと、バス・ソリストでピラトも歌う塩入功司(しおいり こうじ)さんも加わった合わせをした。
 つまりヨハネ受難曲のドラマ作りの根幹を担う最重要な人達との練習。畑さんの素晴らしい語り口を中心に、立体的なドラマが出来上がっていく。田崎さんのチェロも本当に優秀!これは素晴らしい出来になるぞとゾクゾクしてきた。

 夕方になって合唱団員がやってきた。大森さんは昼間で終わり、塩入さんは合唱とのからみがある24番アリアとイエスの死の直後の32番アリアだけ合唱団と合わせて帰って行った。
 その後は畑さんと田崎さんを交えての荒通し練習。ピアノを2台使って、合唱用には土居瑞穂(どい みずほ)さんが弾き、僕は福音史家のレシタティーヴォを弾く。福音史家から合唱への受け渡しの練習は、様々な編成が混在している受難曲をひとつのユニットとして成立させるためには欠かせない。
 僕は、普段の練習でも必ず自分で歌いながらレシタティーヴォと一緒に合唱曲を練習してきたから、合唱団は畑さんとの初めての合わせでも違和感なくドラマに溶け込んでいる。

 こうして、めちゃめちゃ疲れたけれど有意義な一日が終わった。来週は合宿だ。合唱団はまだまだ磨きをかけなければならない箇所がたくさんあるが、
「あっ、見えたぞ!」
と思う瞬間が沢山あった。何のことかというと、3月8日の演奏会の仕上がり状態の話。恐らく、来てくれた人達が驚くような、どこにもない「ヨハネ受難曲」が出来上がる確信が生まれたってことだ。
 皆さん、楽しみにしていて下さい。なお、今回はチケットの売れ行きが予想をはるかに超えて良いため、もうほとんど売り切れ状態です。東京バロック・スコラーズは、これから飛ぶ鳥を落とす勢いで飛翔しますよ!もうヤバイっすよ!

 

ヨハネ講座そのT(24番アリア)
 これから毎週、ヨハネ受難曲についてのミニ講座を行おうと思う。 まずは第24番の合唱付きバスのアリアから。

そこでピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。
(ヨハネによる福音書19章16−17節)
この福音書のすぐ後にくるのがこのアリアだ。
急げ、急げ、悩める魂達よ
責め苦の洞穴から出よ
 ヴァイオリンとヴィオラが激しい上行形のパッセージを奏でる。(譜例参照 楽譜クリックで全体表示  音源再生はをクリックして下さい))こうした切迫感の表現はヨハネ受難曲の特徴だ。マタイ受難曲と比較してみるとよく分かる。マタイではこの場面に相当するアリアは、十字架を背負ったイエスの歩みを表現するゆったりとした「来たれ甘き十字架」であって、全く対照的だ。
 ついでに言うと、ペテロがイエスを否認し、鶏が鳴いた後で後悔の涙を流す場面を受けるアリアも、マタイ受難曲でアルトが切々と歌う「憐れみ給え」に対し、ヨハネ受難曲では、自らの弱さに対する怒りの表現である激しい「ああ我が魂よ、一体どこへ行こうとしているのか?」なのだ。ヨハネ受難曲の方がマタイよりも劇的で激しい感じがするのは、合唱の表現もあるけれど、アリアのスピード感によるところが大きい。

 ところでこのバスの24番アリア、聴いているとなんか変だ。リズムがアンバランスな感じがする。譜例を見てみよう。曲が始まって3小節目。3拍子の曲の中に2拍子で動く音型が出来ている(モティーフA)。

 それからなんと5拍がひとまとまりになっているモティーフが来る(モティーフB)。これがヴァイオリンと低音で追いかけっこする。この瞬間、聴いている人は、無重力空間に放り出されたような気分になるのだ。これは遠くはストラヴィンスキーなどが得意としたポリリズムというやつで、バッハの他の作品を探してもここまでのポリリズムはあまりない。すごく独創的で新しい。

 フレーズの最後を締めくくるのは、やはり2拍で動く音型(モティーフC)だが、これはバロック時代に流行したヘミオラhemiolaというもので、主としてカデンツのところで用いられる。3拍子の中に2拍子が3つ入り、強弱の関係がずれて2小節かけて大きな3拍子のカデンツを形成するのだ。


 ヘミオラはヘンデルなどによって多用されているので、聴いたことのある人も少なくないだろう。「メサイア」の3拍子の曲であれば、合唱曲であれアリアであれ必ず登場する。だから珍しくはないのだが、ポリリズムの後でだめ押しされると、すっかり船酔い状態になる。


 バスのせき立てるような「急げ、急げ!」という歌詞を受けて、合唱が、
「何処へ?何処へ?」
と訊ねる。これもポリリズムの影響を受けて、2拍目の裏から出たと思うと次は1拍目裏から出る。うわあ、入りづらい!つまりバッハはこうした方法で焦燥感を煽っているわけだな。
それからバスは落ち着いてカデンツァを形成しながら、
「ゴルゴタへ。」
と合唱に答える。

 こうした質問と答えの対話形式の展開はとても劇的だ。これに味をしめたバッハは、マタイ受難曲では冒頭合唱から対話形式をとっている。こんなやり方は、とっくに教会音楽の領域からはみ出て、まさにオペラの表現力であると言える。聴いている側はめちゃめちゃ興奮するが、教会側が難色をしめしたという樋口隆一先生の見解は正しいね。

 バスのソリストは信徒達を「苦悩の洞穴」から出させてゴルゴタへと向かわせる、「そこにこそ、お前たちの幸福は花開くのだ。」
とソリストは告げる。
 教義的には、
「キリストの十字架という犠牲によって我々の罪が赦され、我々はそれによって幸せになれるのだ。」
というところに落ち着かせるつもりだ。
 けれどもバスのソリストが最後に悲劇的に「ゴルゴタへ。」と歌ってアリアを締めくくるのを聴くと、本当はそんな単純なものじゃないとバッハが言おうとしているのを僕は強く感じてしまう。すなわちバッハの天才は、受難の本質を音楽で表現している。

 受難は人類の救済のための必然だったのか?という問いに、バッハは音楽で答えているのだ。すなわち、バッハがあのようにドラマチックに受難を描いてくれたから、その本質が見えたのである。
 僕は確信する。救世主の受難は、ホロコーストや広島の原爆などと同じような「人類の愚行」である。つまり決して起こってはならない事件であったのだ。そうでなければ、救世主の受難に荷担した人達は、イエスを裏切ったユダも含めて全て「人類の救済事業を成し遂げるための英雄」となってしまうではないか。
だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。
(マタイによる福音書26章24節)
イエスはユダのことをはっきり「生まれなかった方がよかった。」と言っているし、自分をローマ総督ピラトに引き渡したユダヤ人達のことは、

わたしをあなたに引き渡した者の罪は(もっと)重い。
(ヨハネによる福音書19章11節)
と言っている。つまり、受難は人類にとって悲劇以外のなにものでもないのだ。

 バッハの受難曲のテキストの中で、福音書は時代を越えた不滅の価値を誇っているが、自由詩に関して言うと、現代の目から見て必ずしも同調できない部分がある。そんな時音楽に耳をすますと、バッハの音楽はテキストの制約を超えて、福音書同様に不滅の光を放っているのだ。
 このアリアも、あまり歌詞の細かい部分にこだわらずに、曲の持つ焦燥感と悲劇性を味わって欲しい。
「十字架の丘に私の幸せがあるのだ。」
と思うほど、僕は楽観主義者ではないのでね。

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