東京バロック・スコラーズ合宿無事終了
 BumB東京スポーツ文化館は、何度も使っているけれど合宿用には最適だ。スポーツ文化館と名乗っているだけあって、スポーツの団体が多いが、ピアノのある練習室もあるし、宿泊施設もきちんとしている。
 遠出して景色の良いところで合宿してもいいのだが、僕のやる合宿というのは、とにかく練習に明け暮れるので、あまりのんびりあたりの景色を味わえない。そこにいくとBumBのあるところは夢の島で周りが公園になっている。ちょっとだけ郊外に出て都会を離れた雰囲気だけは味わえるのだ。

 3月8日の「ヨハネ受難曲」演奏会を控えて、東京バロック・スコラーズは、この週末BumBで合宿。今回は徹底的に各パートひとりずつのカルテットでの練習を行ったが、みんな、
「よっしゃ!」
という感じで食いついてきた。1泊2日の合宿だけれど、合計11時間の練習を終えて、また一皮むけた。
 本当に僕は練習が好きだね。もう普通じゃないね。でも、それについてくる団員達もかなり異常だ。この団体と僕は今後死ぬまで苦楽を共にするのだ。夜の懇親会の尋常でない盛り上がりも含めて、まさに僕らしい団体に育ったと言えよう。うはははははは。

 

宮本亜門の「椿姫」
 二期会「椿姫」のゲネプロを見に行った。指揮者のアッレマンディとは、新国立劇場「トゥーランドット」でかなり仲良くなっていたので、もっと早く練習をのぞきに行こうと思っていたがなかなか果たせなかった。で、とうとうゲネプロになってしまった。
 「トゥーランドット」の時に僕はアッレマンディに、
「今度の二期会の『椿姫』では、娘が練習ピアニストとして参加するから、かわいがってね。」
と言っていた。
 その志保から、アッレマンディの仕事ぶりは逐一聞いていた。彼がキャスト達と一緒にとても丁寧に音楽作りをしたことや、例のちょっと分かりにくい棒のことなど(2008年10月19日の「今日この頃〜アッレマンディの振り方」参照)。
 でも志保は、彼の棒の中から音楽的な部分を読み取って、かなりプラスに評価していたから、僕は、
「おお、ようやく娘も音楽というものが分かってきたではないか。」
と思って少し嬉しかった。
 また、この公演には新国立劇場合唱団員が何人も合唱エキストラで出演している。新国立劇場合唱団も、合唱のない「ラインの黄金」「ワルキューレ」の時期に入ってみんなお休みなので、二期会と掛け持ち出来るわけだ。
なので、合唱団員に差し入れを持って東京文化会館に出掛けた。

 宮本亜門さんの演出は、イタリア・オペラにとっては奇抜なものだと言えるのかも知れない。ひと言で言って、舞台美術はトーキョー・リングの「ラインの黄金」、キャストや群衆の動かし方は「軍人たち」を連想させる舞台だった。
 後方に行くに従って傾斜が付いて上がっていく舞台について、我々は「開帳場」とか「八百屋」とか呼んでいるが、今回の舞台はタテだけでなく、舞台上手に向かって傾斜が付いている。しかもトーキョー・リングのように床面から高いところに、まるで中空にくりぬかれたようにいびつな台形の舞台が作られている。「椿姫」のドラマは、全てこの空間の中で繰り広げられる。

 これは後から聞いた話だが、初日には演出家にかなりブーが飛んだということだ。もっとも亜門さんはブーが聞こえた瞬間、
「きたーっ!」
と言って喜んでいたそうだが。ブーは演出家にとって勲章というわけか。
 
