僕の血糖値が上がった本当の理由
 このことを皆さんに話そうかどうか迷ったのだが、あえて話そうと思う。みなさんがこれを読んで、
「信じられない。」
と思ってもいっこうに構わない。というか、それは単なる“夢”に由来する僕の勝手な思い込みだろうと言われると、僕自身、もしかしたらそうかなとも思い、それに反駁する何の根拠も持たない。まあ、それでも、僕のことを笑ったり、単に頭のおかしい人と片づけられてしまうと、それはそれでちょっとは悲しいかな。


 今から10年以上も前のある秋の日。僕は夢を見た。それは夢とは思えないほどリアルだったので、今でもまるで肉眼で見た現実の出来事のように思い出す。ある空き地のような所で僕は僧のような身なりをした人物に会った。彼は僕の知っている人だった。僕は即座に気がついたのだ。彼が僕の守護霊であることを。
「お前は53歳で死ぬよ。」
出し抜けに彼が言った言葉に僕は驚いた。
「え?どうして?」
「死ぬんだ。お前は。交通事故でね。」
「嫌だな。苦しむのはごめんだよ。」
「大丈夫。即死だから。」
「なんだそりゃ。」
でも僕は少し安心した。そうか、即死ならそのまま魂が体から離れるからいいか。
「お前はこれまで頑張っても報われなかったけれど、これから10年間は、お前の努力は報われるよ。かなり良い将来が待っている。一生懸命頑張るんだ。そうすれば・・・・。」
「そうすれば・・・・?何・・・・・?」
そこで彼は消えた。

 その頃の僕は、とても魂が研ぎ澄まされていて、身辺にはいろいろ不思議な事が起こっていた。絵本作家の葉祥明さんに会って、精神世界の話をして意気投合したり、彼から紹介してもらった映画「シティ・オブ・エンジェル」を見てもの凄いインスピレーションをもらったりした。夢を見たのは、魂が神秘性に傾いていたまっただ中。

預言の通りに
 さて、事は守護霊の預言通りに運んでいった。僕自身は、報われない努力をすることに慣れていたので、努力が短期間で実るなどということは全く期待していなかったのだが、その時以来、いろいろがこれまでと違って、はっきりわかる結果となって現れ始めてきたのだ。

1997年、新国立劇場開場記念公演「ローエングリン」で、演出家であり、バイロイト音楽祭の総監督でもあるヴォルフガング・ワーグナー氏や合唱指揮者ノルベルト・バラッチ氏と親交を深めた僕は、1999年より5年間に渡り、バイロイト音楽祭の合唱アシスタントとして従事する。
 ここで僕は、祝祭劇場における合唱やオーケストラの練習や、立ち稽古や舞台稽古の進め方、ゲネプロや本番に臨む姿勢、運営の仕方を内側から眺め、ワーグナー演奏に関する様々なノウハウを学んだ。
それと同時に、そこで学んだものをただちに生かすフィールドも与えられた。すなわち僕は2001年に新国立劇場合唱団指揮者のポストをいただいたのだ。

 2003年にノヴォラツスキー芸術監督の時代が始まると、新国立劇場における僕の責任はもっと重くなった。
彼は僕にこう指令した。
「新国立劇場合唱団を世界一の合唱団にしろ。そのためだったら全面的にお前を守ってやる。」
僕は、
「よっしゃ、任せて下さい!」
と答えて、全力投球した。
 彼は、何かあると本当に体を張って僕を守ってくれた。「マクベス」で、指揮者フリッツァが僕の赤いペンライトのフォローを嫌がって僕と喧嘩になった時には、彼はフリッツァを呼びつけ、
「俺の信頼するミサワの仕事を邪魔しようとするのなら、すぐ国に帰れ!」
と言ってくれたという。そうしたら次の日、ヒルトン・ホテルのノヴォラツスキー監督の部屋にシャンパン二本持ったフリッツァが現れ、彼にあやまったそうだ。彼はそれを得意がって何度も僕に言った。

