ヤベエ!ついにこの時が・・・
 検査の結果を聞くために診察室に入ると、医師は口に含み笑いをしながら僕に質問してくる。その仕方がなんだかとっても人を馬鹿にしているようでいやらしい。
「三澤さん・・・・最近、喉乾きません?」
「そういえば・・・・はい。」
「なんとなくトイレも近いでしょう。」
「は・・・・はい。」
「あのねえ、随分油断しましたね。3年前に注意したと思いますが、全然気をつけてませんでしたねえ。」
「・・・・・・。」
「以前は糖尿病予備軍だったのですが、現在ではあなたは立派な糖尿病です!」
 ほれみろ、ほれみろ、ざまーみろ、バーカ、バーカ、お前のかあちゃんデベソ!という勢いで、医師は大得意になってまくしたてた。
「空腹時での血糖値は196。ヘモグロビンA1cは、なんと8.6もあります。(自分を戒めるつもりで、あえて皆さんに公表します。笑ってやって下さい。)尿にもブドウ糖が現れています。いいですか。あなたはもう病気なのです。このままではいけません。治療を要します。」

 ヤベエ。ついにこの時が来たか。いや、実は最近ずっと油断しまくりで、食べたいだけ食べ、飲みたいだけ飲む生活を続けていた。それでも、
「案外自分は大丈夫なのだ。」
という何の根拠もない自信のようなものがあり、生活をあらためることなど考えてもいなかった。

 3月3日の僕の誕生日。妻は僕に無断で勝手にかかりつけの内科に検査の予約を入れてしまっていた。
「ええ?せっかくのんびり誕生日を過ごそうと思っていたのに。」
「こんな時じゃないと行かないでしょう。あなたの生活を見ていると、絶対に糖尿病が進んでいるに違いないんだから。いい?行くのよ!」
で、しぶしぶ検査に行った。
「結果は今週中に出ますからいつでも来てください。」
と言われたのだが、ヨハネ受難曲演奏会が終わるまで僕は結果を聞きにいかなかった。
 だって東京バロック・スコラーズの主宰者である僕が、この団体を率いて本番まで持って行くのにはもの凄いエネルギーが要るんだぜ。それを直前でカロリー採ってはいけませんなどと言われたら、第二部の群衆合唱の真っ最中にバッテリー切れなんてことになりかねないからね。だから全てが済んで「今日この頃」書き終わって3月10日火曜日に、恐る恐る行ったわけである。

 医師は話を続ける。
「まずは食事制限から始めて下さい。ただちに薬による治療というわけではありませんが、もし食事療法が効かなかった場合、薬による治療に入りますからね。」
なんか彼の目にはこう書いてある。
「あんたみたいな食いしん坊の欲張りには、満足な食事療法などできっこないでしょう。そうなったら一生薬を飲み続ける生活だ。やーい、やーい!」
 ところがどっこい。僕は以前NHKの「ためしてガッテン」に糖尿病予備軍代表として出演したことがあるのだ。その時、2週間きちんと食事制限をして見事に血糖値を下げることに成功したのだ。だから食事制限は得意分野だ!どうだ。まいったか!
「だったらどうしてその後それをキープしなかった?どうしてこういう結果になったのだ?」
と天の声が聞こえてきた。
「紹介状を書きますので府中病院に行って食事指導を受けて下さい。」
医師は冷ややかに言った。僕は即座に思った。
「なあに、府中病院なんか行かなくったって、食事制限の仕方は分かってらあ。」
そんな僕の心を見透かしているように医師は、
「今、この場で府中病院の予約を取りますので、都合の悪い日を言って下さい。」
ゲッ!どこまでもしつこいね。ヤだね。イケズう!

 ということで、今度の火曜日に府中病院に行かせられる。その時に一緒に持って行って下さいねと封書を渡された。気になるなあ。一体何が書いてあるんだろう。きっとあることないこと悪口三昧なんだ。
「この人には、どうか本気で食事療法しないと『死ぬよ』くらいガツーンと言ってやって下さい。」
なんて書いてあるんだ。なんて性格悪いんだ。

 「ためしてガッテン」に出た頃は、空腹時血糖値が126から糖尿病の範囲になるのに、計ってみたら125だった。それで食事制限に入ったわけだが、一日1700kcalに抑えられた食事は結構大変だった。でもその時体調は良くて、おなかはすいているのだが、身は軽いし頭脳も明晰だった。
 それが高カロリーと酒漬けの生活をしていると、朝起きた時に体が重かったり、思考力も低下しているのを感じる。だから、ちょうど潮時なのかも知れない。そう思って僕はその日から即、食事制限に入った。どうです。府中病院の指導なんか受ける前に、自主的制限だからね。

 でも、我が家には現在甘いものが溢れている。先日の「ヨハネ受難曲」演奏会でいろんな人からもらったのだ。しかもそれがみんなおいしそうなのだ。ヤバイなあ。僕は甘いものに目がないのだ。それにお酒も好きなのだ。もう糖尿病になるために生まれてきたような体質だ。
 みなさんにお願いです。僕に甘いものを与えないで下さい。でも、一緒に飲み会に行った時には、
「先生、やめたほうがいいですよ。」
とは言わないで下さいね。武士の情け。見逃してくだされ!ああ、それにしてもとんかつ食いたい!