 みんな「椿姫」というと、華やかなパリの舞踏会の美しい風景を思い浮かべるだろうから、こうした演出に拒否反応を示す人がいても不思議はない。けれど、僕は個人的に亜門さんの演出は結構楽しめた。
 前奏曲の後の第一幕の冒頭で、黒塗りの化粧をした合唱団達が、かなり激しい動きをして渦巻き状に走り回る。そして音楽のきっかけと共にパッと止まると、中心にいるヴィオレッタに照明が当たり、舞踏会シーンが始まる。
 こうした舞台処理は、ミュージカル的と言えるのかも知れないがとても新鮮だ。まあ、ミュージカルでは特別新しい手法というほどでもない。

 僕はそもそも、アリアになると歌手が両手を広げて舞台中央に仁王立ちになってドラマの流れを止めてしまうような、従来の「オペラ的」表現が大嫌いだから、自分の作品もあえてミュージカルと名乗っている。
 オペラが嫌いなのではない。むしろオペラが大好きだからこそ、オペラが未来に生き残って欲しいと願うだけだ。オペラ以外の舞台芸術がみんな新しいことをやっているのに、オペラだけが古い因習に縛られているというんじゃ、いずれみんなに見棄てられる。
 第三幕の前奏曲では、中央に横たわるヴィオレッタを群衆が取り囲んでいる。それがひとりづつ離れていき、残ったヴィオレッタが取り残される。彼女の孤独感が感じられる秀逸な処理だ。
 まあ新国立劇場の「軍人たち」を見た人にとっては、閉じられた舞台空間や無機的な衣裳メイクも似ているため、冒頭でマリーがひとり取り残されるシーンが連想される。群衆の退場の仕方が違うからパクリとは映らないけれど。

 さて、亜門さんの演出で最も突出していたのは照明だ。舞台後ろの壁と天井は白黒の菱形の枡目になっていて、目がチカチカする。そこに同じ菱形枡目の映像を当てて、それをずらしていく。するとまるで自分が幻覚を見ているような錯覚にとらわれる。第三幕冒頭では、枡目の中にうごめく影が現れて、ヴィオレッタの狂気を表現しているようだ。考えてみると、このゆがんだ舞台の枠組みや、床面の斜め具合も、ヴィオレッタの錯乱の象徴なのだろう。

 第二幕が終わった休憩時間に亜門さんに会いに行った。
「面白いじゃないですか。群衆の動かし方がいいですね。照明にクラクラッときて船酔いしそうになりましたよ。あれは狂気の表現なのですね。」
「おお、よく分かりましたね。まさにその通りです。」
横で演出助手の澤田康子さんが、
「やりましたね。こちらの意図をちゃんと分かってくれるお客さんがいて、我々のもくろみはまんまと成功しましたね。」
と喜んでいる。亜門さんも、
「なんて良いお客なんだ!」
とニコニコしている。

志保、亜門さん演出に出演!?
 ところで、僕は亜門さんをずっと前から知っている。80年代後半から90年代初めにかけて、僕はミュージカルの仕事をよくしていた。そこに新しい舞台芸術の可能性を見いだしていたのだ。「おにころ」を作ったのもその頃。
 あるとき作曲家の甲斐正人さんから、
「東宝ミュージカルで音楽を担当することになったので、指揮をしてくれない?」
と依頼がきた。そこで大地真央主演のコール・ポーター作曲「エニシング・ゴーズ」の指揮をすることになった。
 稽古場に行ってみると、見たこともない若い演出家がいた。彼はそれまでも東宝ミュージカルで振り付け師として関わっていたが、今回初めて演出を任せられたということで、めちゃめちゃエネルギッシュに稽古場を駆け回って演出をつけていた。その姿が僕にはまぶしかった。それが宮本亜門さんだった。