 そうした新国立劇場での仕事の傍ら、僕はミュージカル「ナディーヌ」を作った。台本から音楽に至るまで全て僕のオリジナルだった。それは守護霊との神秘的な体験が、ひとつの作品に実を結んだものだ。
 「記憶の喪失」と「かけがえのない出逢い」という二つのテーマを持つ僕のミュージカル「ナディーヌ」のネタは、筒井康隆の「時をかける少女」と「シティ・オブ・エンジェル」からパクった。でもそれは表面的なストーリー展開としてパクったのであり、このミュージカルの本当のテーマは「命の永遠性」だ。
 「記憶の喪失」を題材にした本当の理由は、我々がみんな、生まれる前の天上界の記憶、あるいは前世の記憶を全く喪失して、この世にまるで盲目のように生きているという真実を表現したかったのだ。でも人間にはかすかな記憶が残っていて、それが我々をしてわけもなく何かに惹かれたりこだわったりする原因を作っている。それが終幕でのピエールとオリーとの対話になっている。
 「かけがえのない出遭い」というテーマは、自分の周りにいる配偶者をはじめとする人達が、偶然出遭ったようでいながら、実はみんな天上界ですでに了解済みであり、自分の人生において必要な時に現れる、かけがえのないソウルメイトなのだということを訴えたかったのだ。

 こうして僕の活動は順調に進んでいった。だが僕は守護霊が言った言葉を決して忘れたことはなかった。守護霊の預言によると、53歳すなわち2008年3月3日から2009年3月2日までの間に僕は死ぬらしい。死ぬのは怖くはなかった。僕は死んだ後、自分が行くべき世界を知っているから。
 だが2000年代も半ばになる頃、まだ長女の志保はパリで留学中だし、次女杏奈も留学準備を進めていた。まだ死ねないと思った。

 2005年5月。僕は東京交響楽団特別演奏会で東響コーラスと一緒に「ドイツ・レクィエム」を指揮した。それは3年後に訪れる自分の死への弔いと、残されるであろう家族への慰めのつもりで指揮した。いや、最近の僕の演奏には全て死への親近感と、生への惜別が込められている。

とうとうその歳が
 人生を区切って生きる事は、僕には必要なことだった。僕は、意志は弱い方ではないが、誘惑に強いかと問われればそうとも言えない。それと、行動力があるように見えて、自分が出世する事に関してのアクションに消極的なのだ。
 それは僕の宗教的な面がマイナスに働いているのかも知れない。つまり人を蹴落として行くようなことに潜在的に罪悪感を覚えているような気がする。そんな僕が横道にそれたりぐずぐず留まったりしないで、しっかり前を見て積極的に生きるためには「期限」が必要だったのだ。
 いろいろ「まだ死ねない」というしがらみを残したまま2008年の誕生日がやって来た。僕の覚悟は出来ていた。一体53歳のいつその日がやってくるのか興味があった。だが、どう考えてもまだ死ぬような気がしない。その時がくる前には、何か感じるところがあるはずだろう。だから遺言も遺書も書く気が起きない。
 いざとなったら、長女の志保が霊感が強いから、もし不意に死んでしまったら、志保の夢枕にでも立っていろいろ妻などへの伝言を伝えればいいやと思っていた。

 その志保は、留学生活を終えて日本に帰ってきていた。そして2008年秋になると、杏奈も突然パリを引き上げて帰国した。これでひとまずきりがついた。親として最低限のことはしてあげたつもりだ。もしここで僕がいなくなったとしても、まあ子供じゃないんだから、なんとか彼女達は生きていけるだろう。ということは、いよいよその日は近いのかなと思った。

 ところが死んだのは僕ではなく親父だった。僕は喪主をしながら、
「ヤバイな。これで僕が続いて死んだら、今度は葬式を出す人がいないぞ。それに新国立劇場からも遠山理事長をはじめいろんな人が香典をくれた。三枝成彰さんも露木茂さんもお花や弔電をくれた。また出させるのは悪いな。」
なんてつまらない心配をした。
 志保の霊感は健在で、親父が死んで葬儀が終わった次の日、自分が死んだことをまだよく理解出来ないで家の中をうろうろしている親父を見た。おうおう、頼もしい奴だ。僕の時も頼むぜと心の中で言った。僕のところにも、親父は夢の中に出てきた。
「あれ、親父、死んだんじゃ・・・・。」
「死ぬもんか。この通り元気だ。」
分かってねえなと言いかけてその言葉を飲み込んだ。馬鹿にしたら死んだ者に失礼だ。その親父も、しだいに自分が死んだことを悟ってきたとみえて、しかるべき世界に帰ったようだ。親父に聞いてみたかったのだけどな。僕の死ぬ予定って、あの世で一体どうなっているのか・・・・。