再びベートーヴェン三昧
 演奏会が終わると、それまでずっと頭から離れなかった曲を脳裏から抹殺しようとする。毎日何度となく開いていたスコアを棚にしまう。それから僕の場合、i-Podからファイルを削除する。これら一連の行動の瞬間はたまりませんなあ。
 別にその曲が見るのも嫌なほど嫌いになっているわけではない。それでも、息を吐くとヨハネ受難曲の一節が飛び出てきてしまうほどのめり込んでいた僕は、体の中がヨハネ受難曲で飽和状態になっていて、今にも爆発しそうになっていたのも事実だ。
「またいつかお互い新鮮な気持ちで再開しようね。」
と言いながらヨハネ受難曲と一時的にさよならする。おお、せいせいしたぜ!さて、新しい人生を歩み始めるのだ。

 今回は何故かベートーヴェンが無性に聴きたくなった。そこで僕はi-Podにベートーヴェンを詰め込んで、電車の行き帰りなどで聴いている。今入っているのは、アルバン・ベルク弦楽四重奏団による1番から6番までの弦楽四重奏曲と、パールマンとアシュケナージによるヴァイオリン・ソナタ全曲。それとポリーニの弾く前期のピアノ・ソナタ数曲。これをとっかえひっかえ何度でも聴いている。
 ベートーヴェンの音楽は、どれを聴いても面白い。どんな主題の展開も大胆で独創的だ。でもバッハを聴き慣れた耳にはとても粗野で乱暴に映る。ベートーヴェンは、叩きつけるようなフォルテが、普通の音符の何倍ものエネルギーを放出するのを知っている。さらに強引なシンコペーションや、突然のフォルテや、急激なクレッシェンドでもって、彼は意図的に均衡を乱し、アンバランスな音楽空間を作り出す。おっとっとっとと思っている間に、意表を突く次のフレーズの入りによってもっとアンバランスになるが、アンバランスとアンバランスとで相殺されたバランスというか、不思議な均衡状態が作り出される。
 淡々と通奏低音のリズムが刻まれ、その上に淡々とモチーフが展開されていくバッハの音楽と対峙してベートーヴェンが勝てるのは、まさにこの点においてである。ベートーヴェンの出現によって、それまで均等に刻んでいた時間の密度が変化し、時空がゆがんだ。その力を彼は最大限に使って、それまでにない独創的な音楽を作り出したのである。

 表現の幅もバッハよりずっと広がっている。どう広がっているかというと、たとえば、時に崇高なモチーフを奏でるかと思うと、いきなり下世話とも言える全く個人的な心情の発露が見られる。バッハの、作曲家の個人的エモーションからちょっと距離を置いた音楽に慣れている僕には、なんだかとっても恥ずかしい。
 丁度、道で急に見知らぬ女の子から、
「あたし今彼氏と別れてきたの。もう生きていけないわ!」
といきなり泣きつかれたような気持ち。うー、こっぱずかしいーーーー!
 って、ゆーか、ベートーヴェンって本当に恥も外聞もない奴だな。究極的なKYだな。その傍若無人さが、もっと傍若無人な奴らのたまり場であるロマン派時代を導いていくのだ。とにかく、ベートーヴェンの独創性は、彼の人間としてのヘンさと表裏一体である。ベートーヴェンを妙に聖人に祭り上げない方がいいのだ。

 ベートーヴェンの音楽を聴いているといろんな事を思うものだ。たとえば、あんなに素晴らしいクロイツェル・ソナタの“間”の持つ力を最大限に生かした緊張感に溢れた第一楽章の後に、なんでもっとそれを受け継いだような楽章が来ないのかな。あらゆるベートーヴェンの作品の中でも最も独創的な第一楽章を聴いていると、
「うおおおおおおおーっ!」
と叫びながら京王線の車両内を走り回りたくなる衝動にかられるのに、その後がねえ・・・・。
 第二楽章も第三楽章も駄作ではない。駄作ではないが拍子抜けする。お気楽な変奏曲である第二楽章。それとまるで運動会のような第三楽章。うーん・・・・。ベートーヴェンにはいろいろ謎が多いのだ。