 「エニシング・ゴーズ」の本番は、一日二回公演が一ヶ月続いた。ある時僕はいたずら心を出して、まだ幼稚園生だった志保を指揮する僕の横に座らせておいた。僕は軍楽隊の指揮官のような衣裳を着ているが、オケのメンバーには濃紺と白の横縞のTシャツが支給されて、彼らはそれを着ていた。僕は志保にもそれを着せた。
 まだちっちゃかった彼女が着ると、Tシャツはちょうどワンピースの長さになった。オケは舞台の前のオケピットではなく、舞台後方の船室のセットの中にいて、格子越しに客からは見えていただけだった。しかし、第一幕のフィナーレでは、そのセットが派手に開き、僕とオケが客の前に姿を現すようになっていた。
「さあ、来るぞ!」
大地真央さんと植木等さんが歌い終わると、彼らが後方に下がって、オケが現れ、もの凄いタップ・ダンス・シーンとなる。彼らが下がってきた時、現れたオケの真ん中に、ちょこんと衣裳を着けた志保がいた。

 大地真央さんが驚いて叫んだ。
「まあ、可愛い!誰の子供?」
植木等さんも、
「あはははは、みんなとおんなじ衣裳でシャレてるね。」
と笑った。
 それがみんなマイクに入っていて、客席に大きく流れてしまった。当然のごとく、僕は主催者にかなり怒られた。その時の娘が、大きくなってピアニストになって亜門さんの演出するオペラの稽古で弾いているんだもんな。年取るわけだよ。
 

ヨハネ講座そのU 曲の統一感
 ヨハネ受難曲は、マタイ受難曲よりも凝縮性が高い。ヨハネ受難曲はマタイ受難曲よりも先に出来たから、規模はマタイ受難曲よりも小さく構成も素朴だ。この時点では、このような長い曲を作るのは初めてだったから、バッハはヨハネ受難曲を作るにあたって、バラバラな感じになるのではないかと心配し、曲の統一感の確保に心血を注いだ。
 ところが、それで上演してみたら案外心配するほどでもなかったので、次のマタイ受難曲では、
「今度はこういう風に攻めてみようかな。」
と作戦を練って、各場面をより丁寧に描き分けてみた。だからマタイ受難曲は拡散性が強く、ヨハネ受難曲のような凝縮性には欠けるのだ。

短二度の緊張
 ひとつの例を取ってみよう(譜例参照 音源再生はをクリックして下さい)。これは第一曲目冒頭の部分。いきなり第一小節目から鋭い短二度の不協和音が木管楽器に聞かれる。ライプチヒの教会の会衆はびっくりしたに違いない。弦楽器の十六分音符と相まって暗雲が立ちこめるような不安な雰囲気を作り出している。
 この短二度の不協和音は、聴衆の心に強い印象を与えるが、それが後に最も激しい場面で再び登場する。21d「十字架につけろ。」(譜例参照 楽譜クリックで全体表示 音源再生はをクリックして下さい)及び23d「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」の群衆合唱だ。ここで合唱によって歌われる短二度(あるいは転回形で長七度)の音程を聴いて、ただちに、
「あっ、冒頭と同じ短二度だ!」
と気づく人は、専門家を除いて多くはないだろうが、みんな冒頭のあの不安な感じを心のどこかに記憶していて、そのモチーフとの再会を潜在的に感じるのだ。こうしたことが、長い曲であっても音楽的な統一感を与えているのだ。

シンメトリーな構成
 バッハは、二つの受難曲に共通なある特別な方法で楽曲を構成している。それは「シンメトリーな曲構成」という手法だ。全曲の中である中心点を決めて、その前後に同じ要素を持つ曲をあてはめていく。つまり、中心点がXとするとその前後にAという曲をあてはめる(AXA)。その外側にまるで外堀を作るようにBという曲をあてはめる(BAXAB)。さらにCをあてはめる(CBAXABC)という風に曲を並べて全体を構成するやり方を使っているのだ。
(表参照)これは、フリードリヒ・スメントという学者による、シンメトリーの表である。これに沿って丁寧に見ていこう。