 さて、僕はいっこうに死なない。3月8日のヨハネ受難曲の演奏会の準備をしながら、
「僕の誕生日は3月3日だから、この演奏会が出来るってことは、約束が反故になるってことだよな。」
と思っていたが、ヨハネ受難曲の演奏会は絶対出来ると何故か知らぬが信じていたのだ。どうやら、神様はこの東京バロック・スコラーズを、僕が作った時から祝福しているようなのだ。演奏会をやるごとに、神様なんだか守護霊なんだか分からないが、天上界で喜んでくれているのを感じる。

「もしかしたら・・・・・・。」
僕はふと思った。もしかしたら、この団体を作ったことが僕の寿命になにか影響しているのではないか・・・・。この団体によってなにか僕の未来は開けたような気がするのだ。うーん、気のせいかな・・・・・。

で、いよいよ血糖値の理由
 さあ、ここからが本題だ。妻は、最近僕が読んだ本を眺めていぶかしげにこう言った。
「なんでさあ、最近奥さんが亡くなる本ばっかり読んでるの?」
いや、別にそんなつもりはなかったのだけれど・・・・そういえば、そうだなあ。そう思っていろいろ考えた。するとあることが分かってきた。

 守護霊の預言は、僕に二つの安心感を与えていたのだ。ひとつは、僕が交通事故で死ぬということは、逆から考えると、「病気では死なない」ということだった。もうひとつは、自分がそんな早く死ぬということは、「妻に先立たれる心配がない」ということだったのだ。
 その安心が2009年3月3日、すなわち僕が54歳になってしまった日にガラガラと崩れたのだ。偶然のいたずらか(僕は偶然とは思わないのだけれど)、妻が3月3日に病院の健康診断の予約を入れた。そこで僕の血糖値が上がっていたことが判明した。
 そりゃあ上がるよ。だって糖尿病の合併症で死ぬ前に、交通事故で死ぬんだったんだもん。だから、全く配慮しなくったってよかったんだもん。だから、だから、好きなもん食って、お酒も飲みたいだけ飲んで、太く短く生きるんだったんだもん。畜生!だまされた!これからは病気で死ぬ可能性だってあるんじゃん。
 そんなわけで、あんなに油断ぶっこいて暴飲暴食に明け暮れていた僕は、検診の結果の日以来、待ってましたとばかりに方向転換し、人が変わったように超優等生の食生活を成し遂げている。この変化に妻はびっくり仰天だ。
「ここまで、出来るんだったら、どうしてもっと早くやらなかったの?」
「だから交通事故で死ぬはずだったんだもん。」
「バッカみたい。」

 妻は、折あるごとに僕に言っていた。
「あたしより早く死なないでよね。一日でもいいから、あたしを看取ってから死んでよね。あたし、淋しいの嫌いだから。」
その言葉を聞きながら、でも、申し訳ないけれど、そうはいかないんだな、と密かに思っていたんだ。
 それが、3月3日を境に変わった。すると今度は妻を残して死ぬんじゃかわいそうだから、僕が看取る側になってもいいかと思うようになった。でも、妻を看取るって、一体どんな感じなんだろう?で、気がつくと、本屋で谷村志穂著「余命」(新潮文庫)や、城山三郎著「そうか、もう君はいないのか」(新潮社)などを買って読んでいた。
 「余命」は、僕が妻に勧めたので彼女も読んだのだが、僕の心境の変化を敏感に感じ取ったわけだ。いや、それより、僕が急にそんな本を読むようになって、もしかしたらあたし長くない命なんじゃないかしら、なんて変な心配していたりして。大丈夫だよ、妻よ。まだまだ二人とも死にそうもない。でも、その日が来たら、僕は一日だけ後で死んであげるよ。

というように2009年3月3日以来、僕の人生はまるでオマケをもらったようなのだ。でもなんだか緊張感がねえな。おい、守護霊!出て来い!次の期限を決めてくれっつうの!
 

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