マーラー「復活」と霊性
 マーラー作曲、交響曲第二番「復活」の第五楽章。舞台裏のホルンが遠くから響き渡る時、僕は現実から離れてある風景の中にいる。澄み切った大気の匂い。どこまでも続く青空。自分は中空に浮いている。眼下に雲がある。
 上を見上げると太陽がある。でもそれは地上の太陽のようにまぶしくはなく、あたたかく慈愛に満ちている。それでいてどこにもない絶対的な明るさ。そこから地上に光が降り注いでいる。全ての被造物の上に。

 マーラーの響きが彼岸から来るということは、以前「大地の歌」をやった時に書いた。天上界では、ちょうどマーラーが書いたホルンやトランペットのファンファーレやフルートのように音楽が鳴っている。というより、大気自体があんな風に音楽を奏で、音楽に満たされている。その感覚はちょっと言葉では説明できない。でもマーラーは分かっていたんだ。そしてそれをなんとか譜面に書き留めてみたのだ。

 「そんな事を言って、あんた見てきたんかいな?その天上界とやらを?ええ?」
と思う人はいるだろう。見てきたわけではない。けれど見えるのだ。音楽を聴くと。
 僕は、いわゆる幽霊を見たり、未来が分かるような霊能者ではないが、音楽に関わっている時だけ霊感が働く。音楽を聴く時だけ、僕のまわりで空間が曲がり、僕は霊的になるのだ。そうすると、作曲家がどれだけ霊的に目覚めているかも手に取るように分かるし、作品の中にどれほどの悟りの深さ高さが込められているのかも分かる。
 僕が合唱の指導をしていると、その作曲家の表現したい内容を合唱団員達がどの程度霊的に理解しているかが手に取るように分かる。それだけではない、彼らが退屈しているか、逆にどの程度感動しているか、団員の心が完全に読めるのだ。
 僕がよく練習を止めて話をするのは、みんなが技術論だけに興味を持ってしまっている時だ。僕も勿論指揮者としては技術にこだわるのだが、素晴らしく演奏出来ていても、演奏者自体の魂が“今自分が演奏している音楽に退屈している”ということは(あってはならないが)よくあるのだ。そんな時には、内容に対するシンパシーを持ってもらうために、いろんな喩えを持ち出して話をする。演奏者の心が作曲家の想いと離れてしまうなんて、僕には決して許すことが出来ないからだ。
 こんな僕だが、一端音楽を離れてしまうと、僕は全く普通の人に戻って、普通の人よりもずっと鈍感な人間になる。だから、あまり買いかぶらないでください。

 その僕にとって、マーラーの音楽は特別なのだ。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ワーグナー、いろんな作曲家に霊的インスピレーションを感じるけれど、マーラーほど高い霊性を感じる人はいない。しかもマーラーの場合は、音の論理性の中に神の息吹を感じるバッハと違って、さっきも話したように天上界のヴィジョンとして感じるのだ。その中でも特に「復活」の第五楽章は壮大なパノラマのようだ。

 東響コーラスはとても頑張って素晴らしい演奏をした。全体的にはハイ・レベルな説得力のある演奏だった。でも、霊的な視点から作品への共感度を見た場合、百点ではないのだ。それは、別に具体的な音楽的欠点となって表面に出ているわけでは決してないので誤解しないで欲しいのだが、僕は分かってしまうだけにそこにこだわるのだ。だって、内容からして本来は「神を信じてない人は演奏してはいけない」ような曲なのだからね。
 しかしながらその点に関しては、反省はむしろ自分自身へ向けられるのだ。練習中にいろいろ噛み砕いて内容を説明したんだけど・・・・力及ばずということだ。
 
 まあ、この無神論的で唯物的な現代に生きているのだから、全員にマーラーの霊性を理解せよと言っても無理というものだ。マーラーの悟りのレベルまで到達せよなんていったら、こんな偉そうなことを言っている僕自身だって、無論はるか遠く及ばない。
 だからむしろ、東響コーラスの団員達はよくここまで食いついてきてくれたと感謝するべきだろう。彼らは演奏に対してはとても真摯な態度で臨んでいるから、その真摯さ故にここまで到達したのだ。キリスト教徒でも宗教人でもないのに、ここまで演奏出来るのは、音楽に対するリスペクトの高さ故なのだろう。これ以上望んだら酷というものだな。
 
 それに、聴衆も含めてどんな人でも、こうした希有の霊性を持った作品に関わるだけで、それがひとつの“行”のようになり、魂は作品から霊的養分を得て飛翔しステージを上げていくのだ。そして新たな縁と出逢いを引き寄せ、新たな運命を切り開いていくのだ。それだけでもこの現代にマーラーを演奏する意味があるというものだ。

それにしても、よく作ったな。こんな作品!

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