 ヨハネ受難曲では、シンメトリーの中心点は22番のコラールに置かれている。

あなたの捕らわれによって
私たちに自由がもたらされたのです
あなたの牢獄は恩寵の玉座
全ての信徒達の避難所
あなたが隷従の中になかったならば
わたしたちは永久に隷従の中にいなければ
ならなかったのです
 つまり、キリスト教の教義的中心である、キリストによる人類の罪のあがないと、十字架の意味づけを表現するコラールである。これを中心として、その前後には群衆による激しい憎悪を現す合唱曲が置かれる。

 この中心コラールに近い方からその周りを見ていこう。中心の直前にくるのは21f「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからであります。」であり、中心の直後は、それと同じ主題を持つ23a「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」である。
 その外堀の合唱はどうなっているだろうか?先ほども述べた、例の短二度のぶつかりが強調された21d「十字架につけろ。」と23d「殺せ、殺せ、十字架につけろ。」だ。
 さらにその外堀であるが、ここだけはAB・BAという並びではなく、AB・ABという順で二曲が一対となって外堀を作っている。つまり、18b「この男ではない、バラバを」と同じ音楽は、23f「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」であり、21b「ユダヤ人の王、万歳」に対応するのは、25b「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いて下さい。」である。さらに、それぞれのABの間に、一曲ずつアリアが挿入されている。

クライマックスとピラト
 このシンメトリーの中心では、どんなドラマが展開されているのだろうか?いわゆる中心コラールの直前には福音史家による、

そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。
(ヨハネによる福音書第19章12節)
という記述が見られる。
 コラール前では、ピラトはイエスに興味を持ち彼と対話するものの、なんら罪を認めず彼を釈放しようとするが、コラール後は群衆に押されて釈放を断念せざるを得ない状況に追い込まれる。
 バッハは明らかに、群衆がピラトをして処刑せざるを得ない状況に追い込んでいく過程を、この受難曲全体のクライマックスと捉えていたということだ。

 中心コラールの前はフラット系の調性が支配するが、コラールの後は一転してシャープ系の調性に変わり、それぞれの曲は半音ずつ低くなるのは、クライマックス前、クライマックス後ということで説明は出来る。現代の感覚からすると、むしろ後半の方に半音上げるかして、終わりに向かってどんどん緊張感を高めたらいいのに、と思わないでもないが、それがバッハの劇的頂点へのコンセプトなのだろう。

 25bというシンメトリーの一番外堀である曲の直後には、ユダヤ人達の申し出に対し、ピラトの、
「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ。」
と吐き捨てるように言うセリフが来る。ここでひとまずピラトの物語は終わる。すなわちシンメトリーは、ヨハネ受難曲の中において、ただピラトの場面に限定されているのだ。
 キリストの死は、ある意味結果論であるので、死の近辺にクライマックスはない。音楽も、アルトのアリア「成し遂げられた」の中間部を除いて、ただ静かな音楽が支配するのみである。この点が、ただ主人公の死に向かって盛り上がっていって、主人公が死ぬとさっさと終わってしまうオペラの作り方と決定的に違うところである。

4小節の音楽
 シンメトリーの中でも使われてはいるが、別でも活躍する4小節の音楽がある。2b「ナザレのイエスだ」で初めて出てくる音楽である(譜例参照 音源再生はをクリックして下さい)。これは、その直後の2dにすぐ現れ、それから第二部に入ってすぐ二度に渡って出てくるシンメトリーとは関係ない16b「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と16d「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」の内の、二番目の方、すなわち16dのオブリガートとしてフルートと第一ヴァイオリンに現れる。さらにシンメトリーの中の18bと23fに現れ、合計5回も登場するのだ。こうしたことが聴く者に、
「あっ、これはさっき出てきた。」
という親近感を持たせることとなるのだ。

 このようにヨハネ受難曲においては、これでもかというほどに全曲を関連づけ、求心的な曲作りにバッハがエネルギーを費やしていたことが分かる。だからヨハネ受難曲は、これほど凝縮性が高い作品に仕上がったのである。


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